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空へ  作者: 上田謡子
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4、跡(下)




「気がついたら、僕は家のベッドに寝ていて、朝になっていました」

 

 昨夜化け物を見つけ、そして化け物に見つけられるまでを語ると、小柄な金髪の少年はそう言葉を続けた。


「僕は慌てて、両親とおばあちゃんに化け物のことを……ホワイトのことを話しました。両親はびっくりして、村長にことを知らせに行ったのですが、おばあちゃんが、お前の言ってることはおかしい、ただ怖い夢を見ただけじゃないか、と言ったんです」


「夢に決まっている」


 少年の隣の席に腰かけた老女が、強い口調で断言する。


「もし本当にこの子がそれを見たのなら、今生きているはずがない」


 みながいるのは、村長宅の居間だった。テーブルについているのは、ケーリーという少年と、ケーリーの祖母のイーニッド、村長、それにシンディだ。


 イーニッドの鋭い灰色の目が、斜め向かいのシンディに向けられる。


「〈月刀ノ里〉のお方。魔術師ならご存知だろう。うちの孫が見たという化け物、ホワイトは人食いだ。この子がそれに出会ったとして、生きて帰れるはずがない。気がついたら朝のベッドにいた、というのもおかしな話だろう。狼の死体も見つからなかった」


「ですが、しかし」


 口を挟んだのは村長だった。丁寧にまとめられた茶色の長髪を撫で、淡い水色の瞳に不安を揺らしている。


「夢なら良いですが、もし本当だったら、と考えると、何も手を打たないというわけにはいかんでしょう」


「夢に決まっている。〈月刀ノ里〉に助けを呼ぶ必要などない」


 イーニッドは、一歩も引く様子を見せない。眉根を寄せ、困った様子の村長が、助けを求めるようにシンディを見た。


「シンディさんは、魔術師として、どうお考えですか?」


「私は……」


 シンディはあごに手をあてた。


 イーニッドが言うことは尤もだ。ケーリーが本当に、人食い竜として知られるホワイトと遭遇したのだとすると、矛盾点が多い。だが、もし本当にホワイトが村の近辺にいるのだとしたら、と不安になってしまう村長の気持ちも、わからなくはなかった。それにおそらく、不安を抱えているのは村長だけではない。ここまで案内してくれた農夫のジョンが、例のあれ、と言う時だけ声をひそめていたのが思い出される。


「では私が、この村のそばに悪いものがいないか、調べましょう。調べるだけならすぐに済みますし、お代は、先ほど夫人にお願いしたものだけでけっこうです。いなければそれでよし。もしいたら、里に助けを呼びましょう。本当にホワイトがいるとすれば、私一人で退治するのは無茶ですから」


 こちらの言葉に、村長とケーリーが納得したようにうなずき、礼を述べる。だがイーニッドは、不満げに顔を歪めた。


「必要はないというに」


「イーニッドさん、いいじゃないですか。一応念を入れておく、ということで」


 村長がなだめるが、イーニッドは鼻を鳴らすと、杖を握って椅子から立ち上がった。


「あたしは帰るよ」


 つっけんどんな口調で言いながら、イーニッドは曲がった腰で玄関の方へと歩いていく。足は悪くなさそうなところを見ると、腰が痛むか、思うように動かないかのどちらかだろう。


「すみません、シンディさん」


 イーニッドが去ると、村長が頭を下げた。


「いつもは、あんなとげとげした方ではないんですが……今日は朝からあんな感じで」


「いえ、いいですよ、そんな」


 シンディは首を振った。


「さっそくですが、悪いものがいないか、調べさせていただけますか」


「ええ、ぜひ、お願いします」


 村長は再び頭を下げた。


 ドードーの杖を腰布から抜き、一人外に出ると、西の空は茜色に染まっていた。日が落ちる前に終わるといいけど、と考えながら、杖を両手に持ちかえて高くかかげ、呪文を唱える。


 はじめ、シンディは何もいないと思った。悪いものは何も。だがすぐに迷いが生じた。


 ――どういうこと?


 西北西の方向から気配を感じるが、あまりにも反応が弱い。いや、というよりは、気配はあるが、そこに悪いものがいるという感じがしない。


 ある予感が、シンディの胸を横切った。杖を高くかかげたまま、太陽が落ちていくのと、ほんの少し右にずれた方角へ、歩を進める。


 民家や牛舎を抜けて歩き続けるうち、シンディは村のはずれに出、村を囲う柵に行く手を阻まれた。そこまできて、シンディは理解した。


 力の強い魔物や悪霊が現れた場合、それが去った後でも、その強い魔力が、足跡のように、現れた場所に残ることがある。


 それがホワイトなのかどうかはわからない。だがここに何かがいたことは間違いなかった。シンディの前をふさぐ柵の、すぐ向こう側、森の入り口に。


 村を囲う木の柵はただの柵ではない。〈月刀ノ里〉が村のために作った魔除けの柵だ。魔物はこの柵を越えることはできなかったのだろう。


 他に何か手がかりはないかと周囲を見まわしたが、あるのは、村人のものと思われる足跡だけだった。柵のすぐそばまで足を運び、引き返したようだ。引き返した時の足跡が、柵に近寄る際のものより少し深いのを見ると、柵ごしに何かを受け取って戻ったのだろう。


 日が落ち、夜の帳が降りようとしている。身震いを一つすると、シンディは村長宅へと踵を返した。




                    ✝     




 ここはどこだろう、と思った。


 視界は乳白色に覆われている。私は、誰かに手を引かれて歩いている。


 ――ああ、そうだ、ここは、里だ。


 そう気づいたとたん、空の雲が切れるように意識がはっきりとした。


 辺りが白いのは、濃い朝霧に包まれているからだ。ゆっくりと注意深くであれば、一人で歩くこともできなくはなさそうだった。だが、母の手を離す勇気は、なかった。


 温かかった。私の右手を包む、母の左手のぬくもりは、何よりも心強い。


 母の方に目をやると、ちょうど、私の目の高さにある母の腰布にはさめられて、ドードーの頭の杖が、母と私の歩調に合わせて揺れていた。


「シンディ」


 前を向いたまま、母は私の名を呼んだ。私の右手を握る、母の力が強くなる。


「大丈夫だからね」


 母は言った。

「わからないことがあっても、不安なことがあっても、信じていれば、大丈夫だから。私もお母さんから、そう教わったの。そしてあなたも、教えるの」




                   ✝




 肩を優しく揺さぶられて、シンディは目を開けた。暗闇の中、目の前に立つ誰かが、蝋燭をかかげている。


 母はどうしたのだろう? ここはどこだろう? 私は母と一緒に歩いていたのではなかったか? 


 真っ先にそう思ったシンディだったが、頭の中の、散らばった思考と記憶がまとまっていき、形を成すと、はっと我に返った。


「時間ですか?」


 ベッドのわきに屈みこんでいる、自分を起こしてくれた夫人に小声で尋ねると、夫人はうなずいた。


「準備は全部できてるわ。もちろん、あなたに頼まれていたものも。いつでも出発できるわよ」


「ありがとうございます」


 礼を述べて、シンディは寝具から身を起こした。


 昨日、シンディは村の中はもちろん、柵の外の森も、魔法の杖を手に歩いてみたが、魔力の残り香がするだけで、魔物そのものの気配は感じとれなかった。


 ホワイトなのかどうかははっきりしないが、魔物が現れた痕跡がある。だが、もうすでに遠くに去ったようだ。


 それが、シンディが村長に伝えた結論だった。村長は微妙な顔であごに手をやり、それはもう大丈夫ということなのか、と問うた。


 少なくとも、今その魔物がどこにいるのか探知できないほど遠くにいるようだから、当面は大丈夫だろう。シンディがそう答えると、村長はほっと安堵のため息をつき、感謝の言葉を述べた。


 早く盗人を追いかけたくはあったが、身体は疲労を訴えていた。里から鹿を飛ばして山を越え、村まで来るまでの二日間で、二時間しか寝ていない。休む必要がある、と判断したシンディは、四時間だけ眠らせてほしい、そして起きたらすぐ出発できるよう、村長夫人に頼んだものを用意しておいてもらえないか、と村長に頼んだ。快く引き受けてくれた村長は、寝る前に湯浴みと食事はどうか、とまで言ってくれた。その好意に甘え、湯浴みで身体の汚れを落とし、温かい夕食で腹を満たした後、村長宅の温かいベッドで眠り、今にいたる。湯浴みの最中、耳からドードーのピアスがなくなっていることに気づき胸が痛んだが、どうしようもなかった。


 出る支度をしながら、シンディは、さっき見た夢の内容を思い起こす。


 ただの夢、という気がしなかった。本当におぼろな記憶だが、実際にあんなことがあったような気がする。


 あの時、私は母と一緒に、どこへ向かっていたのだろう。


 思い出すことができないまま、悶々として支度を終えたシンディだったが、一歩外へ出ると、考えていたこと全てが吹き飛ばされてしまった。


 それは、美しい光景だった。


 あるかなしかの、空の切れ目のような銀の三日月の下、うら若い乙女に連れられて、それは立っていた。真冬の雪原の毛並みに、若木の四肢。湖面を思わせる透き通った水色のたてがみと、どこか懐かしさを感じさせる黒い瞳。額から伸びた天を指す一本の角は、乙女のかかげる松明の灯りと月光とを受けて、つららの如く輝いている。


「ユニコーンを捕らえるのには、男と恋をしたことのない乙女を、というけれど、特にあの娘は、ユニコーンをよく惹きつけて。扱いも上手いの」


 いつの間にか隣に立っていた夫人が言い終わらぬうちに、ユニコーンを連れた娘がこちらを見た。シンディと娘の目が、ぴたりと合わさる。


 その瞬間、シンディは不思議な思いに囚われた。胸の底が、静まり返っていながら泡立っている。時間が止まり、世界にはシンディと、翡翠の瞳のその娘以外、誰も存在しなかった。娘の方へと、シンディの足が一歩、引き寄せられる。


「シンディ?」


 訝しげな夫人の声で、シンディは、はっと夫人を向いた。

「は、はい、えっと……何ですか?」


「いえ……ただ、今あなたが一瞬、あなたではないように見えたから……ごめんなさい、変なことを言ってるわね。ユニコーンの背の鞍の後ろに、荷物がくくりつけられてるのが見えるでしょう? あなたが持ってきていた荷物と一緒に、わずかだけれど、食料と水とお金を積んでおいたの。使ってちょうだい」


「えっ、でも、そんな」


 思わぬ心遣いにおろおろとするシンディを、夫人は制した。


「遠慮しないで。早く出発なさい。急いでいるのでしょう?」


「……ありがとうございます!」


 頭を深く下げて一礼すると、シンディは、ユニコーンに駆け寄り、その大きな白い背中にひらりとまたがった。


 馬とよく似た、しかし、どこかが異なる、この世の裏側から響くような声で、ユニコーンがいななく。その首を左手で軽く叩いてやりながら、シンディは首にかけていた水晶を右手で持ち上げ、小声で呪文を唱えた。


「約束を守る姫、心を欲する姫、全能の姫、あなたを追う者に、あなたの居場所を示されよ」

 夜の闇に溶けていた水晶が色を帯びて震え、その穂先が、月とは反対の方向を向く。


 ――北西。


 水晶の放つ光は、深い青色をしていた。


 どきり、と胸が大きく脈打つ。


 ――太陽が真上に昇る前には、確実に追いつく。


 深い青、海の色は、〈金の君〉に乗って半日の距離だ。〈金の君〉より速く長く走れるユニコーンであれば、夜明けには盗人の姿を見ることができるかもしれない。


 やがて光を失い、先端を下に垂らした水晶を首にかけなおすと、シンディは、ユニコーンのかたわらに立つ娘を見下ろした。松明をかかげてこちらを見つめる顔は、同い年くらいに見える。背に流した艶やかな髪は、シンディの瞳と同じ金色をしていた。清流の川底を思わせる翡翠の目に、シンディは、自分というものが吸い込まれそうな気がした。


「……名前は」


「アリス。あなたは?」


 知らず知らずのうちに、シンディは尋ねていた。それを予期していたかのように、娘は即座に答える。こちらの気が引き締まるような、凛とした声だ。


 夢のなかにいるようだった。感覚を取り戻そうと、シンディは手綱を強く握り締め、ユニコーンの腹をかかとで蹴った。月夜を震わせていなないたユニコーンが、北の門の方へと走り出す。気づけば、シンディは震える声を張り上げていた。


「シンディ、私はシンディ。きっと……きっとまた、あなたに会う」


 村が、アリスが遠ざかり、月夜と森の奥に小さくなっていく。シンディは、なかなか目線を前に向けることができなかった。




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