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空へ  作者: 上田謡子
20/29

20、未来(上)

 日が昇り、陽光に満ちた緑の山々は美しかった。空は胸のすくような快晴だ。背負った荷が昨日より軽く思われるほどの、良い景色と良い天気だった。


 木こそないが、鉱石の採掘活動が行われている地域と違い、ここの大地は青々とした草に覆われている。ただし地面のおうとつが激しいのと、急な傾斜が延々と横たわっているのは同じだ。徒歩でこの先を進むのは骨が折れることだろう。


 急いで支度を済ませ皆より先に洞の外へ出たシンディは、首飾りのひもを指でつまんで持ち上げた。


 動悸が少し速くなる。機体のガラスを隔てて自分を見据える銀の瞳が、脳裏をちらついた。


「……約束を守る姫、心を欲する姫、全能の姫、あなたを追う者に、あなたの居場所を示されよ」


 水晶が青とも水色とも言いがたい微妙な色合いの光を発し、その穂先が北西を指す。

 ススクに追い払われた後、あのホワイトは北西に飛んだらしい。

 光の消えた水晶を、シンディはなおも見つめ続けていた。


 ご神体が盗まれた晩、里と森の境まで追いかけた足跡は、確かに人間のものだった。ケーリーの家で休んでいった旅人も人間のはずだ。ホワイトが人に化ける能力を持つ竜だということなのだろうか。


 謎は多いが、納得がいく部分もあった。グエンダ川のそばで追いつくはずが、わずかな間に大きく引き離されてしまったあの時。いったいどういうことなのかと頭を抱えたが、ホワイトの能力を駆使して空を飛んだのだと考えれば説明がつく。


「ススク」


 昨夜泊めてもらった洞の出入り口から、ササクのしゃがれた声がした。


「北西の端まで、しっかりご案内差し上げよ」


「わかっておりますよ、ササじい」


 少し鬱陶しげにススクが言う。それと同じくして、足音が近づいてくる気配がした。


 振り返ったシンディの前に立ったのは、灰色の鞄を背負いマリアンから渡された黒い鞄を腕にさげたイヴォンヌと、元気そうな様子のケーリーだった。しっかり眠り、今朝には肉の燻製とパンの朝食を食べたおかげか、二人とも顔に生気がある。


 シンディは、イヴォンヌの姿に上から下まで目を通すと、思わず微笑をこぼした。


「似合ってますよ、イヴォンヌさん」


「そうかしら?」


 イヴォンヌは、首を傾げて自らの身体を見下ろした。


 イヴォンヌが着ているのは、研究所を出た時のスカートではなかった。黄の刺繍が入った赤い長衣に、裾が少しふくらんだ白いズボン――ケセト族の服だ。シンディも、身につけているのは紺色の長衣と白いズボンだった。ただしイヴォンヌとは違い、シンディは長衣の上に黄色の腰布を巻き、ドードーの頭の杖を挿している。


 シシカがイヴォンヌとケーリーの後に続いて出てき、目を細めた。


「似合っておりまするよ、お二人とも。あのアーデン人の女性の服では、ここから先の山道は無理がありましょう。我が妹らが着ておりました古いもので、申し訳ありませぬが……」


「とんでもない。わざわざご用意していただいて、ありがとうございます」


 イヴォンヌが礼を述べると、シシカはにこやかに首を振った。


 最後に洞から出てきたセセトがシシカの横に並び、こちらと目線を合わせるように身を屈めた。


「順調にいけば、山脈を抜けられるのは明日、日が空の北東にある頃でありましょう。といってもそれは、山に慣れた我らの足でならという話で……」


「つまり、私たちの足だともっとかかるだろうということですね」


 シンディが言うと、セセトは首をたてに振り言葉を続けた。


「北西にずっと参りますと、他のケセト族の者たちの洞がありまする。そこまでたどり着くのが今日の日没より早いくらいでありましょう。ススクもおりますし、事情を話せば泊めてくれるはずでございまする。ところで、あなた方が乗ってきたあの銀色の乗り物でございますが……申し訳ありませぬが、我らの手で処分させてくだされ。ずっと放っておくわけにもいきませぬゆえ」


 イヴォンヌの顔がこわばる。だがしばしの間を置いて、イヴォンヌはうなずいた。


「はい。設計図もありますから、また……作れます」


「申し訳ありませぬ」


 セセトが眉を下げる。そこに、何かを手に持ったササクが割り込んだ。


「イヴォンヌ殿。これを」


 差し出されたのは、一通の封書だった。受け取ったイヴォンヌは、封書とササクとに交互に目をやる。


「これは……?」


「いずれ山の外のふさわしい方にお伝えせねばと常々思いしことを、お書きしたのでありまする。あなたに大きな荷を負わせることとなるやもしれませぬが……思慮と真心のある誰かに、何としても、伝えねばならぬことなのでありまする」


 真剣な表情でイヴォンヌを見つめるササクを、イヴォンヌはまっすぐに見つめ返す。黒い瞳にササクと、その背後に続くディーラゴンの山々が映った。


「確かに受け取りました」


 丁寧な手つきで、イヴォンヌは封書を懐にしまった。


「それと、シンディ殿」


 ササクがシンディの方を向き、狐の毛皮と思われる小振りな袋を差し出す。シンディが首を傾げながらも受け取ると、ササクは「開けてみなされ」と促した。


 袋を開いて斜めに傾けると、シンディの手のひらに転がり出たのは、人差し指ほどの大きさの一枝の縦笛だった。吹き口のほかには穴が二つ開いており、明るい茶色の木の表面はなめらかで、丁寧にやすりをかけ油を塗ったことが窺える。


「我らに伝わりたる、ディーラゴンを御する笛でありまする」


 笛に見入るシンディに、ササクは説明する。


「上の穴を塞いで吹けば、興奮したディーラゴンの気を静めることができまする。両方の穴を塞げば、ディーラゴンが昼の姿から夜の姿へ変わるのを止めることができまする」


「これを、私に?」


 シンディの問いに、ササクはうなずいた。


「もしかすると、この先また、ホワイトに襲わるることもあるやもしれませぬ。確信はありませぬが……そのときには、この笛が役立つやもしれませぬ」


 ササクの思いやりのこもった口調に、シンディは胸がじんわりと温かくなるのを感じながら、笛を袋に戻しズボンのポケットにしまった。


「ありがとうございます。……本当に」


 そのやりとりを少し離れた場所から黙って見守っていたススクが、突然大股で歩み寄ってくる。何事かと見守るシンディの前で、ススクはイヴォンヌからひったくるように黒い鞄を奪った。


「これ、ススク!」


 ササクがたしなめるのを無視して、ススクは北西の方角へと足を向けた。


「早く出ねばなりませぬ」


 つっけんどんな口調のススクは、そのまま山道をずんずん歩いていく。顔を見合わせたシンディたちは、ササクやセセトに手短に暇を告げると、急いでその後を追いかけた。




                    ✝




 その夜――新月の次の晩のこと。イーニッドは、寝床でふっと目を覚ました。


 胸が妙にざわざわとしている。横たえた身を起こしケーリーの寝床へ行ってみると、友達が少なく周りのこと全てへの疑問が絶えない少年の姿は、どこにも見当たらなかった。


 いったい今度はどうしたのかと考えているうちに、そういえば今日、あの子に月光虫の話をしたことを思い出す。ケーリーは異常とも言って良いような好奇心のかたまりだ。ことに、生き物に関しては。


 厚手のマントを身にまとい、松明を用意すると、イーニッドは戸外に出た。夜気が老体に沁みる。だが、まだ十歳の子どもを放って家に戻るわけにもいかなかった。


 はじめ、イーニッドは北の門の方へ行こうとした。なぜだか、ケーリーは南の門より北の門を好む。だが三歩も進まぬうちに、足が止まった。


 匂いがする。子どもの頃いつも生活のなかにあった、苦いような甘いような匂い。日がいつも沈んでいくのより、ほんの少し北にずれた方向。


 匂いを追って、イーニッドはいつの間にか走り出していた。五十四年前のあの記憶が、脳裏にまざまざと立ち昇る。胸がキリキリとねじれ、年の割に丈夫なはずの足がもつれそうだった。


 村の西北西のはし、柵のきわに立ったイーニッドは、荒い息で右手の松明を高くかかげた。パチパチと爆ぜる炎の灯りに、真珠の鱗がゆらりと浮かび上がる。


 柵の向こう側の真っ白な鱗に銀の瞳の竜は、親犬が子犬をくわえるかのように口に挟んだ少年の身体を、そっと地面に降ろそうとしているところだった。


 突然の松明の光に顔を上げたホワイトは、イーニッドの姿を認めると目を見開き、ケーリーをくわえたまま後ずさった。イーニッドは慌ててホワイトを呼び止める。


「逃げなくていい。わかっている。私は知ってるんだよ、お前が何なのか。ほんの少しだったが匂いがしたのさ。お前は、お前は……うちで休んでいった、旅の人だろう?」


 びくりとホワイトの肩が跳ねた。銀の瞳が揺れている。久々に目にした、懐かしい色の瞳だった。ぎゅっと胸が絞めつけられるのを感じながら、震える声で、イーニッドは言葉をつむぐ。


「ありがとう。お前は、ケーリーを運んできてくれたのだね。今ちょうど、その子を探しに出てきたところだったんだよ」


 葉にたまった雨水を今にも落としそうな草の茎のように、初夏の夜が無音でしなった。

イーニッドは松明を置き、柵の向こう側へと両腕を伸ばす。ホワイトはうなずいて首を伸ばし、気を失ってだらりと手足を垂らしたケーリーを差し出した。


 イーニッドは柵を挟んで、ホワイトから一人の少年を受け取った。


 老女の細腕に少年は重かった。腕もきついが腰が辛い。明日から数日は杖が必要かもしれない。

 ホワイトは伸ばしていた首を戻すと、すっと頭を下げた。まるで、礼を述べるかのように。

 イーニッドはかぶりを振り、頭を垂れた。


「すまぬ」


 腕のなかのケーリーの頬に、ぼたり、ぼたりと涙が落ちた。


「私が……私が、無能なばかりに、お前のような子を……私は……何も言えぬ……言えぬ……」


 足音と匂いが離れていく。イーニッドは、顔を上げられなかった。己の腕で眠る孫のような存在の子を、ただただ見つめるばかりだった。


                    ☩


 村から離れた木こり小屋で、〈灰ノ女〉は語りだした。小屋のなかは、イーニッドの声のほかには何の音もしない。狐のゴンでさえ、部屋の片隅で息をひそめるようにじっとしていた。ヒューイは椅子に深く座った姿勢で動かず、イーニッドの灰色の瞳にじっと視線を注いでいる。


 不意に、レティの二の腕の鳥肌が立ち上がった。目前に、銀の瞳が光った気がしたのだ。


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