2、衝動(下)
目的地は、神殿だ。
自分でも、なぜこんなことをしているのか説明できなかった。自分の意志で動いている感じがしない。わけのわからない不安と焦燥と、神殿に行かねばならぬという衝動に、見えない糸で引っ張られているかのようだった。
生まれ故郷の里は月のない夜に沈んでいた。丸太小屋や薬草畑が両側に並ぶ土の道を、松明の灯りをたよりに走る。夜気がひやりと皮膚を撫でた。
そろそろだな、と思う頃、シンディは里で唯一のレンガ造りの建物の正面にたどりついていた。息を整えながら、北極星を背負って立つ神殿を見据えて松明を高く持ち上げる。光の下に露わになった光景に、背中を悪寒が駆け抜けた。
灯りに照らされた小さな神殿は、普段と変わりなかった。表面がでこぼことした灰色のレンガの四角い建物で、観音開きの木の扉には半月刀が描かれている。壁には傷一つなく、扉もきちんと閉まっていた。平時と変わらない様子だ。
常にいるはずの二人の門番の姿が、どこにも見あたらないことをのぞいては。
「ジーナ? ケイト?」
今日の当番のはずの二人の名を呼ぶが、返事はなかった。
胸が早鐘のように打っている。シンディは扉の前に立つと、杖の先のドードーの頭を扉に向け合言葉を唱えた。
「約束を守る姫、心を欲する姫、全能の姫、あなたを守る者に、あなたを開かれよ」
見えない手で押されたかのように、扉がゆっくりと開く。その先には灯りがあり、四人の〈女神ノ守り人〉が見張りについているはずだった。固唾を呑んで扉の向こうに神経を集中させる。杖を握る右手のひらが、ぎりぎりと痛かった。
開かれた神殿のなかは、無人だった。四方を灰色のレンガに囲まれた部屋は、天井から吊るされた古いシャンデリアに照らされてひっそりと押し黙っている。
シャンデリアの下に駆け込むと、松明の火を消して床に置くのももどかしく、震える手で足元の銀のハッチの取っ手を引いた。少しの重さをのぞいて何の抵抗もなく開いたハッチに背筋が凍る。本来なら鍵がかかっているはずなのだ。
心の片隅で最悪の事態を予想しながら、シンディは身を乗り出して中をのぞき込んだ。
悲鳴をおさえるのが精いっぱいだった。ハッチの下に横たわる、降りる方法のない地下室の祭壇の上は、シャンデリアの灯りをたよりにどんなに目を凝らしても、空っぽだった。
「……そんな」
体から力が抜けた。ハッチの前にぺたりと座ったまま、動くことができない。手足の先が冷たく、頭の中が煮えるように熱かった。
――神様を、奪われた。
でも誰がどうやって? なぜ見張りの姿が一つもない? 合言葉と杖がないと開かない扉をどうやって開けた? 階段のない地下室のご神体をどうやって盗った?
冷や汗が首を伝う。ゆっくりと息を吸い、吐いて、シンディは杖のドードーの頭に触れた。落ち着け、落ち着け、と言い聞かせ、頭の熱が少しずつ引いていくのを待つ。
やるべきことは単純で、決まっていることだ。この緊急事態を、里の長であるゲイルと〈女神ノ守り人〉のみなに知らせる。その後のことは、長と〈女神ノ守り人〉の先達たちの言う通りにすればいい。
猛烈な駆け足で脈打つ心ノ臓に揺すられながらも、杖に体重をかけどうにか立ち上がった瞬間。足元が、ぐらりと傾いた。
せり上がってきた吐き気と激しいめまいに、思わず口元を押さえてへたり込む。視界の端、神殿の壁に、目に痛いような鋭い赤色で何かが光った。
木の葉に溜まった雨水が大粒の雫となって落ちてくるように、突然、一つの強烈な思いが閃く。
――追わなくては。私が、今すぐ、追わなくては。
✝
レティは眠れなかった。寝具に包まってから、もうどのくらい経つだろう。目を閉じても意識が眠りに引っ張られる前に浮かんでしまうのは、そっぽを向くシンディの横顔だ。
なぜ母はあんなことを――シンディとはあまり仲良くしない方が良いと――言ったのかわかるか、と尋ねると、シンディは間を置いて顔をそらし、わからない、と言った。
もえぎのひもで縛られた赤毛に、昼の陽に照らされた木の影が落ちていた。レティはその髪ひもを解きたいと思った。髪を風のままに任せたシンディと一緒に、空まで木を登りたい。
だがレティがひもを解こうと手を伸ばしたら、シンディはきっと振り払うだろう。その光景が目に浮かぶようで、レティは苦笑した。
――嫌だな、やっぱり、どうしても。
シンディと距離をとる。考えられないことだった。
思い出すのは、〈杖合わせ〉の記憶だ。里の伝統とも言える魔術師同士の遊び。歩いて七歩ぶん離れて、自分の杖を持った二人の魔術師が向かい合う。互いの杖を交叉させ、向き合った状態を保ち、円を描いてまわる。まわりながら、一定のリズムでカツン、カツンと、優しく杖を打ち合わせる。
レティは〈杖合わせ〉が下手だった。歩くペースや杖を打ち合うタイミングを合わせるのも、きれいな円を描いてまわるのも、交叉させた時の杖の角度の調整も、上手くできなかった。ごく自然に、レティの〈杖合わせ〉の相手をしてくれる人間はいなくなった。
そのなかでシンディだけは、小さな頃から、そして今もなお、レティと杖を合わせてくれる。タイミングが合わなかろうが、二人の足跡が描く円がいびつであろうが、レティの杖が妙に傾いていようが、シンディは何も言わなかった。レティから、離れなかった。
――シンディと仲良くしない方がいい、っていうのは、シンディではなくて、あたしが長の娘であることが原因なのかな。
レティの家は、代々里の長を務めてきた家系だった。現在の長はレティの母のゲイルであり、その前の長はゲイルの母のフローラだった。母からはそれとなく、次の長にはお前を、と言われている。落ち着きのなさで眉を顰められてきた自分に、長の座が立派に務まるとは思えないが。
寝返りを打ち、窓の方へと身体を向ける。今は暗くて見えないが、窓枠には木彫りの小さな狼の置物があるはずだった。五つ年上の兄が自分のために彫ってくれたものだ。兄が男であることが悔やまれた。知恵があり思慮深く、里の者からたびたび相談ごとを持ち込まれる兄の方がよっぽど適任だろうに、長には女がなるものというしきたりの前に、兄は無力だ。
もし自分が母の姉のアビゲイルのように家を出ていったら、兄は長の座につくことができるのだろうか。それとも、血縁関係のある女の誰かが選ばれるのだろうか。いずれにせよ、里は大騒ぎになるだろうが。
そんなことをぐるぐると考えていたレティの耳に、バタバタと音が飛びこんできた。足音だ。それも複数。
胸が騒いだ。そっとベッドから抜け出し、寝室のドアをほんの少しだけ開ける。普段ならもう寝ているはずの母が起きて、寝室に面した居間の、暖炉で燃える炎の前に立っているのが見えた。赤毛を真紅のひもで結わえた母の正面では、〈女神ノ守り人〉であることを示す紺のマントをまとった二人の女がひざを折っている。
「申し訳ありません」
片割れの女が発した声は、震えていた。
「神殿の前で見張りについていたはずが、気がつけば自宅にいて、ご神体はもう、盗まれた後でございました……申し訳ございません……!」
耳に届いたそのセリフに、レティはあともう少しで声を上げるところだった。
「良い、ジーナ、ケイト」
母は全く動じていない様子で言葉をつむぐ。
「このことは、まだ誰にも言うでないぞ」
「長よ」
もう一人の方の女が口を開く。
「神殿にこれが落ちておりました。シンディのものです、間違いありません。それと、壁にかかっていたはずの水晶がなくなっているのです。シンディは盗人を追っていったのやもしれません」
突然出てきた親友の名に、レティは息を呑んだ。シンディの名を口にした方の女が、何かを母に手渡す。
「あたしにも見せて!」
レティがとっさに寝室から飛び出すと、二人の若い女の顔に驚きの色が浮かんだ。それを無視して、レティは母の手元をのぞく。母の手のひらにあったのは、鈍い金色に光るドードーのピアスだった。
「シンディのピアス!」
叫んだレティに対し、母が平たんな口調で尋ねる。
「レティ、お前、どこから聞いていた?」
「えっと……ジーナとケイトが気がついたら自分の家にいて、ご神体が盗まれてたって」
「つまり、ほぼ全部だな」
ため息をついた母は、ひざまずく二人の女に視線を向ける。
「〈女神ノ守り人〉全員に伝達せよ。これより神殿を封鎖する。〈女神ノ守り人〉とて近づいてはならぬ。良いな」
「はい」
女たちはさっと立ち上がり、レティの横をすり抜けて外へと出ていく。その背中を見送ったレティは、母の顔を見つめた。
「ねえ、シンディはどうすんの? 盗人を追ってるんだろ? 応援を寄こさないの?」
「何もせん」
「え?」
目を瞬かせたレティに、母は再度告げる。
「何もせん。もう少し、お前が年をとってからにするつもりだったが、今話さねばならんな。……ゴールダー家の娘はもう、帰ってはこぬ」
居間の時が凍った。暖炉の火が爆ぜる音さえもが、息を止めていた。
「……どういう意味だよ、それ」
レティが咎める口調で詰めよるも、母は眉一つ動かさない。
この人は彫像なのではないか、と思った。真紅のひもで編んだ緋色の髪も、顔に刻まれたしわも、くすんだ緑の瞳も、触れる気も起きないほどに、揺るぎない。
二人の間を、凍てつく沈黙の糸が張った。




