5、気配(上)
早朝の森の冷気が肌に沁みる。水の匂いが鼻についた。朝靄に浮かび上がる木々の間を縫って、シンディはユニコーンを駆る。土を蹴る規則正しい蹄の音が大気を打ち、シンディの鼓膜を揺すった。
アリスのもとを発ってから、もう五時間ほど経つだろう。ユニコーンの背にずっと揺られているためか、尻に鈍い痛みがあった。
ふと、シンディはユニコーンの歩をゆるめ、背後を振り返る。あるのは、丈夫な縄で固定された、村から頂いた食料や水、お金の入った包みと、里から持ってきた小ぶりの鞄だ。
それが今、動いたような気がした。
――そんなばかな。
半信半疑で、シンディはゆっくりとユニコーンを止めた。どのみち、方角の確認と休息のために、そろそろ一度立ち止まっておかねばならない頃だ。
ユニコーンから降りると、シンディはおそるおそる鞄を下ろし、中を開けた。特におかしなところはない。入っているのは自分で里から持ってきた、短剣や縄、小瓶、水筒などばかりだ。
続けて、シンディは包みをユニコーンの背から下ろした。その瞬間、違和感に気づく。村長夫人は食料と水とお金を提供すると言っていたが、それにしては、この包みはあまりに重すぎる。
身構えながら包みを開けたシンディは、すっとんきょうな声を上げた。
「ケーリー!」
開いた包みの中から現れたのは、食料でも水でもなく、ホワイトを見たという金髪の少年、ケーリーだった。もともと小柄な身体をさらに小さく丸め、包みの中にごろりと横になっている。
「え、ちょ、な、どういうこと」
混乱するシンディの前で、ケーリーはばっと起き上がった。
「すみません!」
ケーリーは身をひるがえして地面に両手をつくと、深々と頭を下げた。
「村長も村長夫人も、何も悪くありません! 村長が用意してユニコーンにくくりつけてた荷物に、僕が勝手にもぐりこんだんです!」
なおもあんぐりと口を開けたままのシンディに、ケーリーはまくしたてる。
「シンディさん、北西へ行くんですよね! お願いです! 僕を、川の向こうの町まで連れていってください! お願いします!」
川の向こうの町まで、という言葉に、シンディは眉を上げた。
「それは……グエンダ自治区を出たい、とでも言うつもり?」
かたい表情で、ケーリーはうなずいた。
ここアーデン王国には、領土の南部の山々から南西部の河口へと、国を斜めに横切るように、グエンダ川と呼ばれる大河が流れている。だが、グエンダ川の南側、国土の十分の一の面積を占める土地は、アーデン王国であってないようなものだ。国に年貢を納めてはいるが、自治権は、古代の大魔術師グエンダを祖とする魔術師たちの手にある。
魔術師でなければ、グエンダ自治区の住民は、川を越えることを許されていない。また、たとえ魔術師であっても、大魔術師グエンダの血を引く特権階級ででもない限り、〈川守り〉と呼ばれる川の番人の許しが必要だ。
「古い掟を破るつもり? そんなことが許されると思ってるの?」
シンディは思わず声を荒げたが、対峙するケーリーは、顔色を変えなかった。地面に両手をついたまま、ケーリーは面を上げる。まっすぐな青い瞳に、一瞬、シンディはたじろいだ。
「……僕は、川の向こうにあるという、学院に行きたいんです」
熱のこもった、それでいて、どこか大人びた調子で、ケーリーは話しだした。
「学院というのは、試験に受かりさえすれば誰でも入ることができ、思う存分、ものを学べる場所なのだそうです。僕のおばあちゃんは本当に物知りで、僕は色々なことを教わるのが大好きでした。でもおばあちゃんも、全てを知っているわけではありません。僕は、もっとたくさんのことを、おばあちゃんも知らないことを知りたいんです。そのために、学院に行きたいんです。お願いします。僕を、川の向こうに、連れていってください。僕一人では、通してもらえないでしょうけど、魔術師の連れ、ということなら、きっと向こう岸に行けます」
お願いします、と言いそえ、ケーリーはもう一度、頭を下げた。
理解できない、と思う。川の向こうではどうなのか知らないが、掟は魔術師にとっても、そうでない者にとっても、絶対のもののはずだ。それをこの少年は、自分の望みのためにと、あっさりと破ろうとしている。
甘い考えだ、と嘲笑うこともできた。そもそもあの川は、魔術師の連れというだけで渡れる代物ではない。自身が魔術師であるシンディでさえ、〈川守り〉の許しを必要とするのだから。
だが少年の心の、考えの、行動の、その根っこにあるものに、うっすらとした懐かしさがあるのを、シンディは、否定できなかった。
「……私は」
迷いがなかったわけではない。この少年の望みは、絶対に不可能、というものではなかった。二度と故郷に帰らない腹積もりと、手段を選ばない覚悟があれば。
シンディは自らの頭に両手を伸ばすと、髪をきつく結び直した。
「私は、川を越えない」
さっと青ざめたケーリーから目を背け、シンディは腰を上げた。ケーリーから距離をとりながら水晶の首飾りを外し、そのひもの部分を左の手首に巻き付け、透明な水晶を宙に垂らして呪文を唱える。光を放ち始めた水晶がひとりでに震え、動き、北西を指し示した。その色を確認したシンディは、腰の左に挿した杖に右手で触れる。
「ここで待ってて。獣除けのまじないをかけてあげるから、狼や熊に襲われる心配はない。昼までには必ず戻る。そうしたら、あなたを村まで送る」
「待ってください!」
せっぱつまった声で立ち上がったケーリーに、シンディは腰から抜き放った杖を突きつけた。気圧されたように一歩身を引いたケーリーを正面からにらみ、口の中で呪文を唱える。獣除けの魔術だ。
「ここで、待ってて」
噛んで含めるようにもう一度命令すると、シンディはきびすを返し、ゆったりと草を食んでいるユニコーンに歩み寄った。近づいてくる気配に気づいたのか、ユニコーンが頭をもたげ、こちらに目を向ける。その頬を抱くようにして、シンディはユニコーンと額を合わせた。触れた肌は温かい。シンディの頭にこつりと当たった角は、ひやりと冷たかった。
「ごめんなさい。無理をさせて申し訳ないけど、もう少し、走れる?」
しばしの間を置いて、ユニコーンはうなずいた。ありがとう、と礼を述べ、その背にひらりとまたがる。今までは荷物も乗せていたが、ここからはシンディ一人だ。ユニコーンにかかる負担は軽くなる。その脚は、今までより速いだろう。
光を失いつつある水晶は、海原のような真っ青な色をしていた。馬ですぐ、の距離だ。
何かが胸につかえている。しかし、それでもシンディは、ユニコーンの腹をかかとで突いた。
視界を、世界を、無数の木々が後ろへ、後ろへと流れていく。
この感情は何だろう、と思った。てのひらにあったものが、指の間をすり抜けて落ちていく様を、ただ見つめているかのような。
不思議な感覚に囚われてユニコーンを駆っていたシンディは、ふと、気づいた。
ひっきりなしに聞こえていたはずの鳥の声が、ない。
突然、体中の鳥肌が立ち、全身の筋肉が、弓の弦のように張り詰めた。
悲鳴のようないななきを上げたユニコーンが、白銀の身体を反らせて棒立ちになる。振り落とされまいと、シンディはとっさに股に力をこめ、その首にしがみついた。
「どう、どう、落ち着いて、大丈夫、私がいる、魔術師がいる、落ち着いて、どう、どうっ……!」
低くおさえた声でなだめるシンディの胸は、激しい動悸ではち切れそうだった。ユニコーンの首を撫でる手の震えが、止まらない。
何か恐ろしいものがそばにいる。
ようやく前脚を地面に下ろしたユニコーンの背で、シンディは腰布から杖を引き抜いた。昨日の夕刻に村で使ったのと同じ呪文を唱えながら、杖を高くかかげる。
杖を通じて感じた気配は、記憶に新しいものだった。あの村の魔除けの柵の向こう側にあった魔力の残り香と、同じものだ。
もしも人食い竜のホワイトだとしたら、と考えると、歯の根が合わなかった。一人でホワイトと対峙することになれば、なすすべもなく食い殺されるしかないだろう。
身体の芯が冷えるような恐怖と戦いながら、シンディは必死で頭を巡らせた。
ホワイトは人食いだという。獣を襲って食べたというような話は聞いたことがない。ユニコーンのような魔獣も、自分の意志でわざわざ探して襲うということはないのではないか。さっきこのユニコーンがパニックに陥ったのは、強い魔獣の気に突然あてられたからだ。
静かにゆっくりと、シンディは杖を腰に戻した。呼吸を整えて上体を倒し、ユニコーンの背中にぴたりと身を伏せる。
――私は、この子の一部。私は、この子の一部。
ひたすら念じて心を静めながら、シンディはまぶたを閉じた。肌に伝わってくる、ユニコーンの体温と心臓のリズムに、肩の力を抜いて身をゆだねる。
気配をできる限り消して、魔獣をやり過ごす。それ以外、生きのびる方法が思いつかなかった。
どのくらいの時間が過ぎたのだろう。唐突に、キュイッ、という鋭く高い音が、シンディの意識に飛び込んできた。鳥の鳴き声だ。それが合図だったかのように、シンディの中で張り詰めていた糸がゆるんだ。石像のようにじっとしていたユニコーンが数度足踏みし、ブルルル、と身震いする。
ため息を吐いて、シンディは伏せていた身体を起こした。森に音が戻ってきている。どうにか魔獣をやり過ごせたようだ。
――問題は、これからか。
下手に動いて、再び魔獣に近寄ってしまう事態は避けたいところだった。それに気がかりなのはケーリーだ。魔獣がどこにいて、どこに向かったのか定かではないが、最悪の場合を考えると、居ても立っても居られなかった。
手綱を握り直すと、シンディはユニコーンの向きを変え、もと来た道をゆるやかな足どりで戻り始めた。一刻も早くケーリーの無事を確かめたい気持ちをおさえながら、神経を張り巡らせて歩を進める。速度が上がれば上がるほど、魔獣の気配に気づくのが遅れる。どこに魔獣がひそんでいるのかわからない以上、危険は冒せない。そのことは十分に理解していたが、どうにも歯がゆかった。術を使えば魔獣のいる方向はわかるが、同時にこちらの魔力で自分たちの位置を知らせることにもなってしまう。呪文で盗人の方向を確認するのも危ないだろう。
ようやく、草葉の向こうに金色の頭を確認すると、シンディの肩から力が抜けた。
「あっ」
こちらに気づいたらしく、木に寄りかかって地面に腰を下ろしていたケーリーが勢いよく立ち上がった。慌てて、シンディは口に人差し指をあて、しーっ、と合図する。きょとんとするケーリーの前で、シンディはゆっくりとユニコーンから降りた。
何か言いたげなケーリーを制して、シンディは小声で囁く。
「状況が変わった。ひとまず、一緒に来て」
ぱっと顔を輝かせたケーリーに、シンディは胸が痛んだが、きちんと説明する余裕はなかった。とにかく今は、ケーリーとともに安全な場所へ移動するのが先決だ。ホワイトは夜に力を増すという。日が暮れる前に川のそばに出るのが最善だろう。グエンダ川のほとりには、〈川守りの剣〉があるはずだから、その付近にまでたどりつけば何とかなる。
考えを巡らせていたシンディは、ふと隣に立つユニコーンに目を向けると、はっとした。汗ばんだ首を垂れたユニコーンの息が、荒い。
当然と言えば当然だった。普通の馬とは比べ物にならない速度と体力をもつユニコーンだが、駈け足を五時間も続けたら疲れるのが当たり前だ。そのうえ、先ほど魔獣の気にあてられた時には、神経をかなり削られただろう。
空を見上げ、シンディは太陽の位置を確認しようとした。鬱蒼とした木の葉に隠されてわかりにくいが、日没まで十時間以上はある。まぶたを閉じて、頭の中に地図を思い描いた。グエンダ自治区の地図だ。
――自治区の、南東寄りの中央にあるアギソン村から、ユニコーンを北西に走らせておよそ五時間、約百二十五ジーイート(約二百キロメートル)。今私たちがいるのは……自治区の北部。
このまま北西に六十ジーイート(約九十六キロメートル)ほど進めばグエンダ川に出るはずだ。ユニコーンの駈け足であれば二時間半で着くが、休ませてから出発するにしても、今までと同じペースでこれ以上走らせるのには罪悪感があった。ユニコーンは、乙女のためなら死ぬまで駆け続けると言われる。五時間も走ってなお横になろうとする様子を見せないのは、シンディがいるからだろう。
シンディは荷物を開け、水筒を取り出すと、ケーリーに一口飲ませ、自分も一口飲み、残りは全てユニコーンに飲ませた。やや眠たげにまばたきをするユニコーンの鼻づらを撫でながら、優しく囁く。
「休憩にするから、眠りなさい。私が、そばにいるから」




