26、救い(上)
相変わらず、ゆるやかな坂が続いていた。人と獣とに踏み慣らされた草の道に沿って、シンディたちはひたすら足を前に出す。太陽は出ているが、木の葉が深く繁った森は薄暗かった。
右足の先が木の根に引っかかり、イヴォンヌが危うく転びそうになる。後ろを歩いていたシンディがとっさに腕をつかんだことで、何とか事なきを得た。
先頭のハインが振り返る。
「休憩にするか?」
「いいえ、ハインさ……ハイン。疲れてるというのとは違うの。気をつける」
納得のいかない様子を見せながらも、じっとイヴォンヌの顔色を観察したハインは、速度を少し落とした歩調で再び登りはじめた。
「イヴォンヌさん」
トーンを落とした声で、シンディはそっと話しかける。
「考えない方がいいですよ。今考えても仕方ないですから」
「……わかっては、いるんだけどね」
視線を下に落としてぼそりとつぶやいたイヴォンヌは、顔を上げ、ハインとケーリーの後についていく。
シンディもまた、三人の背中を追いながら、周囲の風景に目を走らせた。
おかしさを感じていた。緑の広がる地帯にしては、あまりにも生き物の気配が少なすぎる。鳥の鳴き声も虫の音も、ずいぶんまばらだ。これだけ歩いていれば、蛇の一匹や二匹出くわしそうなものだが、それもない。
「ハインさん」
ケーリーが、何か急いているような様子で声を上げた。
「あの……何というか……ここらへんの森は、何か……変じゃないですか?」
ハインが弾かれたように背後を向いて立ち止まり、ケーリーをまじまじと見る。
「わかるのか?」
「えっと……」
眉間にしわをよせ、ケーリーは考え考え、言葉をつむぐ。
「まず、鳥とか、獣とか、虫が、とても少ないです。それと木とか草とかの色が、上手く言えないんですけど、何か違います。あと変なのは地面です。踏んだ感じが、僕の知ってる森の土じゃないです」
ハインが目を丸くする。驚いたのはシンディも同じだった。生き物の少なさには気づいていたが、木や草の色、土の感触にまでは、注意が向いていなかった。
改めて、そばに立つ草木をじっと観察してみる。だが、シンディは首を傾げざるを得なかった。
「あの、言いにくいんだけど、私も山育ちだけど、そんなに木の色が違う? 私はあんまり、感じられない」
「違います」
きっぱりと、ケーリーは断言した。
「土も違うので、多分ですけど、木とか草とかの色が変なのは、土が変だからじゃないかなって、思います。生き物が少ないのも、それが関係してるかもしれません」
なめらかに語るケーリーを、ハインはじっと見つめていた。その目が、シンディとイヴォンヌに移される。
「どう思う、二人は」
「私は正直、わからない。森は専門外だから。申し訳ないけれど」
首を振ったイヴォンヌの横をすり抜け、シンディはケーリーの正面に立った。腰を曲げて身を屈め、ケーリーと目線を合わせる。
「ケーリー。さっきも言ったけど、山育ちの私でも、ここの木や草や土が、そんなに変だとは思えないの。ケーリーは、どうしてそう思ったの?」
「思ったというより……」
瞳を泳がせたケーリーは、不意にその場にしゃがみこむと、左手で足元の地面に触れた。小さな手のひらが土をすくいあげ、指の腹が、手のひらに乗せられた土を踏みしめるように何度か押す。
「やっぱり、違います」
シンディを見上げるケーリーの顔には、迷いがなかった。
「上手く言えないですけど、変です、この土は。土だけど、土じゃないみたいな」
「……そう」
相槌を打ったシンディは、ケーリーの口から聞いた、イーニッドの言ったことを思い起こす。
――選ばれた賢い子。
「ハインさん」
曲げていた腰をまっすぐにして立つと、シンディはハインと向き合った。
「私は、ケーリーを信じていいと思います」
ハインは、シンディとケーリーとを交互に見やった。地面に片ひざをつき、右手の人差し指と親指で、いくばくかの土を持ち上げる。さらさらと、砂時計の砂のように、土のせせらぎが宙を流れ落ちた。
「土か」
ハインが低くつぶやく。その銀細工の瞳が、目の前の地面をじっと見つめていた。
「思いもつかなかった。そうか……土がおかしくなってるのか。狩る獲物がいなくなったのも、そのせいか」
はっとしたシンディは、とっさにハインの前に屈んでいた。
「それなんですね」
こちらを向いたハインに、シンディはたたみかける。
「村の危機、というのは、狩る獲物がいなくなってしまったことなんですね?」
「ああ」
ハインは目を伏せた。
「ずっと森の獣を狩り、その肉を食べ、毛皮を売って生計を立ててきた村なんだ。獲物がいなきゃ、生きていけねえ」
鈍い音がした。ハインの拳が地面を殴った音だ。大地に浅くめりこんだ右腕が、震えている。
銀の瞳が、正面のシンディをひたと見据えた。まっすぐに見つめ返したシンディは、左の腰の杖に右手をそえ、うなずいた。
頭上の黒い影を落とす密集した木の葉の隙間から、陽光の細い帯が地に垂れている。光の帯は、草の倒れてできた道を、間隔を置いてぽつりぽつりと照らしていた。それを追うように、ハインを先頭にした四人は、静かすぎる深い森を進んでいく。
「もう着くぞ」
ハインの言葉に、しんがりを務めるシンディは、道の先に目を凝らした。確かに、木立が開け、家らしき建物が点在しているのが見える。
やがて森を抜けると、シンディの胸に、言い知れぬ懐かしさがわき上がってきた。
名の知れない小さな草がぽつぽつと生えた地面に、木の壁と茅葺の屋根の家々が、森に囲まれて立ち並んでいる。畑が見あたらないことや、舗装された道がないなどの違いはあるが、故郷の里と、どこか似通った色のある村だった。
手前の方の一軒の家の壁にもたれ、地面にぺたりと座っていた男の子が、こちらに目を向けるや否や勢いよく立ち上がった。
「ハイン! ハインだ! ハインが帰ってきた!」
少年の弾けるような大声にざわめきが起こり、村人たちが家々からばたばたと走り出てくる。あっという間に、シンディたちは人の群れに囲まれてしまった。
「ハイン」
戸惑っているシンディの耳に、伸びのある声が響く。
人垣をかきわけ、ハインの前に一人の女が立った。おそらく五十より若いくらいだろう。背が高く肩幅があり、黒い髪に切れ長の目をしている。帰ってきた村の青年を見つめる、明るい茶色の瞳が、震えていた。
「……お袋」
ハインの唇から言葉が漏れる。シンディははっとして、女とハインとを見比べた。
――似ている。
切れ長の目がそっくりだった。駆け寄ってきたこの女はきっと、ハインの母親だ。
「よく帰ってきた」
女は言い、ハインの肩に手を置いた。うなずいたハインが、銀細工の瞳を曇らせてうつむく。
「お袋。それに、村のみんな」
ハインは一歩下がると、静かにゆっくりと、地面に両ひざをついた。
「申し訳ねえ」
両手をつき、地に触れそうなほど頭を垂れたハインは、声を張り上げる。
「生贄の娘を……殺せませんでした……」
村人同士の興奮気味な囁きが、水を打ったように静まり返った。数えきれないほどの視線の棘が、いっせいにシンディに突き刺さる。
「ハイン」
ハインの母親が片ひざを折って身を屈め、穏やかな口調で言う。
「いい。十分だ、十分やってくれた。連れてきてくれただけで十分だ。あとは俺が引き受ける。水晶をよこせ」
茶色の瞳がシンディに照準を合わせる。その瞬間、シンディの体中に鳥肌が立った。
この人は、息子のかわりに、私を殺す気だ。
ばっと顔を上げたハインが、せっぱつまった様子で口を開く。
「待ってくれ、お袋。殺す以外に、この子を殺す以外に、方法があるかもしれねえんだ。それに水晶はもう……ねえんだよ……!」
「何?」
目を見張る母親に、ハインは叫ぶように語った。生贄の娘を殺そうとしたときに起こったこと。生贄の娘とその連れたちが、村のために力を貸してくれるということ。
「この赤毛の娘は魔術師なんだ。黒い肌の女は国家公認の科学者だ。金の髪の子どもも、特別な子だ。俺たちの村に、森に何が起きてるのか知ってる。何とかしてくれるかもしれねえ」
母親はハインから視線を外すと、シンディと、イヴォンヌと、それにケーリーとを順に見やった。その眉間に、深いしわが寄る。
突然、母親の背後にいた村人たちが、潮が引くようにどいた。開かれた道を大股で近づいてきたのは、大柄な初老の男だ。角ばった顔立ちをしており、白髪の混じった長髪を後ろで結わえている。細い眉の下にのぞくやや小さめの目は、白刃のような鋭い眼光を放っていた。
「かしら」
母親が慌てた動作で、歩み寄ってくる男性に向き直る。シンディの背筋に緊張が走った。
――この村の長。
かしらと呼ばれた男は足を止めると、ハインを見下ろした。
「話は聞いた。……村の役に立ちたいというから行かせたが、全く不甲斐ない。ほかの若者を行かせた方がよかったか」
ハインが唇を噛む。それを歯牙にもかけぬ様子で、男はシンディに眼光を向けた。
「さて。……さっさと帰ってくれんか。あんたらは」
「えっ?」
裏返った声で聞き返すと、男は鼻を鳴らした。
「どこの馬とも知れん連中をあてにできるか。女子供ではなおさらな。……みな、移動の支度をしろ。ここはもうだめだ。捨てるしかあるまい」
吐いて捨てた男は、きびすを返してこちらに背を向ける。その背中に、シンディは思わず大声を投げつけていた。
「待ってください! 私たちはハインさんと約束したんです! ハインさんの故郷を救ってみせるって。チャンスを……チャンスをください。お願いします!」
「救世主気どりか」
嘲笑を返して、男は振り返らなかった。だが歩き去っていくその足どりは、酷くゆっくりとしていた。
「……年老いた者も、身ごもった女も連れた大移動になる。準備に三、四日はかかるだろう。どうせ間に合わぬだろうが、望むなら、手伝いを寄こしてやってもいい」
離れていく背中を呆然と見送ったハインが、こちらを振り向く。銀細工の瞳が不安げに揺れていた。イヴォンヌはただ、宙をじっとにらんでいる。
シンディたちを囲んでいた人の輪がほどけ、家々へと戻っていく。その場に残ったのは、シンディとイヴォンヌ、ケーリー、ハイン、それに、ハインの母親だけになった。
「……すまん」
ハインは、頭を抱えた。
「無茶だろ。三、四日でだなんて」
「でもやるしかないです」
シンディは気丈に言い放ったが、腹の底では不安がとぐろを巻いていた。三、四日で、いったい何ができるだろう。
黙っていたイヴォンヌが、唐突に口を開いた。
「まず必要なのは、地図。ここ周辺の地図。そして場所別の土の採取と分析。その結果によって対応が変わる」
シンディたちが顔を見合わせるなかで、イヴォンヌは眉を上げた。
「どうしたの? 途方に暮れている暇はないでしょう? 私たちはただ、やるべきことをやるだけ。みなできることをしてちょうだい」
単調でありながら、場の濁った空気を切り捨てる声だった。おそるおそるといったふうで、ハインが問いかける。
「地図はないが、村周辺の土地を完璧に記憶してる奴がいる。そいつの助けを借りて地図を作ることはできるか?」
「できると思います」
答えたのはシンディだった。
「地図の書き方を、母に教わりました。その人を、私に紹介してください」
「あの、すいません」
ケーリーが声を上げ、みなの注意を引こうとする。
「ここらへんを案内してくれる人を一人、僕につけてもらえませんか。僕なりに、あちこちを歩きまわって、調べたいです」
その時、人が立ち上がる気配がした。ハインの母親だ。シンディたち四人の視線が、いっせいにその人に集まる。
「……紹介が遅れた。ハインの母のカトリーンだ」
カトリーンの顔には困惑の表情が浮かんでいた。無理ないだろう。伝説の姫君を呼び起こすための生贄を息子が連れて帰ってきた、と思ったら、生贄の娘と、見知らぬ科学者と子どもとが、村の危機を何とかすると言い出したのだ。急すぎる展開に、ついていけない方が普通かもしれない。
カトリーンは、少したどたどしい口調で言葉をつむぐ。
「とりあえず、俺がやるべきことは、ここらの地理を完璧に把握してる人間……まあ、一番良いのはヨハンだろうな……を連れてくることだな? そこのガキの案内なら、俺かハインで十分だろう」
「ああ。ありがとう、お袋」
礼を述べたハインは、母親から目をそらした。
「お袋……俺、今夜……」
「わかってる」
カトリーンは、ハインをなだめるような仕草で手を振った。
「大丈夫だ。お前は俺の息子だからな。俺は、かしらにヨハンを借りる許しをもらってくる。先に家に入ってろ」
シンディたちとは目を合わせず、カトリーンはこちらに背を向けると、長が歩き去っていったのと同じ方向へ、小走りで駆けだした。
それを見送りながら、シンディは腰の杖へと手を伸ばす。だが触れる直前にその手は止まり、ただその場で強く拳を握った。
†
蝋燭の灯りに照らされた小屋の空気は、弓の弦のように張り詰めていた。アリスが発する凍てついた怒気が肌を焼く。緊迫した雰囲気に関わらず、イーニッドが、落ち着いた口調で尋ねた。
「なぜそんなことを言う? この二人の頼みを拒否するなど」
アリスは眉を上げ、声を一層とがらせた。
「お師匠様。お気づきでないのですか。あの女は、ユニコーンを殺したのですよ」
「えっ」
レティの驚嘆の声が聞こえていないかのように、アリスは続けた。
「〈川守り〉からの報せは、ケーリー・ウッドをユニコーン殺害の罪で追放したというものでしたが、私にはわかります。殺したのはケーリーではなく、あの赤毛に金の瞳の女でしょう。お師匠様。本当はお気づきなのではないですか」
イーニッドは黙していた。思案顔で、扉の前に立つアリスを見つめている。
「……あの」
沈黙を破ったのは、レティだった。即座にアリスの冷たい視線が突き刺さってき、思わずびくっとする。
――ここで引き下がっちゃ駄目だ。
自身に言い聞かせ、レティはアリスの前に立った。こちらをにらむ翡翠の瞳をまっすぐに受け止め、考えを巡らせる。だがこれといった案は浮かんでこない。ただ何とかしなければという思いが胸を巡るばかりだ。
「シンディにすごく怒ってるんだろ、アリス」
とっさに思いついたままに、レティはしゃべりだした。
「だったらなおさら、助けに行くべきなんじゃねえの?」
「は?」
意味がわからないというふうに顔をしかめたアリスに、レティは言葉を重ねる。
「怒ってるのなら、文句の一つでも拳の一つでも、シンディにぶつけたいだろ? このままシンディを放っておいたら、多分もうそういうチャンスは来ない。一緒にシンディを殴りに行こう」
口から飛び出したままの言葉だった。レティは自分自身にびっくりしたが、それでも押し通すしかなかった。
アリスは翡翠の目を瞬かせ、まじまじとレティを見つめる。
「あなた、それが説得になるとでも思ってるの?」
「ならねえの?」
強気で聞き返すレティに、アリスは戸惑った様子で口をつぐむ。もう一押しと判断したレティは、さらに言いつのった。
「シンディがユニコーンを殺したのなら、多分、いや絶対、亡きがらを埋めて墓を建ててると思う。シンディに会えば、墓の場所がわかるぞ」
ぴくり、とアリスの肩が跳ねる。皆が押し黙るなか、トン、トン、とアリスの足先が床を打つ音が響いた。
「……わかった」
永遠かと思われるほどの沈黙の後、アリスはきつい表情のまま、ようやく首をたてに振った。
「あの女をぶつためと、ユニコーンの魂のために。あなたたちを運ぶのは、ただのおまけ。感謝しなさい」
「ほんとか! ありがとなアリス!」
レティはにかっと笑うと右手を差し出した。アリスはたじろぎながらも、その手をおそるおそる握り返す。レティがちらりと後ろに視線をやると、ヒューイは呆気にとられた顔で口を開けていた。イーニッドの方は、目を細めてにやにやと笑っている。
ゴンがとことこと歩み寄り、アリスの足にからみつく。眉間のしわをしまったアリスは、二本の尾を持つ白い狐を慣れた手つきで抱き上げた。
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