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空へ  作者: 上田謡子
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6、気配(下)




                    ✝




 仄暗い地下室の祭壇に、彼女は鎮座していた。大人の男のてのひらほどの大きさの身体は、真冬の冷たく引き締まった大気を固めて造ったかのような、きらめく透明だ。長衣をまとい、横すわりの姿勢で、あごを少し持ち上げ遠くを見ている。波のようにうねる豊かな髪は、彼女の華奢な背を覆うほどの長さだった。


 私の右隣で、祭壇の前で、母は冷えた石の床に両ひざをつき、手を合わせて祈っていた。左隣にいる里の長、フローラも同じようにしている。私は二人の真似をして目を閉じ、手を合わせた。


 まもなく、母が立ち上がる気配がし、私はまぶたを開けて母を見上げた。私と同じ金の瞳が、私を見返す。


「シンディ」


 長に呼ばれて、私は声の聞こえた方に顔を向けた。幾つものしわが走る大きな手から垂れ下がったそれに、思わず目を奪われる。


 それは、槍の穂先の水晶だった。


 地上階から落ちてくるシャンデリアの光を受けて、祭壇の動かぬ小さな女と同じ色のそれは、淡い虹色を発していた。




                  ✝




 ユニコーンを操りながら耳を澄ませたシンディは、かすかに聞こえてくる水の音を確認すると、ほっと胸を撫で下ろした。


 四時間あまりの休憩の後、それまでの半分以下のペースでユニコーンを進める間に、日と雲が空を流れ、木々の陰の位置がかなり動いていた。計算上は日没前に間に合うと考えてはいたが、やはり腹の底では不安がうずいていたのだ。


「そろそろ川に出る」


 振り返って小声で言うと、シンディの背中につかまっていたケーリーの顔にも、安堵の色が浮かんだ。だが、明るい表情とはいえない。


 うすうす、勘づいているのだろう。魔獣の危険を避けるため川に近づいてはいるが、その向こうに、ケーリーを連れていく気はないことを。


 やるせないような、後ろめたいような自分の感情を無視して、シンディは再び前を向いた。


 脳裏に、休憩の最中に見た夢の光景が閃く。ホワイトが周辺にいる怖れを考えれば、夢のことなど気にしている場合ではない。それなのに、思い出したように頭の中をちらついて仕方なかった。


 あの夢での出来事は、過去に実際に起こったことなのだという静かな確信が、シンディのなかにあった。


 夢で里の長はフローラだった。今のゲイルが長の座に就いたのが九年前だから、シンディが母と長とともに神殿の地下に降りたのは、五歳か、それより前の時だ。


 そうだ、母が言っていた。母の家系の娘は五歳になれば、母親と長とに連れられて、神様の御前に出向くものなのだと。そして……。


 突然足を止めたユニコーンの急な動きで、シンディは我に返る。途端、目前を横切っていく巨大な水の流れの姿が、視界にわっと飛び込んできた。


 背後のケーリーが息を呑む気配がする。こんな大きな川を見るのは初めてなのだろう。シンディも、自分で目にするのは初めてだった。


――こんなに、穏やかなものなのか。


 山を降る清流や、里のそばを走る支流は、場所にもよるが、荒馬のように流れが速い。それに比べ、今目の前に横わたる大河は、本当に流れがあるのか疑わしいほど、穏やかな顔をしている。


 ユニコーンから降りると、シンディは川岸に立ち左右を交互に見た。どちらも木々が鬱蒼と茂る河畔が延々と続いている。シンディは、目的のものを右の方向に見つけた。ケーリーを乗せたユニコーンを引いて、その方向に足を進める。


 シンディが歩み寄ったそれは、岸辺に立つ岩だった。剣の刃が地面から飛び出しているような形で、一・三イート(約百六十九センチメートル)弱の背丈があるシンディよりも、頭一つ分小さい。真っ赤な太いひもがきつく結ばれたその上には、左を向く矢印が彫られている。


 グエンダ川沿いに、百五十イート(約百九十五メートル)おきに設置されているこの岩を、魔術師たちは〈川守りの剣〉と呼ぶ。この川には間隔をおいて、見張りを兼ねた渡し船の家が九十軒あまり建てられており、矢印は、一番近い渡し船の方向を指しているのだ。


 だが、〈川守りの剣〉の役割はそれだけではない。無断で川を渡ろうとする者があれば、この剣は地面から飛び出し、その者を容赦なく刺し殺すという。また、この剣のそばで人が狼や魔獣に襲われた時には、剣が人を助けてくれるとも言われていた。ここなら仮にホワイトが現れたとしても、さほど心配はない。


 ユニコーンから手をはなすと、シンディは左手を目の高さまで持ち上げた。手首に巻き付いたひもから宙に垂れた透明な水晶が、日の光を反射して淡い虹色に輝く。


 盗人がすでに川を越えたというのはありえなかった。この地で一番速く移動できる生き物といえばユニコーンだが、男と恋をしたことがない娘でなければ捕らえられないそれを、盗人が手に入れているとは思えない。魔獣の騒動で接触はできなかったとはいえ、かなり近くまで接近できたのが今朝、川から六十ジーイート(約九十六キロメートル)の地点。それから十時間弱が経過している。仮に馬を持っていたとしても、十時間で六十ジーイートは不可能だ。このまま川のほとりで待ち構えて、捕らえるかたちになるだろう。


 案外、盗人の近くを通り越してきたのかもしれない。魔獣を避けるのに神経を削りながら、深い森の中を移動してきたのだ。気づかずに追い越した可能性は十分にある。


「約束を守る姫、心を欲する姫、全能の姫、あなたを追う者に、あなたの居場所を示されよ」


 ケーリーの耳に入らぬよう、小声で唱えながら、シンディは胸の高鳴りをおさえきれなかった。


 もうすぐ目的を達成できる。ご神体を無事取り返して戻ったら、里のみなは、死んだ母は、どれほど喜ぶだろう。


 いつものように、見えない糸で引かれているかのような動きで、水晶が動き出す。その次の瞬間、腹の底がすっと冷えた。


 無色透明な光を発し、宙で動き出した水晶の穂先が指しているのは、北西――川の向こうだ。


「……え」


 それ以上、言葉が出てこなかった。


 冷水を浴びせられたような寒気が体中に走り、一瞬、目の前の景色が歪んだ。


 ケーリーの声が聞こえたような気がするが、何を言っているのかわからない。


 ありえないことが起きている。


 ほんの十時間前には、川のこちら側で、「馬ですぐ」の距離にいたはずだ。それが、水晶の光に色がないほど――〈金ノ君〉で半日、よりさらに時間のかかるほど――遠く引き離されてしまっている。


 膝の力が抜け、シンディはよろめいた。右肩にぶつかった何かに、必死に両手をついて寄りかかる。てのひらに、ざらざらとした木の皮の感触がこすれた。


 ――私が追っているのは、何?


 もはや、人であるのかどうかも疑わしい。


 こんなわけのわからないものを、追う意味があるのだろうか?


『しっかりしなさい!』


 突然脳裏によみがえった声にはっとして、シンディは木肌をつかむ両手に力をこめた。固くささくれだった表皮が皮膚に刺さる。


 ちょうどこのくらいの季節、山道で足が止まってしまい、今と同じように木にしがみついたシンディを、母がそう叱咤したのは、いつのことだろう。


『しっかりしなさい。里のためにも、あなたのためにも。それに、シンディがしっかりしてくれたら、里のために働いてくれたら、お母さんも、嬉しいの』


「お母さん……!」


 奥歯を噛みしめ、シンディは前を見た。川の彼方の対岸を。


 ぽつぽつと立つ木々や、建物らしき影が連なっている、玩具のように小さな姿が、シンディの金の瞳に像を結んだ。


 ここから向こうの川岸まで、少なくとも三ジーイート(約四・八キロメートル)はあるだろう。


 川を越えるには、〈川守り〉たちの許しを得るには、どうすればいい? ご神体のことを、里の秘密の神のことを話すことは禁じられている。


 里のために、お母さんのために、盗人を追い続けるために、私はどうすればいい?


 手段を選んではいられない。


「ケーリー!」


 振り返らないまま、声を張り上げる。大気が熱かった。ゆっくりとではあるが、とどまることなく流れ行く目前の大河と、己の身体の赤い血潮が重なったように思われた。


「川を越える! 越えるにはあなたがいる! 一緒に、来い!」


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