18、残された者(中)
夜半の山中で動きを止めた銀のしずくの機内は、操作盤の上部の、親指の腹ほどの大きさの丸いでっぱりから発せられる白い光に照らされていた。運転席のイヴォンヌが厚手の毛布を取り出し、後部座席のシンディとケーリーに手渡す。
「夜が明けるまで、ここで眠っていましょう。この機体はもう動かないだろうから、あとは歩きになるけれど、今はもう動く気になれないわ。それに多分、私たちには休息が必要よ」
シンディとケーリーは、黙ってうなずき毛布を受け取った。安全ベルトを外したケーリーが、鉛色の筒をイヴォンヌに差し出す。
「これ、返します。すみません、勝手に使ってしまって」
イヴォンヌはケーリーの手から噴射器を受け取ると、首を振った。
「いいえ。寧ろお礼を言わなければならないわ。あなたの機転で私たちは救われたのよ。ありがとう」
イヴォンヌは、アントニーが都で開発したというそれにじっと視線を落とす。
「まさか、本当にこれが役に立つことになるとは、思わなかったわ」
アントニーに会いたいわね、とつぶやくと、イヴォンヌは鉛色に光る筒を元あったように服の帯に挟んだ。
長い夜になりそうだった。寝てしまえば楽なのかもしれないが、とても眠れそうにない。
そう思い溜息をつくシンディの隣で、毛布に包まったケーリーが穏やかな寝息を立て始める。相当疲れていたのだろう。
ひびの入ったガラスの向こうに月と星が光り、雲の切れはしが夜空をゆるゆると流れる。聞こえるのはケーリーの寝息と、時折通り抜ける風に、草が震え、こすれ、ざわめく音だけだった。
「イヴォンヌさん」
「何?」
振り返ったイヴォンヌに、シンディはおずおずと言う。
「こんな時になんなんですが、いつもの薬を頂けますか?」
「ああ、そうね。ごめんなさい、忘れていたわ」
自らの座る座席の下の鞄から、水筒とさじと白い紙と薬壺とを取り出すと、イヴォンヌはそれをシンディに手渡した。受け取ったシンディは、慣れた手つきでひとさじ分の薬を紙にとり、水筒の水で喉の奥へ流し込む。
その様子をじっと見つめていたイヴォンヌが、口を開いた。
「あのね、シンディ。実は私、あなたに嘘を二つついたのよ」
目をぱちくりさせて次の言葉を待つシンディに、イヴォンヌは続ける。
「まず一つが、私の父は王家にも一目おかれる魔術師だなんて大したものじゃないってこと。しがないただの占い師よ、私の父は。二つめが、あなたに与えた薬は絶対に効く呪い除けではなくて、ある病気のための薬だということ」
「ある病気……?」
「とても辛すぎる出来事を体験した後、それを思い出してパニックを起こしたり、息ができなくなったりする病気があるのよ。私があなたに飲ませたのは、その病気のための薬なの」
はっとして、シンディは己の胸に手をやった。あの光景が、白と赤と、冷たさと熱さの記憶が、ゆらりと立ち昇る。
「落ち着いて聞いて、シンディ」
前の座席から立ち上がったイヴォンヌが、シンディの前に膝をついた。
「川を越えるために禁忌を犯した、と言ったわね。私の父の本業は占い師だけれど、魔術のことも少し知っていて、禁忌について話していたことがあったわ。犯すと呪いを受けるといわれる禁忌は多いけれど、その呪いの多くは、今私が言った病気の症状と似ている。禁忌を犯した者が苦しむのは、呪いでも罰でもなく、自分が禁を犯したことのショックが原因で病気にかかるからなのよ。私はあなたが何をしたのか知らないけれど、シンディ、あなたは初めから呪いも罰も受けていない。あなたは何も悪くないのよ、シンディ」
シンディは、目を大きく見開いて、イヴォンヌを見た。視界がにじむ。止められなかった。何も止められなかった。
喉の奥からせり上がってくるものに任せて、シンディは声を上げて泣いた。イヴォンヌの両腕がシンディの肩を抱く。身をゆだねて、シンディは泣き続けた。
「私は……っ」
嗚咽まじりに、シンディは腹の底から絞り出す。
「私は……ユニコーンを……私とケーリーを運んで、くれた、ユニコーンをっ……殺したんです……っ」
☩
もう何日前のことだろう。つい昨日の出来事であるかのように、あのときのことを覚えている。
夕暮れ時の、グエンダ川のせせらぎが響く森。草木の繁る地面に、シンディはぺたりと横すわりしていた。
疲れもあったのだろう。シンディの魔術であっという間に意識を失ったユニコーンは、シンディの膝に頭をもたれて安らかに眠っている。
シンディは、右手に短剣を握り、左手でユニコーンの首を押さえた。
短剣の柄はひやりと冷たく、ユニコーンの首は、どくどくと熱く脈打っていた。
ケーリーには、見ないようにと言ってあった。だがケーリーは頑として首をたてには振らず、シンディの後ろに立っていた。本当なら自分がやらなければならないことなのだから、と。
シンディはそうは思わなかった。何としてでも川を越えなければならないのは同じであるし、こんな小さな子どもに、こんな惨いことをさせるわけにはいかない。
銀にきらめく刃を、そっと、汚れのない真っ白な柔肌にあてる。震える手で、シンディはそのまま一気に剣を引いた。
鮮血がほとばしり、真っ赤にどろりとした命の液体が、ユニコーンの純白の毛並みに、シンディの脚に、手に、飛びかかる。
死の手前に立たされ、ぴくぴくと痙攣するユニコーンの首のたてにぱっくりと割れた傷口から小瓶に血を採るのに、シンディは随分手間取った。
小瓶に流し込まれた血はやがて固まり、赤黒い塊――ユニコーンを殺した証、罪人として川を越えるための通行証――になった。
ことが終わった後、シンディは、血に濡れた手でユニコーンの亡骸を埋めた。
☩
イヴォンヌの胸に顔を埋め、シンディは、泣いた。泣いて、泣いて、泣き続けた。
泣きながら、こんなに泣くのは何年ぶりだろう、誰かの腕に抱かれて泣くのはいつぶりだろう、と考えていた。
シンディの耳を、声がゆっくりと撫でていく。
「殺したくて殺したわけでも、自分の欲のために殺したわけでも、ないんでしょう? あなたはそうするしかなかった。シンディ、あなたは悪くない。悪くないの」
泣きすぎて、息が切れた。荒い呼吸を整えぬくもりに頭を強く押しつける。歯の間から、押し出されるように言葉が漏れた。
「里のため……お母さんのため……だったの。私は、里のために、お母さんのために……お母さんが、生きていたら、きっと、言うから……〈女神ノ守り人〉としての、務めを、何が何でも、果たせって……きっと……」
しゃくりあげ、しゃくりあげ、シンディは深く息を吸い、吐いた。
シンディの背をさするイヴォンヌが、ぽつりと言う。
「私はね。掃除婦になるはずだったのよ」
顔を上げたシンディに、イヴォンヌは淡々と語った。
「母が掃除婦だったの。ある大きなお屋敷で働いていてね。私は八歳で、見習いとしてお屋敷に入ったわ。母は私を、自分と同じように掃除婦にするつもりだった。そういうものだ、仕方ないと思っていたから、嫌ではなかったわ。でもつまらなかった。仕事の合間に、屋敷の主人の息子の部屋の本で、こっそり読み書きや算術や機械の歴史や仕組みを学んだ私は、学問の道に進みたかった」
いつの間にか、イヴォンヌの顔から表情が消えていた。リュシーと一緒にいた時の顔だ。
「転機が訪れたのは十四の時だった。主人の息子の部屋の本を読み終えてしまった私は、主人の書斎に手を出すようになっていた。ある日私は、書斎で本に読みふけっていたところを、主人と主人の客に見つかった。主人の怒りようはすさまじかった。それを一緒にいた客がなだめて、怯える私にいくつか質問をしてきた。私が答えると、客は驚いた顔をして主人に申し出た。この子を私に引き取らせてもらえないか、と。その時の客が、マリアン博士よ」
「お母さんは」
シンディは思わず口を挟んでいた。
「お母さんは、どういう反応だったんですか?」
「大反対だったわ。屋敷の主人は特に何も言わなかったの。かわりの掃除婦くらい、いくらでもいたからでしょうね。でも母は違った。黒い肌のお前が、そのうえ女のお前が、学問なんかやって何になるんだってね。私は母と戦わねばならなかった。嵐が来ると倒れそうに軋むぼろ屋で、私と母は真夜中まで言い争った。母は私をぶったし、私も母をぶった。父は部屋の隅で、ただ私たちを見ていた。夜が明けるまで、争って、争って、争った末、母が私にあるものを投げて寄こした。出ていけ、このぼろ屋もあの屋敷も、もうお前の居場所じゃないと言って。それから私はマリアン博士の家で暮らし、試験を受け、学院に入った。そう、十四、十四よ。あなたと同じ年の時、私は母と、戦ったのよ」
シンディから体を離すと、イヴォンヌは鞄から真っ白な上等の布の袋を取り出した。袋の中から現れたのは、茶色い革の鞘に収められた一振りの短剣だった。滑らかな木肌の柄には、開いた二枚貝のような花弁を広げた花の紋章があしらわれている。
「ハナキリンという花。ジェファーソン家の家紋よ。家紋といっても、曾祖父が自分で勝手に考えてつけたものだけれど。母はこれを寄こして私を追い出した。追い出したけれど、家紋の入った剣を、自立を象徴するハナキリンの剣を、私に与えた」
短剣をしまったイヴォンヌは、そっとシンディの手を握った。シンディの金の瞳と、イヴォンヌの黒い瞳が、線を結ぶ。
「子というものは、親の期待に応えようとするものよ。私も小さな頃、本を知る前は、一人前の掃除婦になって一家を、母を支えようと思ってた。でも本を読んで、学問を知って、そうはいかなくなった。私は、家も母の期待も裏切った。でも私は母の娘だし、母は今でも私の母なの。マリアン博士の養子にならないかという話も出たことがあるけれど、私の姓は母と同じ、ジェファーソンよ」
密やかな、それでいて大きな静寂の足元で、シンディは何も言えなかった。ただ目の前の、かつては自分と同じ十四歳の娘だった工学者の顔を見つめていた。窓の外で起きた突風が、耳元で高く鳴いているかのように感じる。背の低い草が揺さぶられる音が、はっきりと聞こえた。
不意に視界の明るさが増す。驚いたシンディとイヴォンヌが外に目を向けると、四つの炎が、機体を下から支える岩とは反対の側に半円を描いて機体を取り囲んでいた。
四人の人間だ。松明を左手に持って丈の長いマントを纏い、マントのフードを目深にかぶった人間が四人、この機体を取り囲んでいる。
涙をぬぐい唇をきつく結んだシンディは、腰の左の杖に右手をかけた。




