19、残された者(下)
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私は、シンディ・ゴールダーは、忘れていた。
道しるべの水晶が、なぜ槍の穂先のかたちをしているのか。
人の肌を切って、血を吸うためだ。
母に連れられて、里の神殿の地下の神様のもとにお参りした、五歳のあの日。
母が私を押さえつけ、服をはだけさせ、当時里の長だったフローラが、私の左胸に鋭く尖った水晶の切っ先を斬りつけた。
『大丈夫。何も怖くないのよ。私も同じようにされたのよ』
母がいつになく優しい甘ったるい声で、幾度も繰り返していた。
私の左胸の皮膚を斬った直後、透明だった水晶は真っ赤に染まった。私は直感で、この水晶は人の血を吸うのだ、そのために槍の穂先のかたちをしているのだ、とわかった。
思い出してみればとても強い記憶だ。初めて足を踏み入れた仄暗い地下室も、冬の冷気を固めたような神様の姿も、槍の穂先で皮膚を裂かれる痛みも。
私を押さえつける、母の手の体温も。
それなのに、私は、忘れていた。
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洞の中は、ぼんやりと明るく温かった。地面に埋め込むように作られた囲炉裏の火には蓋の閉まった黒い鍋がかけられ、食欲をそそる良い匂いが漂っている。土と岩の壁のほとんどが、植物の繊維を寄り合わせた糸で編んだと思われるタペストリーで覆われていた。タペストリーには、木と花と鳥と山羊と、それに竜の姿が散りばめられている。
シンディ、イヴォンヌ、それに二人の男と二人の女が囲炉裏を囲んでいた。ケーリーは囲炉裏から少し離れた隅で藁のベッドに横たわり、毛布に包まって眠っている。
「我はセセトと申しまする。こちらは、妻のシシカ。他の三人の同胞は、奥で眠っておりまする」
豊かな灰色の髪を青い紐で編んだ肩幅の広い男が、洞窟の奥を指さす。視線を向けるも、囲炉裏の火が届かない先は真っ暗で何も見えない。
セセトの左隣のシシカは、夫と同じ色の髪を短く刈った中肉中背の女だった。その頭がこちらに向けて深く下げられる。
「驚かせてしまい、申し訳ありませぬ。いきなり取り囲まれ、驚いたことでありましょう。状況が状況でありますものですから。ご容赦くださいませ」
シンディとイヴォンヌは、いえ、と首を振った。
「むしろお礼を言いたいくらいです。よそ者の私たちを泊めて頂けるだなんて。ありがとうございます」
礼を述べるイヴォンヌの横で、シンディは共に囲炉裏を囲む初対面の四人を、注意深く観察した。
男女問わずその身に着ているのは、膝下の丈でまっすぐな線の長衣と、裾が少しふくらんだ、くるぶしが見える程度の長さのズボンだ。先ほど謝罪の言葉を口にした女の左には、白髪の老人と、すらりとした体つきの長髪の青年があぐらをかいている。
年齢も体型もばらばらではあったが、四人はみな、灰色の髪と瞳をしていた。
「失礼ですが」
シンディは恐る恐る尋ねる。
「あなた方は……ケセト族、ですか?」
「さようでありまする」
老人がうなずいた。
「ここを守っておりましてな。常に警戒をとっておりまする。しかし、あなた方は国の役人にも、兵士にも、坑夫にも見えず、外に放っておくというのも、気の毒に思いまして。ススク……この私の隣の若いのから知らせを聞いて、ここにご案内したというわけでありまする。実を申せば、あなた方を襲った竜を追い払ったのも、ススクの手柄なのでありまする」
「えっ」
思わずススクと呼ばれた青年の方を見ると、ススクは首を振った。
「修練を積んだケセト族なら、誰でもできることでありまする。魔獣を従えるのが、我らの力であるがゆえ」
「そうは申しても、あれは難しかったであろう。普通の竜とは、何か異なるものがあり」
セセトが身を乗り出して言うと、ススクはまあ、と曖昧な返事をした。それに対し、シシカが首を傾げる。
「普通の竜ではありませぬが、ササじいが、あれはディーラゴンと近いのではあるまいか、とつぶやくのを聞いた覚えがあり。もしそうなら案外、我らの言うことを聞くやもしれませぬ」
「ディーラゴン?」
シンディが聞き返すと、老人が答えた。
「アーデン人が攻めてくる前まで、我らと共にありし魔の獣でありまする。……まことに、美しい生き物でありました」
思い起こすようにまぶたを閉じ、老人はなめらかに語る。
「アーデンの方はあれを、強いだ恐ろしいだ、そればかり申しておりましたが。敵もなく、草と、〈魂ノ石〉……あなた方が熱魂石と呼ぶあの石さえ食べていれば、大人しい、良き生き物でありました。今でも目に浮かぶようで……何度か、ここにもホワイトが来たことがありまするが、なぜだかあれは、ディーラゴンとどこか似ておりまする。殺す気が起きず、ただ追い払って、しのいで参りました」
「あの、一つ、お聞きしてもいいでしょうか」
イヴォンヌがおずおずと尋ねる。
「ケセト族の生き残りは……この洞にいる七人だけなのですか?」
「否」
老人が首を振る。
「いくつかに散らばって暮らしたるのでありまする。全部で四十に満たぬでしょう。もとは、千人近くがこの山脈のほうぼうで暮らしておりました」
イヴォンヌは目を伏せた。老人の口元に微笑みが浮かぶ。
「あなた自身が手を下したわけでは、ないのでありまする。我がまだ幼き頃、あなたが生まれるより前の話でありまする。あなたの背負う罪ではないのであります。ただ、覚えておいていただければ」
にこにこと話す老人に、ゆっくりと、イヴォンヌは面を上げた。底の知れない井戸の色の瞳が凛と光っている。
「忘れません」
イヴォンヌはきっぱりと言った。
「アーデン人として、工学者として、忘れません。絶対に」
老人の古い灰色の目と、イヴォンヌの若い黒い目が、まっすぐに交わる。
老人は、小さく溜息を漏らした。
「あなたは、優しい人なのでありましょうな。顔に出にくいだけで。ところで、先ほどから一つ、気になって仕方ないことがありまして」
老人の声の調子が変わるのと同時に、その視線がシンディの腰の左に向けられる。
「その杖の柄は、ドードーの頭でありまするな? ちょいと見せていただけまするか」
「はい」
立ち上がったシンディは腰布から杖を引き抜くと、両手で杖を差し出した。細かいしわの刻まれた老人の太い手が、しっかりと杖を受け取る。
「ふむ」
両腕で捧げ持つようにして、杖にじっと目を注いだ老人は、やはり、とつぶやいた。
「シンディ殿」
老人は顔を上げると、煮詰めるようにゆっくりと言葉をつむいだ。
「あなたにも、大事なものがたくさんあるのでありましょう。生きておりますとどうしても、大事なもののために、別の大事なものを捨てねばならぬようなことが起こりまする。その時には、腹を決めて、きっぱりあっさり、捨てねばならぬのでありまする」
戸惑いの色を浮かべるシンディの前で、老人が腰を上げる。シンディと変わらない背丈だったが、なぜだかシンディには、老人の方が自分より大きいように思えた。
しわだらけの太いかさかさした手が、シンディの白く柔らかな手に、杖を握らせる。
シンディは、目の前の老いた一人の人の、灰色の瞳を見つめた。
「……お名前をお伺いしても、いいですか」
「ササク、と申しまする」
ササクは答えると、囲炉裏の方を向いた。
「ほれ、ススク、鍋の蓋を開けてみなされ。もう出来ておる頃であろう」
言われた通り、ススクが囲炉裏の火にかけられた鍋の蓋を開けると、漂っていた食べ物のよい香りがぐっと強くなった。ぐつぐつと煮え立つ乳白色の汁のなかに、鮮やかな緑の葉ものや、何かの鳥のものと思われる肉がぎっしりと詰められている。
「山の上の方に少し登れば、山菜も鳥も採れるのでありまする。それに、アーデンの坑夫たちが山の神へのお供えだと言って、土と緑の境目に色々なものを置いていくのでありまして。こうして、美味い鍋も食えているのでありまする」
「ご一緒にどうぞ。お疲れでありましょう」
シシカが柔らかな口調で言うのと同じくして、シンディの腹が大きく鳴った。真っ赤になったシンディの周りに、穏やかな笑い声が満ちる。
囲炉裏の火と、具だくさんの汁ものと笑い声とに彩られ、山脈の一隅に横たわる洞は温かい夜に満ちていた。




