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空へ  作者: 上田謡子
29/29

29、空へ(下)


 風が強い。ざざあ、ざざあ、と木の葉が絶え間なく叫び散らしている。普通ならげんなりするところなのだろうが、逆に都合がいいとシンディは思った。これだけ風がうるさければ、森が静かすぎることを――鳥の鳴き声もしなければ、蛇の一匹にも出くわさない――そこまで意識しないで済む。


 日が昇って二時間は経っただろうか。気温が特別低いわけではないが、風が強いためかうすら寒く感じる。向かい風を受けながら、シンディはイヴォンヌ、ケーリー、ハイン、ヨハン、それにカトリーンと共に谷へ向かっていた。


 ただ歩き続けていると気になってくるのは、ここ近辺の異変のほかにもう一つ、これから先のことだった。


 イヴォンヌもハインもケーリーも王都へ行き、ひとまずはそこに留まることになる。だが、自分はどうしよう。


 神様を持ち帰る予定だったが、どういう迎え方をされるのか見当がつかない。本来なら自分は命を落とし、あの水晶の像は二度と里に戻らないという筋書きだったのだ。神様と金の瞳の娘がいなくなった後どうするのか、それを里の人々にどう説明するのかも、あらかじめ決められているのだろう。


 おそらく私は、故郷の里へ帰っても、歓迎されない。


 ――いっそ帰らないで、王都に腰を落ち着けようか。


 魔術師として働けば、恐らくは食べていけるのではないだろうか。イヴォンヌもマリアンも助けてくれるに違いない。ただ気がかりなのは、弟のエイブのことだった。


 エイブだけではない。レティにも会いたいし、あの美しい娘アリスとは、きっとまた会うと約束した。それに自分は、アリスに詫びねばならない。あのユニコーンのことを。


「シンディ」


 不意に声をかけられ、シンディははっとした。イヴォンヌが、こちらの顔をのぞき込んでいる。


「何ですか?」


「お礼を言いたいことがあるの」


 きょとんとするシンディに向かい、イヴォンヌは小声で淡々と言った。


「私の代わりに、熱魂石柱を割ったでしょう?」


 シンディの頭に、あの時の光景が閃く。ハインに与える熱魂石を取り出すために、イヴォンヌが熱魂石柱にハンマーを振り上げていた。鍛えているわけでもない学者の彼女があれを割るのは無理だろうとシンディは思い、魔術を使って、イヴォンヌの力であるかのように見せかけて、熱魂石柱を割ったのだ。


「気づいていたんですか」


「少し考えればわかる。私、ここ何年も力仕事なんてやってないの。……ありがとう」


「いいえ」


 シンディはゆるやかに首を振った。


「お互い様ですから」


「お互い様?」


 聞き返したイヴォンヌに、シンディはうなずいた。


「ここまで来られたのは、イヴォンヌさんのおかげです。薬のことも、銀の機体に乗せていただいたことも。それに……お話しを聞かせていただいたことも。助かりました。本当に」


 イヴォンヌの目が揺れた。反応に困っている様子だ。そう、と短く返して、イヴォンヌは黙った。


 不器用な人だ、とつくづく思う。それも含めて、隣を歩くこの人が好きだ。


「そろそろだ」


 一行の先頭を行くヨハンの声が響く。気を引き締め、シンディは胸の底にうずまく暗雲をわきに押しやった。


 突然に森が開け、みなが足を止める。視界に広がったのは、真下に沈みこむ崖のような谷と、その先にそそり立つ黒々とした山腹だった。国境の山だ、とヨハンが説明する。


「あの山を越えれば、北の隣国デラルカだ。アーデンの警備兵がいつもうろついてる」


 谷をのぞきこんで見えたのは、きつい傾斜の土の壁と、底を駆け抜ける川だった。ドドドドド、と身をくねらせて進む姿は、まるで大蛇のようだ。


 イヴォンヌが淵に屈み、左手で地面に触れる。右手には、色分けがなされた地図が握られていた。


「この付近に、何かあるはずなのだけれど」


 つぶやいたイヴォンヌの横で、何を思ったのか、ケーリーは地に這いつくばるようにして谷に身を乗り出した。同じようにして眼下をのぞき込んだヨハンが、眉を寄せる。


「おかしい」


「何がですか?」


 シンディは尋ねながらヨハンの隣に立ち、谷を見下ろした。ヨハンが岩壁の中腹あたりの、勾配が少しゆるくなっている箇所を指さす。


「あそこだ。三十二日前に見た時と、土の色も盛り上がり方も不自然に違う。掘り返した後に土をかぶせたな。誰かが、何か埋めたのかもしれない」


「降りてみるか。命綱がある」


 ハインは背負ってきた荷物から太い縄を数本取り出した。ヨハンは渋い顔で懸念を示す。


「降りるのはいいが、その後どうする? 掘り返すなら道具がいる」


「それなら、私の魔術でどうにかします」


 シンディが言うと、ヨハンはへえ、と感嘆の声を漏らした。


「便利なもんだな、魔術ってのは。俺たちの村にも一人くらい、魔術師がほしいもんだ。ハイン、お前が魔術を学んできてくれてもいいんだぞ」


「馬鹿言え。ケーリー」


 ヨハンの軽口を流すと、ハインはケーリーに呼びかけた。谷底にじっと目を凝らしていたケーリーが顔を上げる。


「何ですか?」


「お前はここに残れ」


「えっ」


 ケーリーはがばっと跳ね起きた。


「何でですか! 僕も行きたいです!」


「待て待て、落ち着け、ケーリー」


 カトリーンがケーリーの前にしゃがんでなだめにかかる。


「あのな、この谷はな、俺らの村の人間でも、ガキには登り降りさせねえんだ。急なとこだし、落ちたら川に真っ逆さま、まず助からねえ。実際、落ちて帰ってこなかった奴もいたんだぞ」


 しかめ面のケーリーの頭をくしゃくしゃと撫でると、カトリーンはイヴォンヌの方を見た。


「イヴォンヌさん。思うんだが、あんたがケーリーと一緒にここに残るのが一番いいんじゃないですか? さすがに子ども一人を残していくのは危ねえし、あんた多分、急な谷を降るとかそういうの、慣れてねえでしょう? 俺らがひとまず様子を見にいく間、ここでこの子の面倒を頼みまさあ」


「はい」


 イヴォンヌがうなずくと、カトリーンはハインから縄を受け取り、手際よく自分の命綱の準備を始めた。シンディもそれにならい、一本の縄を手に取る。風がひときわ強く吹き、きつく結わえた炎の髪がはためいた。


 谷へ降りる四人の体が、それぞれ命綱に結ばれる。万が一にも杖が落ちないよう腰布をきつく結び直すと、シンディは深呼吸を一つした。両手で縄を握り、ハインに続いて、急斜面へと後ろ向きに一歩を踏み出す。


 両足の裏側が、垂直に近い土の壁を確実にとらえた。一歩、また一歩と、シンディは慎重に谷を降っていく。


 縄を握る手のひらに汗がにじみだした頃、シンディたちは、勾配が少しゆるやかになっている地点にたどり着いた。ヨハンが土の壁に手を触れ、シンディを向く。


「頼む」


「はい」


 シンディは杖を引き抜くと、呪文を唱えながらドードーの杖を振った。まるで水のように、土が崩れて下へと流れ落ちていく。


まもなく、流れ落ちた土の下に現れたものに、四人は目を見張った。

 

それは、格子だった。ぽっかりと口を開けた、洞窟のような半月形の穴の出入り口を、一本一本が丸太のように太い鉄格子がふさいでいる。


 ヨハンは、首を伸ばして穴をのぞきこんだ。シンディも同じようにしたが、中は真っ暗で、どうなっているのかわからない。


 格子を壊そうと思い、シンディは杖を振ろうとした。その刹那、シンディの耳に、洞窟の奥から音が届く。足音だ。


 ハインとヨハン、それにカトリーンが素早く腰のナイフを抜く。四人が緊張した面持ちで見守るなかで、暗がりから銀と赤の鎧が飛び出した。ヨハンがさっと顔を青ざめさせる。


「デラルカの兵……!」


 格子の向こうに現れたのは、猩々緋の狼の紋様が刻まれた、銀の鎧の男の兵士だった。格子の前で足を止めた兵士は、両腕に抱えた黒い筒を外へと向ける。その先端がまっすぐ、シンディを指した。


 とっさに杖を振ったのと、重く渇いた音が響いたのが同時だった。左の肩に激痛が深く噛みつく。歯を食いしばって、左手の縄と右手の杖を、シンディはかたく握った。一瞬暗く翳った視界に、兵士が仰向けに倒れる姿が映る。ハインの怒号と、ヨハンのせっぱつまった声が聞こえた。


「あのクソ兵士! いきなり撃ちやがって! ただじゃおかねえ!」


「ハイン、そんなこと言ってる場合じゃない! 早く血を止めるぞ!」


 ――何をすべき。


 ぐらぐらと揺らぐ頭で、シンディは力を振り絞って右腕を持ち上げた。かすれた声で呪文を吐き、格子に意識を集中させる。


 格子の縦向きの棒二本の真ん中に亀裂が走ったかと思うと、二本の棒の下半分の部分が格子から外れ、ガラガラと谷底へ転げ落ちていった。


 まっさきに命綱をほどき、できた隙間から洞窟へ飛び込んだハインの背中に、カトリーンが叫ぶ。


「ハイン! その兵士はひとまず放っとけ! シンディを中へ入れて血を止める! 手伝え!」


 背中から抱きかかえられる感覚がした。カトリーンだろうか。腰の上に巻いた命綱が解かれる感覚がする。左腕を動かすのと同時に強さを増した痛みに、シンディはうめいた。


 少し意識が遠のいている間に、シンディの体は洞窟の中に横たえられていた。地面にひざをつくカトリーンが、燃える左肩を布か何かできつく縛っている。やけに視界が明るい。


 横たわったまま、歯を食いしばって首を回したシンディは、自らの顔から血の気が引いていくのを感じた。


 真っ暗だったはずの洞窟が煌々と照らされている。光の源は、奥から黒い筒の武器を構えて歩み寄ってくる三人の兵士たちがかかげる、ランタンのような灯りだった。ただのランタンにしては、放つ光が明るすぎる。まるで魔術か、イヴォンヌが発明した陽蓄機かのようだ。


 兵士たちの背後、洞窟の奥には、巨大な四つ足の生き物が体を丸めて横たわっている。牛だ。足を折っていてもなお人の背を裕に越す体高があり、黒い瞳の目は額に一つしかない。真っ白な毛並みの筋骨隆々とした体躯の尻からは、男の二の腕ほどの太さの尾が伸びている。よく見ると尾の先端がぷっくりと膨らんでおり、黄土色のガラス玉のような瞳が二つ、爛々と輝いていた。


「ヒ……」


 唇から、自然と言葉が漏れていた。


 里の語り部から、その名を聞いたことはあった。蛇の尾を持つ一つ目の牛の魔物、ヒ。この魔物が歩いた場所は、水は尽き、草は枯れるという。


 それが、何本もの白い茎のようなもので洞窟の奥の壁と繋がっている。牛の体から植物が生えているかのような光景は、異様だ。


 兵士たちが、シンディたちから十歩ほど離れた位置で立ち止まった。真ん中の男が口を開き、何事かを言う。だが、言葉がわからない。おそらくデラルカ語だろう。


緊張が走るなか、ヨハンが二言、三言しゃべった。アーデン語ではない。兵士たちが理解した様子で目配せし合っている。だが、黒い筒の武器はこちらを向いたままだ。


その時、突然湧き出した白銀の霧が、なめるように視界を覆った。


わけがわからないまま、シンディは痛みを堪えて起き上がる。右手の杖の感触を確かめたシンディは、霧の奥に、ヒとは別の巨大な何かが首をもたげるのを見た。グルルルル、と聞き覚えのあるうなり声が大気を震わせる。まもなく霧が晴れて現れたそれに、みながいっせいに息を呑んだ。


 ホワイト――ハインだ。


 兵士たちが、あっと声を上げて後ずさる。ホワイトの名はデラルカの地にまで届いているらしい。


 ハインは敵が怯んだ隙に前に踏み出すと、白銀の鱗の巨体を大きくひねった。吸い込まれるように、鞭のような尾が赤と銀の鎧を直撃する。重い衝撃音とともに、二人の兵士の体が地面に叩き伏せられた。残る一人、真ん中にいた小柄な男は、素早く地に伏せたおかげで難を逃れたようだ。間髪入れず立ち上がった男は、鹿のような動きで横に退きながら、懐から小さな黒い箱のようなものを取り出し、そのスイッチを押す。


 ヴウウウウンと、虫の羽音に似た奇妙な音が響き渡る。洞窟の奥、ヒの身体と土の壁とを繋げる白い茎がぶるぶると震えていた。シンディたちが目を釘付けにするなかで、ブチュ、とぶどうが潰れるような音をまき散らし、ヒの体からいっせいに茎が抜ける。土の壁からぶらんと垂れ下がった茎の内部から、どろりとした緑色の液体が噴き出した。鼻にのしかかってきたむっとするような強い匂いに、シンディは思わず顔をしかめる。嗅いだことのある匂い――土の匂いだ。土を何時間も煮詰めたような、普通には考えられないほどに濃い、むせ返るような土の匂い。


 シンディははっとした。頭の底に沈んでいた幾つかの記憶の欠片が浮かび上がり、一つの形が出来上がっていく。


 銀のしずくの機体に乗った日の夜明け、イヴォンヌの部下である研究員アントニーの口から聞かされた、北の隣国が不穏な動きを見せているという話。


 ハインの村の周辺の土の成分値が低すぎるという話。


 そしてヒの性質と、たった今起こった出来事。ヒが歩く土地は、水も草も失せるという。大地とヒとを繋ぐ茎の中身から嫌というほど漂う、濃すぎる土の匂い。


「こいつなんだ……!」


 左肩の痛みも忘れて、シンディは立ち上がっていた。


「地面の、土のエネルギーを吸ってたんだ! あの茎から! 根こそぎ! だから大地が荒れて、獣が去ったんだ!」


 そしてそれは、ヒ自身の意思ではなく、デラルカ国の手によるものだ。


 自由になったヒが腰を上げ、白銀の竜の姿となったハインをにらむ。一人残った兵士の男はヒの横に走ると、猿のような身軽さでヒの背中にまたがった。


 地響きかと錯覚させる牛の鳴き声と、悪魔の囁きを思わせる蛇の吐息が耳をつんざき、ハインへ向けて突進した。シンディたちは慌てて壁ぎわに身を寄せる。突進を避けたハインは、牙の並ぶ大口を開け、ヒの右肩に噛みついた。真緑の血がほとばしり、ハインの鱗が草の色に染まる。


 二体はしばらくもみ合っていたが、ある瞬間、ハインの牙をかいくぐり、ヒの尾の蛇がハインの横腹に食らいついた。


 悲鳴を上げ、ハインは後方へ跳んで蛇を振り払い、ヒから距離をとる。だが次の瞬間、その白銀の体躯がゆっくりと崩れ落ちた。


「ハイン!」


 カトリーンがハインに駆け寄る。シンディもそれに続いた。白い竜の姿が陽炎のように揺らめいたかと思うと、空気に溶けるように消えていく。残されたのは、人の姿でわき腹を押さえ、地面に這いつくばるハインだった。胸が嫌なふうにざわめく。ヒの尾の蛇は毒蛇のはずだ。


 ガチャリ、という不吉な音を聞きつけて、シンディは顔を上げた。ヒにまたがる兵士の構える筒の武器が、こちらを向いている。


 不意に、拳ほどの大きさの濁った緑色の玉がヒの顔に投げつけられた。ヨハンだ。衝撃を受けた玉が砕け散り、鼻の曲がるような臭気が噴き出す。ヒは奇声を轟かせて身をよじらせると、よろめきながらドタドタと後ずさった。その横をすり抜けるようにして、ヨハンがこちらに走ってくる。その姿を認めると、カトリーンはだらりと力のないハインの身体を持ち上げ、広い背中に素早く負ぶった。


「獣よけの匂い玉だ、逃げるぞ!」


 叫んだヨハンを先頭に、一行は太陽の差す方向へと駆けだす。背後から、何を言っているのかわからない兵士の罵声が響いた。


 洞窟の出入り口までたどりついた時、シンディの耳は、ある音をとらえた。重い蹄の音だ。振り返ったシンディの背筋を、悪寒が駆け抜ける。


 まだよろよろとしているが、兵士を乗せたヒがこちらへ向かっている。シンディたち全員が命綱を結びここから出るまで、待ってはくれないだろう。


 右手の杖を強く握ったシンディは、はっとして杖を見た。ドードーの頭の杖。大昔に滅びた、飛べない鳥の杖。 


 思い出すのは、ハインと戦った時のことだ。追い詰められ、殺されかけた時、自分の手に杖はなかった。だが自分は今、生きている。


 ぐずぐずしている暇はない。


 ヨハンたちが焦った様子で命綱の準備をするなか、シンディは深呼吸をすると、右腕を振りかぶった。


 ドードーの杖の石突が天を指す。槍投げの構えで、シンディは杖をめいっぱい高く放った。左肩がズキリと痛む。放たれた杖は青空に弧を描き、やがて、谷底へと一直線に吸い込まれていった。


 みなが目を丸くするなか、シンディは洞窟の奥を見据え、腹の底から雄叫びを上げた。


 空気がビリビリとうなる。左肩の痛みが消えていた。髪を結わえていたもえぎ色のひもが弾け飛び、炎の髪が翼を広げる。うなりは洞窟の奥へと猛然と駆けていき、容赦なくヒに食らいついた。一つ目の瞳がぐるりと回り、ドオ、と白い毛並みの巨体が倒れ伏す。


 乗っていた兵士は、間一髪のところでヒから飛び降り地面に転がった。ヒの体が、濃い緑色のドロドロとした液体に溶けるように姿を変え、大地へと吸い込まれていく。それを見届けたシンディは、カトリーンに担がれたハインに視線をやった。唱えたことのない呪文が唇から流れ出、ハインの体がピクッと身動きする。シンディには、自分が今、ハインを倒れさせた毒を消したのだとわかった。


 母の言葉が、胸に閃く。


『まあそもそも、杖がなくて、魔術が使えるわけがないんだけどね』


 歯を食いしばり、シンディは荒い息をした。閉じたまぶたの淵から涙が盛り上がり、光るしずくが頬を伝う。呼吸を整え、拳を握り、目を見開く。


 私はもう、ドードーの杖を握らない。


 頬から光を絶やさぬまま、シンディは兵士に目の焦点を合わせた。だがその瞬間、ぐらり、と突然視界が揺らぐ。危うく倒れそうになったところをヨハンに支えられ、シンディは何とか足を踏ん張った。


 身体に、深く重い疲労がズシリとのしかかっていた。立っているのもだるいほどだ。強い魔法で、力を使いきってしまったのかもしれない。


 残された兵士は、地面に転がったまま呆然としていた。だがすぐに、その青い瞳に光が宿る。跳ねるように身を起こした兵士は、シンディたちに背を向けて駆け出すと、洞窟の奥の壁の、人が一人やっと入れるような大きさの穴に飛びこんだ。


「何するつもりだ、あの野郎」


 兵士の姿が見えなくなり、カトリーンが汗のにじむ額でつぶやく。


 その次の瞬間、爆音が轟いた。


 地面が揺れ、さきほど兵士が入っていった穴から猛烈な風が巻き起こる。あっと思う間もなく、シンディたちは凄まじい爆風で洞窟の外へと投げ出された。下は、落ちたらまず助からない深い谷底だ。


 とっさに魔術を使おうとしたが、身体のどこにも力が入らなかった。すう、と肝が冷える。このままでは自分たちは、死んでしまう。


「シンディ!」


 その時。声が、聞こえた。


 イヴォンヌではない。ハインでもない。カトリーンでも、ヨハンでも、ケーリーでもない。とても懐かしい、聞きたかった声だ。


「レティ!」


 落ちながら空を仰ぎ、シンディは自分の目を疑った。ある生き物が天から、こちらにまっすぐ降下してきている。


 それは、一頭の狐だった。馬のように大きくすらりとした体躯は、雪の毛並みで覆われている。首には黒い字の書かれた木の板をぶら下げており、ふさふさとした綿毛のような尾が二本揺れていた。黒い瞳の輝きは、まるで黒曜石のようだ。


 その背に、人が三人またがっていた。先頭に輝く金髪と翡翠の瞳の少女、その後ろに短髪の赤毛の女、そのさらに後ろが、しなやかな赤毛の痩せた男だ。


「ゴン! あの人たちを助けて!」


 アリスが叫んだ刹那、落下していたシンディたちの身体が、宙でぴたりと止まった。まるで見えない手で運ばれるかのように、危うく谷底に叩きつけられるところだった四人は、上へ上へと昇っていく。


 まもなく四人は、じっとたたずむイヴォンヌと、ぽかんと口を開けるケーリーとの前にふわりと降ろされた。シンディたちの後に続いて、レティたちを乗せた狐もまた、地面にゆっくりと着地する。


「シンディ! 良かった! 生きてた!」 


 転がるように狐から降りたレティは、押し倒さんばかりの勢いでシンディに抱きついてきた。驚きと喜びとで混乱しながらも、シンディは尋ねる。


「レティ、どうして……どうやってここへ?」


「うちの家の禁書に全部書いてあってさ! あたしは禁書の間に入る権利がなかったから、兄さんの力を借りてな。アトランの王子と狩人の村の約束の内容とか、この場所とか、全部書いてあって。で、場所はわかったから、あたしの叔母さんがこっそりワコクと取り引きして手に入れて、アギソン村のそばに隠してたヨウコ……えっと、ワコクの魔獣で、魔力をもった狐らしいんだけど……そのヨウコに乗って空を飛んできたってわけ。〈川守り〉に無断でグエンダの地から出てきちまったよ。あれ、そっかシンディって、約束の話とか知らないか?」


「ううん、知ってる。……色々あったんだよ。色々」


「色々?」


 聞き返したレティが、ふと気づいたように、シンディの髪にそっと触れた。まぶしいほど鮮やかな若葉の目が、光を伴って細められる。


「髪、下ろしたんだな。良いと思う。すごく、良いと思う」


「ちょっと」


 不意に、一人の少女が二人の間に割って入った。アリスだ。美しい翡翠の瞳には、いらだちがにじんでいる。


「そのヨウコを、ゴンを操ったのは私よ。あなた一人でここまで来たかのように言わないで。それと、シンディ」


 アリスはシンディの前に仁王立ちした。冷えた怒りのまなざしが、シンディに突き刺さる。


「あなたが、ユニコーンを殺したのね?」


 ビクッと肩が跳ねる。キリリと胸が痛んだ。


「……はい」


 シンディは、ただ首をたてに振った。謝って済む話ではない。


 アリスの右手が上がる。だがアリスは、シンディの左肩に目を留めると腕を下ろし、肩をすくませた。


「今すぐ一発かましてやりたいところだけど、あいにく、けが人に手を上げるほど人でなしではないの。治ったら思いっきりぶってやるから、そのつもりでいて」


 それで許すわけじゃないけど、とつけ加えたアリスは、きつい口調で尋ねた。


「ユニコーンの亡がらだけど、ちゃんと埋葬はしたんでしょうね?」


「埋めた。場所は覚えてるし、墓の印もたててある」


 シンディの返答に、アリスはいくらか表情を和らげた。


 レティの背後に、ゴンから降りた赤毛の男が立つ。シンディは、その男性に覚えがあった。


「……お久しぶりです」


 戸惑いを隠せないまま、シンディは一礼した。おそらく一、二年ぶりくらいだろう。自身の成人の儀以降、ヒューイはあまり人前に姿を見せなくなっていた。


 礼を返したヒューイは、シンディの腰に視線を移す。


「……杖がないな」


「はい。捨てました」


 シンディの答えに、レティがぽかんと口を開けた。


「杖を捨てた? え、杖を? 杖を?」


 慌てふためくレティの肩に、動揺の色の全く見えないヒューイがそっと手を置く。


「レティ、落ち着け。シンディ、確か君の杖は、ドードーだったな。飛ぶ術のない古い鳥。杖なしで魔術が使えるんだな?」


「使えます」


 シンディが答えると、ヒューイは、やはりな、とあごに手を当てた。


「禁書に書いてあった。ゴールダー家はもともと魔力の強い一族で、強すぎて殺せないことを怖れたアトランの国の宰相が、力を弱めるドードーの杖を使うよう命じた、と。しかし、よく決断したな。……俺も見習う必要がある」


 その時、あっ、とレティが大声を上げた。


「忘れるとこだった! これ、はい、シンディの!」


 レティが差し出してきたのは、金のドードーのピアスだった。はっと息を呑んで、シンディはそれを手に取る。


「これ……!」


「神殿に落ちてたんだってさ。大事なもんだろ、それ」


 うん、と答えようとしたシンディは、しかし、思いとどまった。日の光を受けて輝く小さなドードーは、シンディの手のひらに黒い影を落としている。唇を噛んでそれを握ったシンディは、谷の方へと一歩踏み出し、右腕を振りかぶった。勢いよく投げたドードーのピアスが、金の光の余韻を残して、視界から姿を消す。それと入れ替わるように、エイブの緑の瞳が脳裏に浮かんだ。


 呆気に取られてピアスを見送ったレティが、目を白黒させる。


「えっ! ちょっ、シンディ、何やってんだよ! 母さんの形見なんじゃ……!」


「いいの」


 シンディは、さらりと答えた。


「ピアスなら、もっと素敵なものを、自分で選んで買うから」


 その時突然、大人しく地面に伏せていたゴンが、うなり声を発して頭を持ち上げた。シンディたちはもちろん、少し離れた場所で話しこんでいたヨハンとハイン、カトリーン、イヴォンヌやケーリーの視線も集めて、ゴンは雪の体を空に躍らせる。シンディはその向かう先に目線を移し、眉を顰めた。


「鳥?」


 一瞬の出来事だった。天へと飛び出したゴンの口が開き、宙に浮かんでいた鳥のようなものに牙を突き立てる。ガキンッ、と金属が割れるような音と、人間の悲鳴とが辺りに響き渡った。


「ゴン! 食べちゃ駄目! そのまま戻ってきなさい!」


 アリスが強い語気で命じると、ゴンは素直に空を降りてくる。その口に咥えられたものを改めて見、シンディは息を呑んだ。


 ゴンに襲われたのは、さっきのデラルカの兵士だった。鎧の背中の部分から、羽を模した形をした灰色の板のようなものが二枚伸びている。最初鳥と見まがえたのはこの板のせいだろう。


 ――デラルカには、空を飛ぶ技術があるんだ。


 ゴンがゆっくりともとの位置に着地する。兵士はけがをしているものの、命に別状はなさそうだった。怒りをはらんだ青い瞳でこちらをにらみ、何事かをわめいている。ゴンが不快そうに眉間にしわを寄せ、その黒い目が妖しく光った。瞬間、力が抜けたように兵士の体ががくりと動かなくなる。とっさに兵士の前に屈み脈をとるも、異常はない。


「ジンツウリキね」


 耳に飛び込んできたセリフに、シンディはアリスを振り返った。


「ジンツウリキ?」


「ゴンの魔法の力、と思ってもらえればいいわ。ワコクの言葉で、神に通じる力という意味なんですって。多分、うるさいから黙らせたんでしょう」


 シンディは、改めてゴンの顔を見つめた。兵士が静かになって満足なのか、今は穏やかな表情をしている。見つめ返してくる黒曜石には、赤い髪に金の瞳の自分が映っていた。


 誰かが近づいてき、隣に片ひざをつく気配がした。イヴォンヌだ。兵士の背の金属の羽にじっと視線を注いでいる。


「ヨハンさん」


 羽から目をそらさないまま、イヴォンヌは呼びかけた。


「この文字、デラルカ語だと思うのだけど、読めますか?」


「そんなに難しくなければ……」


 ヨハンは歩み寄ると、兵士の金属の羽の、イヴォンヌが指さす部分に目を凝らした。


「魔法……工学者かな、多分……魔法工学者、イザーク・アウデンリート」


 イヴォンヌの目が輝いた。まるでとりつかれたかのように、シンディには読めない文字にじっと見入っている。


「ねえ、シンディ」


 いつになく熱のこもった子どものような口調で、イヴォンヌは呼びかけた。


「私たち、空を飛べないかしら」


「えっ?」


 きょとんとするシンディに、イヴォンヌは、文字から目を離さないまま語り出す。


「私のやってきた工学は、鉱石工学、熱魂石柱などの鉱石のエネルギーを用いる工学なの。思うに、魔法工学というのは魔法をエネルギーにする工学。この国では未開発の分野のはず。それに、それに……熱魂石柱を使わないで機械を動かせるなら、ディーラゴン山脈をケセト族の手に返せる。シンディ、あなたには魔法がある。私には工学がある。私たち二人で、空を飛べないかしら。こんな一人用のではなくて、何十人も運べるような空飛ぶ船を、作れないかしら」


 ずっと前、レティからペガサスの話を聞いた時の空想が、シンディの頭の中に弾けた。レティと語った夢。ペガサスに乗って、空を飛ぶという夢。


 胸がとくとくと高鳴っている。仰いだ頭上は、風に流されたのか、雲一つない青空だった。


「空へ」


 鼓動を言葉に乗せて、シンディは繰り返した。


「空へ」


「空へ」完結です。最後までお読み頂き、ありがとうございます!

気づく人は気づいていると思われますが、敢えて回収していない伏線が幾つかあります。それらを回収するとなると、数年後まで時間を巻き進めなければなりませんので……。

続編ですが、実をいうと漠然としかまとまっておらず、書くとしたら大分先になるだろうと思われます。申し訳ありません。

繰り返すようですが、ここまでお読み頂き、本当にありがとうございました!

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