25、人の子(下)
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蝋燭の火が、息をひそめて静かに燃え続けている。灯に照らされたイーニッドは、暗いまなざしで宙の一点をじっと見つめていた。
テーブルに両手をつき、小さく体を揺らすレティの横で、椅子に座り直したヒューイが口を開く。
「その後イーニッド殿の身に起こったことは、あらかた把握しているつもりです。二十二年前、先代の我が里の長フローラの第一子、現在の長ゲイルの姉であるアビゲイルによってこの地に連れてこられた。そして、当時の里の長フローラの手配で、アギソン村の一介の村人として身を隠すことになったと、禁書の歴史書に記されていました。イーニッドという名前はフローラから与えられたものだそうですね。もとの名は、イニカ」
「えっ」
驚きのあまり、レティは大声を上げた。ヒューイが顔をしかめたのに気づき、小さく首をすくめる。だが、胸の底にわき上がった興奮は冷めやらぬままだった。
アビゲイル。祖母の娘であり、母の姉であり、自分の叔母であり、〈十三輝ノ星〉の一人である人。
「何のために」
唇から、自然と言葉が流れ出ていた。
「何のために、連れてこられたんですか?」
「ヒューイが知っているだろう」
イーニッドの答えに、ヒューイはかぶりを振った。
「私が知っているのは、歴史書に書かれていることだけです。貴重な人材確保のためだったと。結果的に、実際そうなってもいますが。〈金ノ君〉やユニコーンならともかく、イーニッド殿が管理なさっているあれらのようなものを扱える人間は、そういません。ですが、それが本当なのか……私たちの叔母の本心だったのかは、わかりかねます。アーデンの地の人間を連れてきてかくまうなど、相当の危険を伴う行為だったでしょう。ただ人材が欲しかったというだけで、そこまでするとは思えません。何より問題なのは、人材確保と銘打っておきながら、何を目的とした人材確保だったのかが明記されていないことです。本来の意図は別にあるのか、あるいは……明記できないような目的のための人材なのか」
イーニッドは、口角を上げた。
「歴史書の記述を鵜呑みにはできない、ということかい。まだ爪が甘いところはあるが、歳のわりには慎重だね。それに頭もまわる。次の里の長はあんたなのかね?」
「何をおっしゃいます」
ヒューイは目を丸くした。
「長は女がなるものでしょう。私は男ですよ」
「アーデンの地では、長は男がなるものだよ。うちの村の村長も代々女が務めるものだったが、あたしが説得してオービルを、男を長にさせたんだ。時代には変化が必要だよ」
ヒューイの瞳が戸惑いを映して揺れた。沈黙を置いて、ヒューイは絞り出すように言葉をつむぐ。
「私の使命はレティを助けることです。いずれ長となるレティを。それ以外、考えたことはありません」
「それでいいのかい? 姉妹を助けるという立場で終わって」
イーニッドのもの問いたげな目がレティを向く。
「そこの娘は、長の地位に向いていそうにも、望んでいそうにも見えないしね」
向いていそうに見えないという言葉に、レティはちくりと痛みを感じた。だが、イーニッドの言うことには同意だった。自分には長になりたいという気持ちはない。兄の方がふさわしいというのも、前々から思っていたことだ。
ちょうどその時、ノックの音が鳴った。三人の視線がドアに集まる。イーニッドの口元に、ちらりと微笑が浮かんだ。
「お入り、アリス」
開かれた扉の向こうに、松明を手にした一人の少女が現れる。レティとヒューイは、その姿に目を奪われた。
美しい人だった。背に豊かに流した髪は、秋の麦の穂のような見事な金色に輝いている。こちらを見つめるその瞳は、清流の川底の翡翠の眼だ。まるで世界の裏側から抜け出てきた妖精のようだった。
「跡継ぎのアリスだよ」
イーニッドが言うと、ヒューイが低くうなった。
「これは……なるほどな……」
「わかるかい?」
イーニッドの目が面白そうに光った。
「魔のものをも惹きつけ、従わせる。そういう素質のある子さ、アリスは」
「お師匠様」
松明を消し、小屋に足を踏み入れたアリスが口を開いた。儚げな容姿に似合わない、伸びのあるしっかりした声だ。
「ご用件は何ですか?」
「これを飛ばすよ。北西の方角、川の向こうの先までね」
アリスの表情が険しくなる。その翡翠の瞳に怒りがにじんだ。
「それは、あの赤い髪に金の眼の女……シンディのためですか? もしそうであるなら、私は拒否します」
「何?」
イーニッドが眉を顰め、咎めるような声色で問う。アリスは一切動じなかった。
「私は、拒否します」
繰り返したアリスの声には、冷たい怒気がひたひたと満ちていた。レティの視線と、アリスの視線とがぶつかる。無意識のうちに、レティは半歩、後ろへ下がっていた。
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目を開けると、視界に広がったのは真っ暗闇だった。絨毯と毛布のぬくもりが心地良い。聞こえてくるのは穏やかな寝息と、外から伝わるかすかな蒸気のような風や虫の音だけだった。
何か予感がして、寝る前に体のわきに置いたはずの杖を、シンディは手探りで探した。右の中指に、なめらかな木肌の感触があたる。それを手のひらにしっかり握ると、シンディは呪文を唱えた。瞳のなかに、土の壁や、木の柱や、床に敷かれた絨毯の輪郭が、くっきりと像を結ぶ。
部屋をぐるりと見まわしたシンディは、あることに気がついた。イヴォンヌとケーリーと、この宿の番犬ブランは、絨毯の上に身を横たえている。そのなかで、ハインの姿だけが見あたらなかった。
ハインに言えなかった、気になっていたもう一つのことを、シンディは考えていた。今が一番、ハインにとって辛い時期なのではないか、と。
二週間に一度、孤島に罪人を食いに行くと言っていた。シンディが里からここまでたどりつくのに八日かかっている。ハインには飛ぶという手段があるのを考えると、故郷の村からシンディの里まで、シンディほどは時間はかかっていないだろう。三、四日、といったところか。
計算すると、ハインが村を離れてから十一、二日経っていることになる。それはつまり、人を食わなければならない時が近づいている、ということではないか?
毛布をはいで立ち上がったシンディは、自分の足が震えているのに気がついた。
今ハインを探しに外へ出れば、もしかしたら、人食い竜の本能に操られたハインが襲ってくるかもしれない。真珠の竜の姿となって。
だが同時に、行かなければという衝動が、胸の内側で脈打っていた。
知り合った人が、苦しんでいるのかもしれないのだから。
杖を右手に持ち、シンディは階段を上がって、地上へと顔を出す。身を丸めて藪のドームを抜け出ると、シンディは腰を上げて森を見まわした。ハインの姿は、見えない。
「どうした?」
背後から突然響いた低い声に、シンディはびくっとして振り返った。後ろにあるのは、シンディより少し背の低い、ずんぐりとした藪だけだ。
「……そこに、いるんですか?」
藪の向こう側に問いかけると、少し間を置いて、ああ、と返事が返ってきた。
「何しに出てきたんだ、お前」
「星を見に来ました」
階段を上りながら考えた言い訳を口にすると、笑い声がした。
「まともに見えねえだろ、こんなに木が繁ってちゃ」
シンディは空を仰ぐ。確かにハインの言う通り、幾重にも重なった木の葉の黒い影が夜空を覆い隠していた。それでもシンディは、きっぱりと断言する。
「見えます。少しだけど、見えます」
何も言わないハインに、シンディは尋ねた。
「ハインさんは……何をしているんですか」
沈黙が流れる。ビィー、ビィーと、虫が小さな腹を力いっぱい震わせるのが聞こえた。
藪の向こう側の人は、答える気がないのだろうか。シンディがそう思い始めた頃、唐突に、ハインが言葉を発した。
「ブランのかわりだ」
セリフの終わりがかすれていた。シンディは、自らの目にかけていた魔術を解く。穏やかな速度で、視界が闇にもぐった。
藪をつたって横歩きに移動すると、シンディの右のふくらはぎが柔らかいものにあたった。そのままゆっくりと、シンディは地面に腰を下ろす。
隣に座るハインの少し荒い息を、シンディの耳は確かにとらえた。
「この暗さですから、私は何も、見えません」
忍ばせた声ではっきりと、シンディは言う。
「何かを聞いても、朝が来たら、全部忘れています。誰かが、忘れてほしくないと思っていたら、覚えています」
木々と闇夜に守られて、沈黙が身を沈めていた。広げた両手でせき止めようにも、指の隙間から漏れ出していく水の流れのように、小さく低い泣き声が、隣に座る人の子の唇から、こぼれていく。泣き声は沈黙に染みこみ、シンディはその沈黙を肌で吸った。わずかに触れた体温のある体が、震えている。
自然と、あの手紙の一文一文が脳裏によみがえってきていた。今ここであれを話したら、ハインは、何を思うのだろう。
気持ちが楽になる可能性もあるが、逆にショックを受けさせてしまう危険もある。
――ハインのお母さんに、話を聞いてからだ。
自分自身に言い聞かせ、シンディは拳を握った。
どのくらいの時間が過ぎたのかわからなかった。地下の宿にいた時はぬくかった手足が、今はすっかり冷たい。
泣き声が少しずつおさまり始め、ハインが深呼吸をする気配がした。
「よく来る気になったな」
「どうしてですか?」
「……食われるかも、とは考えなかったか?」
怯えた様子で口にしたハインに、シンディはうなずいた。
「考えました。でも私は、ハインさんと知り合って、そして、今ハインさんは、苦しんでいるかもしれない、と思って。行かなければならないと思いました。ハインさんと会う前……これから私は戦わねばならないという時、イヴォンヌさんが言ったんです。私たちは、知り合った。戦いに付き合う理由は、それだけで十分だって」
話しながら、シンディは思い出していた。川を越える前、水や食べ物が入っているはずの荷から現れ、深々と頭を下げるケーリーを。
あの時自分は、ケーリーの助けになろうとしなかった。何もわかっていなかったのだ。
「一つ、気になってたことがあるんだが」
ハインがおそるおそる問う。
「自分が生贄だとわかって、去ろうとは思わなかったのか? それが一番楽で、確実に助かる方法だろ」
一瞬きょとんとしたシンディは、やがて苦笑をもらした。
「そうですね。思いつきませんでした。多分、真面目すぎるんだと思います。レティに……故郷の友達によく言われました。シンディはいつも真面目だよなって。でも不思議ですね。このまま去る気が起きないです。……イヴォンヌさんがいるからかもしれません」
「……そうか」
相槌を打ったハインは、唐突に言った。
「イヴォンヌに、さん付けと敬語をやめてほしい、って言っといてくれ。お前やケーリーはともかく、あんなすげえ人に敬語なんて使われちゃ、居心地が悪いや」
暗がりのなか、ハインが立ち上がり、手を差し伸べてくる。空を閉ざす木の葉の隙間から垂れた月光の糸に、銀細工の瞳が、光っていた。
握った手は、ずっと夜の闇に晒されていたせいか、氷のように冷たかった。それでもシンディは、ハインの手を、離さなかった。




