28、空へ(上)
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最後に母の温かい手を握ったのは、墓場でのことだった。
その日、私は母とともに、ひと月に一度の墓参りに来ていた。里の西の山の裾野にへばりつく墓地に、他に人影はなかった。
ドードーの杖を模したかたちをした灰色の墓石の前に、私と母は立っていた。その時、私は十二歳で、成人の儀を間近に控えていた。
ゴールダー家の先祖たちが眠る墓に、野山で集めた花を供えた。私は気づいていた。ここへ来るたび、母の顔に切なげな表情が浮かぶことに。
墓石の前にしゃがんだ母が、唐突に言った。
「私はね、この墓に、入りたいのよ」
母の左手が、私の右手をそっと握る。私は何と返せばいいのかわからなかった。母が何を考えているのか、わからなかった。
言葉を見つけられないでいるうちに、シンディ、と名を呼ばれた。何、と問うた私に、母は言った。
「あなたももう、大人になるのね。あなたには全てを教えた。私が教えたことを、いずれ産まれるあなたの娘に伝えるのよ。それに、エイブの娘にも。あの子は緑の目だけれど、流れる血はゴールダー家のもの。あの子の娘は、金の瞳を持って産まれてくる」
私と視線を合わせず、母はじっと墓石を見つめていた。
翌日、母は亡くなった。西の山の崖から落ちたのだ。事故だったのか、別の何かが起きたのか、わからない。母の遺骨は、無事墓に入った。
ゴールダー家の女は、短命だという。
†
ピピ、ピピ、と鳥の鳴き声のような音がした。今日だけでいったい何度聞いただろう。
イヴォンヌはカトリーンの家の居間で、いつもと変わらぬ表情のない顔と、見ているこちらの気分が良くなるようなきれいな姿勢でテーブルにつき、目の前の機械に忙しく指を走らせていた。灰色の台座のようなかたちのもので、側面にたくさんの目盛りやボタンがついている。上部には親指を入れられるほどの大きさの穴が空いており、今は蓋が閉まっていて見えないが、シンディが集めてきた森の土が詰めこまれている。テーブルの向かいに立つケーリーは、まるで魅入られたように機械に目を釘づけにしていた。
目盛りをにらんでいたイヴォンヌの口から、ふ、とため息が漏れる。
「赤」
シンディは、テーブルの上の地図に赤いバツ印を書きこんだ。今機械の穴の部分に入っている土を採取した場所だ。
ここへ来て三日目だった。もうすぐ日が暮れる。明日までに自分たちは、この村を救う手立てを見つけなければならない。
イヴォンヌが椅子から立ち上がり、機械の横に広げられた地図に視線を落とす。
「ケーリー、あなたの言っていたことが、科学的にも証明された」
村とその周辺の地理が記された地図には、数えきれないほどの数のバツ印が記されている。色は緑、黄、橙、赤の四種類だ。
シンディ、ケーリー、ハイン、ヨハン、それにカトリーンで手分けして、イヴォンヌが指示した箇所の土を集める。それをイヴォンヌが、出発の際マリアンから手渡された検査機器で調べ、地図に印を付ける。昨日の朝からずっと、その作業の繰り返しだった。
そうして出来上がった、南はシンディたちが一泊した地下の宿のあたりまで、北は深く急に沈む谷のこちら側まで記された地図の上に浮かび上がったのは、半円だった。ある一点を中心として、赤い印の半円の帯が広がり、その外側には橙色の印の帯が、そのさらに外側には黄色の帯が横たわっている。村は、黄色い帯のなかに包まれていた。
「谷の方に近づけば近づくほど、木や草や土の様子が変、と言ったわね、ケーリー」
イヴォンヌが確かめるように言うと、ケーリーはうなずいた。
「ここに着いた日に歩いて、あれ、って思ったんです。場所によって土が違うなって。谷に行けば行くほど、木も草も土も変だなって。だから、谷に何かあるんじゃないかって」
「この地図もそう言ってる」
イヴォンヌの右の人差し指が、赤い印の帯を突いた。
「土に含まれる成分値で、色分けしてあるの。緑は正常、黄色はその五分の四、橙色は五分の三、赤色は正常値の半分以下。谷に近づけば近づくほど、土の成分に異常が生じている。……こんなところで、学院時代、マリアン博士の地質調査に何度も連れていかれたのが、役に立つとはね」
細く鋭い指先がすべり、地図の北の端の、崖のように切り立った谷の淵にたどり着く。イヴォンヌの黒い眼光が、そこをまっすぐに射た。
「ここに、何かある」
「すぐ行きましょうよ!」
ケーリーが身を乗り出すと、イヴォンヌと椅子をはさんで隣に立っていたヨハンが首を振った。
「何かあるってことは、危険かもしれないってことだろう。それに、もうすぐ暗くなる。出るのは明日の朝だ」
ちょうどその時、部屋の扉が開いた。目をやった先に立っているのはカトリーンだ。両手に小さな布の包みを抱えている。それを見るや、ハインが早足でカトリーンに歩み寄り、包みを受け取った。
「シンディ」
ハインは改まったふうで言うと、神妙な顔でシンディの前に立ち、包みを開いた。そのなかから現れたものに、シンディはあっと声を上げた。
それは、水晶の女の像だった。真冬の冷たく引き締まった大気を固めて造ったかのような、きらめく透明の身体に長衣をまとい、横すわりの姿勢で、あごを少し持ち上げ遠くを見ている。波のようにうねる豊かな髪は、彼女の華奢な背を覆うほどの長さだった。
「神様」
シンディが漏らすと、ハインは、すまん、と謝罪を口にした。
「村のためとはいえ、お前の故郷の大切なものを盗んだ。お前を殺そうともした……申し訳ねえ」
「……いいえ」
シンディは、ゆるゆると首を横に振った。
「私がハインさんの立場でも、同じようにしていたでしょうから」
ハインが丁寧な手つきで女の像を差し出す。シンディはそれを両手で受け取ると、じっくりと眺めた。
古い大国アトランの、三番目の姫。シンディの心臓の血をもってこの村を救うはずだった、全能の女。
「ある意味では、姫も犠牲者なんですよね」
その透明に光る肌を撫で、つぶやく。
「王子が結んだ約束を守るために、こんな姿にされたんですから」
もし水晶の像にされていなかったら、この一人の女性は、どんな人生を送っていたのだろう。国が滅びたのだから、相当の苦労はしたに違いない。もしかしたら、国の滅亡と時を同じくして死んでいたかもしれない。だが水晶の像に姿を変えられ、異国の地に二百年以上放っておかれるのよりは、ずっとましだったのではないだろうか。この姫は、いったいどんな気持ちで、王子の結んだ約束の話を聞いたのだろう。姿を変えられる時、何を思ったのだろう。
「そういえば」
興味津々な様子で像に視線を注いでいたケーリーが、疑問を口にする。
「この像の女の人は、三番目の姫なんですよね? 他の姫はどうなったんでしょう? 確か全部で五人の姫がいたって話でしたよね」
「王都の図書館に行けばわかるかもしれない。あそこは知識の宝庫だから」
イヴォンヌのセリフに、ケーリーの青い目が輝いた。
「図書館って、本がたくさんあるところですよね! 誰でも入れるんですか?」
「ええ。誰でも。王都についたら、一緒に行きましょう」
喜びがおさえきれないというふうで、ケーリーは笑みをこぼす。そこにカトリーンが口をはさんだ。
「イヴォンヌさん。あんた、王都に行くんですか?」
「ことが終わったら、その予定です。ケーリーを王都の学院に入学させねばなりませんから」
「そうですか。……イヴォンヌさん、実をいうと、あんたに渡すものと、折り入って頼みがあるんでさ。ヨハン、悪いが、俺がイヴォンヌさんたちと話す間、ちょいと外に出ててもらえねえか」
ヨハンがうなずいて部屋を出ていき、カトリーンもまた、ちょいと待っててください、と言い残して姿を消す。まもなく戻ってきたカトリーンは、大人の拳五つぶんほどの大きさの、黄ばんだ布の袋を持っていた。かたい何かがぎっしりとたくさん詰まっている様子で、ジャラジャラと音がしている。
「これをあんたに差し上げます、イヴォンヌさん。受け取ってくだせえ」
半ば強引に渡されたそれを、イヴォンヌはおそるおそる開けた。袋の口からなかをのぞいたイヴォンヌは、カトリーンの顔をまじまじと見つめる。
「これは……」
「受け取ってくだせえ。うちのせがれを救ってくれたお礼でさ」
シンディがなかをのぞきこむと、袋いっぱいに入っていたのは、大量の銅貨と銀貨だった。国家公認の科学者からすれば何でもない額かもしれないが、山奥の狩人にとっては大金だろう。
「受け取れません、こんな、どうして」
うろたえて袋を返そうとするイヴォンヌを、カトリーンは押しとどめる。
「この時のために貯めていた金なんです。もしこの先、せがれのさがを……人を食わずにいられないさがをどうにかできるようなお人が現れたら、これと引き換えに、せがれを助けてもらおうと。あんたはせがれを救ってくれました。どうか、受け取ってくだせえ。それとできれば、うちのせがれを、王都まで連れていってやってほしいんです」
「え?」
戸惑いを瞳に映して聞き返したイヴォンヌに、カトリーンはゆっくりと、丁寧な口調で言葉を続ける。
「あいつが人を食うことなく生きていくためには、あの紫の石が必要なんでしょう? しかしここらじゃ、あんなものなかなか手に入らねえ。俺は息子を、あれが普通に手に入れられるようなところで生きさせてやりてえんです。王都なら、あの熱魂石柱とかいうやつも売っているだろうし、働き口もあるでしょう」
「お袋」
ハインが足音を荒だてカトリーンに詰め寄った。
「そんな話聞いてねえぞ。俺が村を離れると思ってんのか!」
「離れねえ理由は何だ?」
カトリーンの鋭い切り返しに、ハインは押し黙る。いきなり、カトリーンはむんずとハインの胸倉をつかんだ。
「大方、お袋を一人置いていけねえとでもいうところだろう? え? つまんねえこと考えてるんじゃねえ。それでお前が苦しんだり後悔したりする羽目になっても、誰も責任なんかとってくれねえんだぞ。俺は俺でどうにかやる。お前はお前でどうにかしろ!」
カトリーンに突き飛ばされ、ハインの体がよろめいて後ろに下がる。シンディとケーリーが息を呑んで見守るなか、カトリーンは、ハインをぎろりとにらみつけた。
「それに、今生の別れってわけじゃねえんだ。お前は空を飛べるんだろう。会いたけりゃ、一年に一度でも、ひと月に一度でも来ればいい。来たくなけりゃ来なくったっていいけどな。住む場所が変わるってだけでぎゃーぎゃー騒ぐんじゃねえ」
カトリーンは鼻を鳴らすと、イヴォンヌに向き直った。ハインに向けていた激しい感情の高ぶりは鳴りをひそめたが、真剣な表情だ。
「見苦しいところをお見せして、申し訳ねえ。イヴォンヌさん、頼まれてくれますか?」
「……はい」
硬貨の詰まった袋を握りしめて、イヴォンヌは応えた。
†
一年と十一ヶ月前、成人の儀の前夜。私は、母の墓の前に立ち尽くしていた。
大きなつばから色とりどりの飾りひもを垂らしたわらの帽子と、地に触れそうな丈のもえぎ色の長衣をまとい、里の家々を一軒一軒あいさつしてまわった後、足を向けたのがそこだった。
月明りの下、足に鉛がくくりつけられているかのように、私は、母の前から離れられなかった。
漠然と思い込んでいたのだ。成人する前夜、あいさつまわりに出る時、母が見送ってくれるだろうと。そして終わった後もやはり、母が家で出迎えてくれるだろうと。
だがそのどちらも、母はしてくれなかった。
私はドードーの杖を腰布から引き抜いた。七歳の誕生日を控え、ごつごつとした太い木の棒の表面を、ナイフで辛抱強く削った日々がまざまざと思い出された。ややいびつに出来上がった杖を、母がナイフとやすりとで畑をならすように整え、仕上げのニスを塗ったのだ。
月が雲に隠れた。墓場は完全な闇にもぐり、私は夜の底で息をしていた。
母親の墓石の頭上に、娘の握る杖が、振り上げられる。
「お姉ちゃん!」
弟の叫び声で、私は我に返った。見ると、松明をかかげた弟が、こちらに駆け寄ってくるところだった。
「何してるんだよ?」
私は答えられなかった。杖を下ろすと、私は母の墓と、弟とを、交互に見た。
松明に照らされてみると、成人の儀のために用意した晴れ着は汚れていた。裾に土がこびりついている。墓までの山道でこうなったのだろう。私は目を背けて、速足で弟の横を通り過ぎた。
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