3、跡(上)
シンディが里の北西の山を越えた時には、太陽は南東にあった。昼より少し前くらいだろう。ご神体が盗まれてから、一日と半日が経とうとしている。
木々が豊かに繁る森のなかで、シンディは大柄な金色の毛並みの牡鹿の背からひらりと飛び降りた。
「ここまでありがとう、〈金の君〉」
礼を述べて、シンディは懐から布の袋を取り出す。袋から出てきたのは木の実だった。それを牡鹿に食べさせたところで、もう行ってよし、と〈金の君〉の背中をぽんぽんと叩いた。小さく鼻を鳴らし、牡鹿はゆっくりとした足どりで山へと戻っていく。
黄金の毛並みと、普通の鹿よりひと回りもふた回りも大きな体躯を持つこの鹿を、〈金ノ君〉と魔術師は呼ぶ。自由を好むこの鹿は飼い鳴らすことはできないが、非常に賢く、また優しいこの生き物は、心得のある者ならその馬のように広い背に乗せて運んでくれるのだ。
〈金の君〉の後ろ姿を見送ると、シンディは首飾りを外した。太めにしつらえた麻のひもに、槍の穂先の形の透明な水晶がついている首飾りだ。
ひもを右手に持ち水晶を宙に垂らすと、シンディは小声で唱えた。
「約束を守る姫、心を欲する姫、全能の姫、あなたを追う者に、あなたの居場所を示されよ」
シンディの声に応えるように、水晶が青色と空色の間のような色合いの光を発し、震え始める。見えない糸で引かれているかのように動き出した水晶は、槍の穂先をある方角へ向けた。北西だ。
まもなく光を失って動かなくなったそれを、シンディは再び首にかけた。
水晶は神殿の壁にかけてあったものだった。万が一ご神体が奪われた時には、この水晶を道しるべに用いるように、と教わっていた。呪文を唱えれば、先端がご神体のある方角を指す。発する光の色でおよその距離までわかるという。
「若葉の色で鼻の先、海の色は馬ですぐ、空の色は〈金ノ君〉で半日、色のなきはそれ以上」
つぶやいて、シンディは顔を曇らせた。さっきの光は深い青――海の色――と、空色の中間だった。追う相手との間にはまだ、馬に乗ってもすぐには追いつけないほどの距離がある、ということだ。人を乗せることができ、〈金ノ君〉以上の速さで山を走れる生き物など聞いたことがない。盗人がいったいどんな移動手段を用いているのか、見当がつかなかった。
気になることはもう一つあった。足跡だ。
水晶の指す方向に逃げているのであれば、山の中にその痕跡が残るはずだ。実際、里の出入り口付近までは、シンディは神殿から北西の山へと向かう足跡を追ってきたのだった。
足跡は多くを語る。シンディはその歩幅や深さから、盗人が身長百七十キート(約百八十七センチ)前後であること、自分の足で走って逃げていること、おそらく男性であることを割り出していた。だがその足跡は、里を出て山に入ったすぐの地点で唐突に途切れてしまった。まるでそこまで走ってきた人間が、突然消えてしまったかのように。
困惑したシンディだったが、とにかく追わなくては、という衝動に身をゆだね、道しるべの水晶をたよりにここまで来たのだった。
ここから五時間ほど歩けば、昔から〈月刀ノ里〉と親交の深いアギソン村がある。シンディは、その村に盗人が立ち寄っているかもしれないと推測していた。山越えで疲れた身体を休ませたり、この先逃げ続けるための食料を調達したりしている可能性がある。
そんなことを考えながら森を歩いていたシンディの頭に、一つの心配ごとが浮かび上がった。
このまま北西の方角に進み続けると、グエンダ川と呼ばれる大河に出る。普通の川ではなく、越えるためには〈川守り〉と呼ばれる人々の許しが必要な川だ。できるだけ川より手前で目的を果たしたいところだった。川を越えるとなると、許しを得るための策が必要になる。
何はともあれ、はやく先に進まなければならない。
――〈魂の母〉クェーサル、〈魂ノ父〉フィンタンよ、どうか、私に加護を。
つかの間まぶたを閉じ、シンディは祈った。
人とは、〈魂の母〉なるクェーサルと、〈魂ノ父〉なるフィンタン、二柱の精霊の間に産まれた魂と、人が産む肉体との二つが合わさったものなのだという。シンディには、というよりこの地の人々には、クェーサルとフィンタンに祈りを捧げる習慣があった。川の向こう、アーデン人の地にもその信仰はあるそうだ。
やがて、シンディは森を抜けた。ぽっかりと切り開かれた平地に、人家と畑とをぐるりと囲う木の柵が横たわっている。日が傾き始めるなか、一台の荷車が通れるほどのはばの門を通り村に入ると、両側に畑の広がる道がまっすぐに伸びていた。視線を上げて畑を見まわすと、農夫たちが野菜の収穫で忙しく立ち働いている。この時期だと春先に植えた作物の収穫だろう。
「お、〈月刀ノ里〉の方じゃねえか!」
突然の大声に、シンディは足を止めた。見ると、畑の方から茶の髪に青の瞳の大柄な中年の男が歩いてくるところだった。この村の農夫だろう。今のシンディは、赤毛に白波の模様のマントをまとった姿だ。ひと目で〈月刀ノ里〉の人間だとわかったに違いない。
「良かった! 今ちょうど、〈月刀ノ里〉に助けを頼みに遣いをやるかと、村長が頭を悩ませてるらしいんですよ! 案内しますんで、村長の家に来てくだせえ!」
「え、いやその、私は」
急いでいるので、と断ろうかと思ったシンディだったが、ある考えが頭をよぎり、口をつぐむ。
〈月刀ノ里〉は古くから魔術師の里として知られ、近隣のあちこちの村から頼りにされてきた。村の医術師ではどうにでもできない病人が出たり、不可思議な災難が続いたりすると、〈月刀ノ里〉に伝書鳩を飛ばして助けを求めてくるのだ。〈月刀ノ里〉はそれに応えて魔術師を派遣し、問題を解決する代わりに塩などを恵んでもらう。この関係によって、〈月刀ノ里〉が得ているものは大きかった。周囲を囲う山々のおかげで食べ物にはあまり困らないが、塩は外部から入手するしかないのだ。
その関係の下地にあるのは、村人の〈月刀ノ里〉への信頼だった。〈月刀ノ里〉の印象を悪くしかねない真似は避けなければならない。ここで無下に断ると、「こっちは困っているのに冷たくされた」と思われかねないだろう。
それは里の誰も、亡き母も喜ばないことだ。
期待のまなざしでこちらを見つめる農夫に、シンディはうなずいた。
「わかりました。村長からお話を聞きましょう」
「ありがてえ! いや本当に、いつも助けてもらって、いくらお礼を言っても足りねえくらいですよ! あ、いっけねえ、まだ名乗ってませんでしたね。あたしはジョンっていいます。ジョン・サウスフィールドです」
「〈月刀ノ里〉のシンディです。こちらこそ、今まで多くのものをお恵みいただいて、助かっています」
ジョンに案内されて、シンディは畑を抜け、木造の民家や厩の並ぶ村を歩く。人影は少なかった。村人のほとんどが、畑や森で働いている時分なのだろう。
「あ、そうだ」
聞かなければならないことがあったのを思い出し、シンディは足を止めぬまま、ジョンに尋ねた。
「最近この村に、〈月刀ノ里〉の方角から誰か来ませんでしたか?」
「ああ、来たらしいですよ! あたしは噂を聞いただけで見ちゃいませんけどね。昨日の昼より前くらいに、男が一人、山越えで疲れてるから休ませてほしいと言って、ウッドの家の世話になったって話ですよ。ああ、ウッドってのは、村の西の端に住んでる木こりのことでしてね」
ジョンの返答に、シンディは耳を疑った。
「昨日の、昼……? 昨日の昼にこの村に来たんですか?」
「ええ、そう聞いてますよ」
――そんなばかな。
シンディの背中を、冷たい汗が流れる。
ご神体を盗まれたのが一昨日の夜だ。その犯人が昨日の昼にここについたとすると、盗人は半日で山を越えたことになる。山に慣れた〈金ノ君〉を乗りこなしてきたシンディが、一日半かかった山を。
――私は、何者を追ってるの?
「大丈夫ですかい? 顔が青いですよ、〈月刀ノ里〉のお方」
「ああ、いえ」
言葉を濁して、シンディは質問を重ねた。
「それで、その昨日の昼頃ここに来た男は、今どこに? それと、その旅人が、何か乗り物になる生き物を連れていたか、わかりますか?」
「特に、何か連れてきてたとかいう話は聞いてないですよ。もう村を出ていっちまったらしいんで、居場所はさっぱりです。急いでるからとか言って、昨日の夜に出ていったとか。それにしても、何でそんなこと聞くんですかい? それにそういや、何の用事でうちまで来たんです?」
「ああ、いや……」
盗人を追っているとは言えなかった。言えば、いったい何を盗まれたのかと聞かれるだろう。〈月刀ノ里〉の神様の存在は、外部に知られてはいけないものだ。
「お、着きましたよ」
どう説明したものかと考えていると、ジョンがそう言って立ち止まった。ほっと胸を撫で下ろしながら、目の前の建物を見上げる。二階があることと、少し大きいことをのぞけば、通り過ぎてきた民家と大差はない。
ここに来るのは三回目だった。十一歳で魔術師としての訓練が一区切りついた折、新人魔術師としてあいさつに来たのと、十三で勉強のために悪霊退治の仕事に同行した時だ。
「村長さーん! ジョン・サウスフィールドです!」
ジョンが大声で言いながらドアを叩くと、向こう側から靴音が近づいてくる気配がした。ドアが開かれて出てきたのは、白髪の混じったブロンドの髪の女性、村長の奥さんだ。かっぷくが良く温厚そうな顔立ちだが、動きがきびきびとしている。
「あら、ジョン、こんにちは。後ろの方は……」
こちらに目をやったかと思うと、女性は、まあ、と感嘆の声を上げた。
「シンディじゃない! 久しぶりね!」
「お久しぶりです、村長夫人」
頭を下げながら、シンディは内心驚いていた。夫人とは今まで二度しか顔を合わせておらず、最後に会ったのは一年近く前だ。村長夫人として、多くの〈月刀ノ里〉の魔術師たちと顔を合わせている夫人が、二度会ったきりの娘一人を覚えているとは思わなかった。
シンディのそんな驚きをよそに、村長夫人はからからと笑った。
「嫌ね、そんなにかしこまらなくってもいいのよ。何か用事? こちらからはまだ、お呼びしていなかったと思うけど……」
「あたしがお連れしてきたんですよ」
首を傾げる夫人に答えたのは、ジョンだった。
「畑仕事をしていたら、お見かけしましてね。ほら、例のあれの話があったんで、ここまでお連れしたんですよ。いやまあ、魔除けの柵があるんで、みんな、一応落ち着いちゃいますがね」
例のあれ、と言う時だけ声をひそめたジョンに、シンディは嫌な予感がした。
――何か、悪いものが出たかな。
「そうなの、ありがとうね、ジョン。忙しいところを悪いわね」
夫人がジョンに微笑んで見せると、ジョンは頭を掻き、小声のまま続けた。
「いやいや。……あなたが村長だったら、もう少し安心していられると思いますがね。いや、別に、オービルさんを悪く言うわけじゃないですが」
夫人の表情が険しくなる。青い瞳が厳しい光を帯びた。
「オービルが村長になってから今まで、彼が何か、村長としてふさわしくない真似をしたかしら?」
「いや、いや、そんな」
慌てたふうで、ジョンは両手を振った。
「あー、いや、ちょっと言ってみただけですよ、忘れてください。それじゃ、あたしは仕事があるんで、これで」
そそくさと去っていくジョンの背中を一瞥するも、夫人はすぐにシンディに目を向けた。さっきまでとは打って変わった柔らかな口調で、夫人は言う。
「ごめんなさいね。見苦しいところをお見せしたわ。ところで、こちらには、もともと何の用事で来ていたの? シンディ」
「ああ、えっと……里の用事で、急いで北西に行かなければならないんです。その途中で、ここを通りかかりました」
シンディの返答に、夫人は眉を下げた。
「そうなの……ねえ、本当に申し訳ないんだけど、少しでいいから、話を聴いていただける?」
「そのつもりで、お伺いしました」
安堵の表情を浮かべた夫人に、シンディは続ける。
「その代わりと言ってはなんですが、少し、協力していただけますか」
☩
目撃者は、ケーリーという名の少年だった。
好奇心旺盛な彼は、夜の森に現れるという月光虫を探すため、松明を片手に村のそばの夜の森を歩いていた。
遠目に「それ」が見えた時、ケーリーははじめ、その大きな四つ足の生き物らしき影を狼かと思った。だがよく見ると、狼にしては大きすぎる。それに狼は、一匹ではなく群れで行動するものだ。
普通だったら逃げ出すところなのだろうが、ケーリーは、人一倍好奇心が旺盛で、怖いもの知らずの少年だった。
木の陰から陰へと移動しながら、ケーリーは足音を忍ばせ、「それ」に近づいていく。
鼻をついた血の匂いに、ケーリーははっとして足を止めた。四つ足の生き物との距離は、八イート(約十・四メートル)ほどだ。
匂いのもとは、地面に伸びた一頭の狼だった。首から血を流して息絶えている。そのかたわらに、ある生き物が立っていた。
がっしりとした太い四肢に、きらめく真珠の鱗、馬のような首、山羊のような角、蛇のような尾。
「それ」が何なのか、ケーリーは理解した。物知りの祖母から聞いた、ある化け物の話が脳裏によみがえる。
――人食い竜、ホワイト。
ふと、ケーリーは気づいた。松明の炎が発する光が、化け物にあたっている。これだけ近づいていて、この化け物が、こちらに気づいていないということがあるだろうか?
もしかすると、とっくにケーリーに気がついていて、近寄ってくるのを待っていたのではないか?
震える膝で、ケーリーはゆっくり、後ろ歩きでその場を離れようとした。
刹那、化け物が勢いよく振り返る。細く開いた口からのぞく牙が、真っ赤な血で濡れていた。銀の瞳が、少年をまっすぐに射抜いた。




