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空へ  作者: 上田謡子
23/29

23、運命(下)

 どろりとした曇り空と鬱蒼と繁る木の葉とが相まって、森のなかは暗かった。黒い影を落とす木々の間を、シンディは一人、駆けていく。


 思い出すのは、グエンダ川を越える前、ユニコーンの背から見ていた景色だ。まだあれから五日しか経っていないのが嘘のようだった。あのユニコーンの魂は、今、どこにあるのだろう。


 きゅ、と胸が痛む。シンディは一歩一歩、柔らかな腐土と落ち葉と蔦の地面を踏みつけていく。延々と続く暗がりに、突然光が走った。太陽のものではない。濃い緑色の、前方をまっすぐに示す光の筋。


 確かめるまでもなかった。ホワイトに襲われたあの夜と、同じことが起きている。


 少し息を切らせて、シンディは立ち止まった。太い幹の黒い木が七、八本並んだ向こうに、人影が立っているのが見えた。


「わかっていたんですね」


 シンディは、大きな声で言った。


「私が来るとわかって、待っていたんですね」


 その人は、答えなかった。


「返してください」


 言いたいことは、それだけだった。


「私の里の神様を、返してください」


 槍の穂先の水晶が発する緑の光を浴びるその人は、黙したままだった。


 火にかけられた鍋から湯気がたつように、その人を囲んで、白銀の霧が立ち昇る。意志があるかのように、揺らめき、うごめき、その人を守るように包んだ霧は、やがて竜のかたちを成した。


 水滴が凍って氷のつぶてとなるが如く、霧の竜が、真珠の竜となる。


 暗い森のなかでも、その姿は残酷に美しかった。がっしりとして、それでいてしなやかな四つ足に、長い首と尾の純白の身体。銀細工の如く繊細に強く光る瞳。額から後ろへと伸びる、闇夜をかためた二本の角。この森に何千年と棲む主だと説明されても、うなずいてしまうだろう。


 シンディは右手に杖を構えながら、左手を懐に忍ばせた。ホワイトの尾がゆらりと持ち上がる。


 先に動きを見せたのはホワイトだった。木をよけながら、シンディから見て左の方にゆるやかな弧を描いて突進してくる。


 その動きを冷静に目で追って、シンディは呪文を唇に杖を突きつけた。腐土を駆けるホワイトに、猛烈な突風のかたまりが横からぶつかっていく。ややよろめいたホワイトだったが、倒れる様子はない。間髪入れず、シンディは次の呪文を唱えて杖を横に振った。


 大気に亀裂が走り、そこから放たれた青い稲妻がホワイトに向かっていく。腐土を蹴散らして進むホワイトの目がそれを視界に捉えた。その脚が地面ではなく宙を蹴り、体が地上を離れる。バシッと激しい音をたてて稲妻に打たれた地面から、黒い煙が上がった。


 大地から大気へと走る場所を変えたホワイトが、猛スピードで迫ってくる。その瞬間、シンディは懐に入れていた左手を、さっと口元に運んだ。下唇にあてたのは、ディーラゴン山脈でササクから譲り受けた縦笛だ。両の穴を人差し指と中指で塞ぎ、その吹き口に力いっぱい息を吹き込む。


 トンビの鳴き声よりも甲高く、どこか奇妙な調子の笛の音が、森中に響き渡る。低く重い呻き声が耳に届くのと同時に、どうっと地響きをたてて、ホワイトの身体が地に倒れ伏した。


 白銀の鱗の体躯から霧が立ち昇り、空気へ溶けるように消えていく。白い竜に代わって姿を現したのは、地面にうずくまる丈の長いマントを纏った一人の男だった。


 脳裏に、ササクが縦笛を渡しながら言った言葉が浮かび上がる。


『上の穴を塞いで吹けば、興奮したディーラゴンの気を静めることができまする。両方の穴を塞げば、ディーラゴンが昼の姿から夜の姿へ変わるのを止めることができまする』


 ササクの推測した通り、ディーラゴンとホワイトはどこか近い生き物なのだろう。笛を授けてくれたササクの好意に、シンディは心から感謝した。


 笛を唇に構えたまま杖を握り直し、ゆっくりと男に歩み寄っていく。心臓が早鐘を打っていた。いくら笛があるとはいえ、相手は立派な魔物だ。


 あと三歩も進めば、突き出した杖の先が男に触れる。

 

 その刹那、男がガバリと跳ね起きた。

 

 はっと緊張して後ずさるのと、男が叫びを上げるのが同時だった。


「全能の姫よ! 約束を守りたまえ!」


 シンディの首にかかった槍の穂先の水晶が、突然赤く光りだす。目に痛いほどに鮮烈な赤。シンディは、その色に覚えがあった。ご神体が盗まれた夜の、神殿の壁の光の赤。五歳のあの日、シンディの血を吸った槍の穂先の水晶の赤。


 突然指先の力が抜け、シンディは笛と杖の両方を取り落としていた。


 男から霧が昇る。あっという間に竜の姿を取り戻したホワイトは、純白の巨体を大きく横へひねった。反射で地面に這いつくばったシンディの頭上を、ブンッと風を切ってホワイトの尾が通り過ぎていく。


 次の攻撃に備え横に転がりながら立ち上がったシンディの視界が、白い鱗でいっぱいになった。


 重い衝撃と鋭い痛みが走り、頭が真っ白になる。落ち葉と蔦の上に、シンディの身体は仰向けで転がった。すぐさま起き上がろうとしたが、体当たりをまともに食らった体は言うことを聞かない。死が脳裏をよぎる。笛と杖を求めて地面に目を走らせるが、視界が霞んで探せない。


 足音が近づいてくる。歯を食いしばって首を持ち上げると、竜の姿はどこにもなかった。かわりに、男が一人歩み寄ってきている。黒髪に黒い眼鏡をかけマントを纏ったその男は、動けないでいるシンディの前で足を止めた。


 男は落ち着いたふうで眼鏡を外し、シンディを観察するようにじっくりと眺める。あらわになったその目は、ホワイトと同じ銀細工の瞳だった。


 左手に持った眼鏡をしまい、男が懐からあるものを取り出す。あまりの驚きに、シンディは痛みも忘れて息を呑んだ。


 男の右手にあるのは、真緑の光を放つ槍の穂先の水晶だった。シンディが里の神殿から持ってきたものと瓜二つだ。


「ど……して……?」


 こちらの声を無視して、男は水晶を短剣のように握ると、シンディの上に覆いかぶさってきた。大きな左手がシンディの首を押さえ、男の両腿が、シンディの下半身をはさむようにして動きを封じる。


 水晶の切っ先が、シンディの左胸をまっすぐに指した。


 ――殺される。


 ぞっと鳥肌が立つ。指が、背筋が、心臓が、震えた。


「すまん」


 男の低い声とともに、槍の穂先が、振り上げられる。


 杖はない。笛もない。赤い光で助けを呼ぶことも、魔術で男を跳ねのけることもできない。


 ――嫌だ。


 ドッと、動いた。


 シンディの奥の、何かが。


 ――死ねない。


 ――こんなところで、私はまだ、死ねない。


 イヴォンヌの研究所の窓から見えた、夜を押しやっていく炎の帯。それと同じ色の髪をしたレティの顔が脳裏に浮かぶ。


 息ができなくなった幌馬車で、背中をさするイヴォンヌの手の体温がよみがえった。


 川の桟橋で意識を失いベッドで目覚めた時、部屋に駆け込んできたケーリーの、必死で、心配そうな声が、頭に響く。


 新月の夜、お茶を用意してテーブルについたエイブの、揺らぐ緑の瞳。


 気づけば、シンディは、叫んでいた。


 高く、高く、大きく、大きく。


 落ち葉がさざめき、蔦がさざめき、木の葉がさざめき、大気がさざめき、脈打った。


 自分の上に覆いかぶさった男が水晶の刃を取り落とし、苦悶の表情を浮かべるのが見えた。それと同時に、人の腕ほどもある太さの蔦が何本も何本も地から伸び上がり、男の体に巻きついていく。


 死に物狂いでシンディは右に転がり、男から距離をとった。肩で息をしながら立ち上がり、信じがたい光景に目を見張る。


 男はすでに、十本以上はある蔦に絡みつかれ身動きがとれなくなっていた。必死の形相で暴れてはいるが効果はない。白銀の霧が男を囲むように現れては、意思があるかのように動く蔦に振り払われて消えてしまうのを繰り返している。


 シンディは蔦に囚われた男を見、そして、自身の喉に触れた。今まで出したことのない叫びを上げた喉に。


 この男を今の状態に追い込んだのは、蔦を操ったのは、自分なのだろうか? 杖もなく、呪文も唱えていないというのに。


「シンディさん! シンディさん!」


 遠く小さくではあったが、後方から聞き慣れた声がした。ケーリーだ。

 振り返ると、イヴォンヌとケーリーらしき人影がこちらに走ってきていた。ほっと肩の力が抜ける。だがすぐに、シンディは男の方へと視線を戻した。


 男はすでに抵抗をやめていた。蔦に縛り上げられた顔色は白い。切れ長の目をした、十八、九歳の若者だ。半ばうつむけた顔の銀の瞳には、暗い影が差している。


 シンディは少し離れたところに立つと、身を屈め、男と目線を合わせた。垂れた前髪の間から、男の射抜くような視線がこちらをまっすぐに刺している。


「殺せ」


 その薄い唇から、言葉が漏れた。


「最初からそのつもりだったんだろ? 殺せ。そして、俺の死体から神様を取り返して、里へ帰りゃいい」


 白刃を思わせる、怖いような視線だった。だがシンディは目を合わせたまま、首を横に振った。


「駄目です。あなたに、死んでほしくないという子がいますから」


 男が訝しげに眉を顰める。バタバタと足音がして、イヴォンヌのせっぱつまった大声が響いた。


「シンディ! 大丈夫!? すごい叫び声がしたから……!」


 息を切らせて駆け寄ってきたイヴォンヌは、蔦の檻に閉じ込められた男を見、ぴたりと立ち止まった。少し遅れてやってきたケーリーが、緊張した面持ちでシンディの横に並ぶ。男の顔色が変わった。


「お前……!」


 銀の瞳に動揺の色が浮かぶ。何度もつばを飲み込んで、男はようやく口を開いた。


「お前……ケーリー……何で、ここに……」


「学院に入りたかったんです。ハインさんが話してくれた学院に。でも、僕だけじゃグエンダ自治区を出られなかったから、シンディさんに、この赤毛の人についてきたんです」


「……そうか」


 男の放つ張り詰めた空気が、ふっとゆるんだ。


「学院には、入れそうなのか」


「イヴォンヌさんが……この女の人が、僕が学院に入れるように面倒を見てくれます。すごい科学者なんですよ、イヴォンヌさんは。僕はきっと学院へ行って、学者になります」


 ケーリーの口調は、シンディにドードーについて語っていた時と同じくらい生き生きとしたものだった。だが、その表情が曇る。


「ハインさん」


 ケーリーの目は、悲しみと混乱とで、濁った冬の池のようだった。


「どうして……どうして、シンディさんの里の大切なものを盗んだんですか。僕は、ハインさんが、竜なのか、人間なのか、もっと別のものなのか、わかりません。でも僕は、ハインさんを……信じたいです」


 ハインさんと呼ばれた男は、黙っていた。その両眼が、ケーリーを、イヴォンヌを、そして赤毛と金の瞳の娘を見る。


「……俺の故郷に、昔話がある」


 仄暗い闇が支配する森で、唐突に、ハインは語りだした。

 希望と、絶望の、物語を。




                    ☩




 昔、大陸の西の海に、アトランという大国がありました。この大国は、魔術も、科学も、医術も、何もかもが優れた国でした。


 ある時、アトランの王子が、国の用事のために大陸を訪れました。その帰り道、死者の魂の山脈の北西で、王子は突然の病に倒れてしまったのです。この時、窮地に陥った王子を助けたのは、とある狩人の村の人々でした。


 狩人たちのおかげで一命をとりとめた王子は、彼らに言いました。自分には五人の姉妹がいて、彼女らはみな、神のようなとても強い魔法の力を持っている。あなた方が危機に瀕した時には、必ず、アトランの姫の誰かが助けに参じるように計らおう、と。


 けれど、王子が無事に国に帰って何年か経った頃、アトランはとても大きな災いによって、滅びの淵に立たされてしまいました。このままでは狩人たちとの約束を果たせない、と悔やんだ王子は、宰相の魔術師に助けを求めました。


 そこで宰相は、五人の姫君たちのうち三番目の姫を水晶の像に変え、とある仕掛けを施しました。アトランの国の、赤毛に金の瞳の一族の心臓の血を以て、姫が人の姿となれるようにしたのです。そして、姫の像と生贄の金の瞳の一族を、グエンダの地の古い友人に頼んで、うまく隠してもらいました。恩人の狩人たち以外の者に、姫が利用されるのを防ぐためです。それから宰相は、狩人たちに伝えました。もしこの先とても困ったことが起こったら、グエンダの地の〈月刀ノ里〉の神様――水晶の像に変えられた姫君――を盗み出せ。そして、姫君を取り戻そうと追いかけてくる、赤い髪に金の瞳の女の心臓の血によって、姫君を目覚めさせよ。そうすれば、全能なる姫があなた方を助けるだろう、と。




                    ☩




 膝から力が抜け、シンディは危うく倒れるところだった。隣に立つケーリーが、慌てて腰を抱くようにしてシンディを支える。


「生贄」


 シンディは、繰り返した。


「生贄」


 思い出す。そして、繋がっていく。


 ご神体が盗まれた日。神殿でめまいが襲ってきた時に視界の端に映った、赤いもの。


 あれは、昔吸ったシンディの血の色に光る、槍の穂先の水晶だったのだ。あれが合図だった。心臓を捧げるために、生贄となるために走れ、という合図。


 女の子にはグエンダの地の外の知識を授ける。あれは、ゴールダー家の娘の誰かが、いずれご神体を追って外の世界に飛び出す時のための備えだったのだろう。


 シンディも、シンディの母もその母も、自分たちが何なのか、家に伝わる伝統に何の意味があるのか、知らされないまま生かされてきたのだ。生贄の羊として。


「そう……そういうこと……私たちの信じてきた神様は、そういうものだったの……厳重に守ってたのも、里の外に知られないようにしてたのも、そういうことだったの……」


 ケーリーに寄りかかりながら、シンディはずるずると腰を落とし、ぺたりと地面に尻もちをついた。シンディの動きを追うように視線を落としたハインが、淡々と言葉をつむぐ。


「俺が持ってた、槍の穂先のかたちの水晶があるだろ。あれは、アトランの宰相が狩人たちに授けていったもんらしい。水晶の先で生贄の左胸を刺せばいい。そしてその血を、姫君の像に振りかければいい、と聞いた。像を盗むのは簡単だった。神殿の扉を開く方法も、地下に降りる方法も、全部村に伝わってた。それに、抵抗する生贄を弱らせる方法も」


 奥歯を食いしばり、シンディは拳を強く握りしめた。頬を生温かい水が伝う。


 自分は、泣いているのか。


「そうなの……そういうことなの。私の家は……血は……そういう運命のもの……だったの」


 この仄暗い場所は、どこだろう。あそこに似ている。母に押さえつけられ、里の長に傷つけられた、あの神殿の地下室に。


 私は、どこにいるのだろう。どうすれば、いいのだろう。


 突然、背後から左の肩をつかまれた。はっとして振り返った先にあったのは、イヴォンヌの顔だった。シンディは驚いて、思わず目を丸くする。


 シンディの肩をつかむイヴォンヌは、見たことのないほど険しい目つきをしていた。瞳が黒く燃えている。


「冗談じゃない」


 怒気をふくんだイヴォンヌの声が、暗がりを切り裂いた。


「何が血よ。何が運命よ。もしその運命とやらがそんなに偉いものなら、私は今頃、お屋敷の掃除婦よ。でも私は今、ここにいる。工学者としてここに立っている。あなたを運命だなんて、そんなふざけたもののために、死なせてたまるものですか!」


 つかまれた肩が痛いほど、イヴォンヌの右手には力がこもっていた。シンディやケーリー、ハインだけではなく、まるで森の木々や鳥までもが、イヴォンヌの発する言葉の一つ一つにじっと耳を傾けているかのような、鋭い静寂が息を詰めていた。


 イヴォンヌの黒い目がぐるりと動き、ハインをひたと見据えた。


「あなたの故郷の狩人の村が、その全能の姫だか何だかに頼らざるを得ないほど、困ってるのね?」


「……ああ」


 ハインがうなずくと、イヴォンヌは断言した。


「何とかする」


 困惑の色を浮かべるハインにたたみかけるように、イヴォンヌは言う。


「ここには、国家公認の科学者も、人食い竜に打ち勝った魔術師も、生き物に詳しい未来ある子も……それに、アーデン人なら誰もが恐れる魔物もいる。何とかしてやろうじゃないの」


 シンディは、自分の斜め後ろに立つイヴォンヌを、一人の人間を、見上げた。


 まぶしかった。たまらなく、まぶしかった。


 自分も、こんなまぶしい人間になれるだろうか。


 袖で涙をぬぐうと、シンディは立ち上がった。武器を、杖を、取りに行かねばならない。


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