13、飛べぬ鳥(上)
里の長の家系が守る書庫の中は、シャンデリアの柔い光に満たされている。その光を浴びながら、ヒューイは書庫の奥の壁につかつかと歩み寄った。足を止めたヒューイの前にあるのは、広げた大人の手のひらを覆うほどの大きさの真っ赤な魔方陣だ。完璧な円を描く線の内部に、複雑な模様や古い文字がびっしりと敷き詰められている。
「俺と手を繋いでいろ、レティ」
差し出されたヒューイの左手を、言われるがままレティは握った。それを確認したヒューイが、右手のひらを魔方陣に押しつける。
その瞬間、何が起こったのか、レティにはわからなかった。気がつくとヒューイと手を繋いだままの姿勢で、見知らぬ場所に立っていたのだ。
「なっ……!」
息を呑んだレティは思わずヒューイの手を離すと、周囲をきょろきょろと見まわした。
さっきまでいた書庫より暗く小さな空間だ。四方を囲む灰色の壁に沿って、天井すれすれの高さの本棚がびっしりと並んでいる。灯りとなっているのは、レティとヒューイの頭上を飛びまわって白く光る十体ほどの何かだった。
「月光虫だ」
光る何かをぽかんと見上げるレティに、ヒューイが説明する。
「北西の山の向こうの森でよく出る。それを捕まえたのをここへ連れてきて、灯りにしているんだ。この虫は躾がきくからな。長の家の血をもたない者が入ると、光るのをやめて攻撃態勢に入るよう訓練してある。今のところ、こいつらの世話と躾は俺の仕事だ」
「へえ……」
白く飛びまわる月光虫から目を離せないでいるレティを置いて、ヒューイは左側の壁の棚の前に立ち、一冊の本を抜き出した。くすんだ青色の表紙で、冊子と呼んでもいいような薄さのものだ。
「なかなか難しいと思うぞ。お前のやろうとしていることは」
ヒューイはレティの隣に歩み寄り、開いた本のページを指し示した。みるみるうちにレティの眉間にしわが寄る。
「……どうしよう」
「どうだ? 知ってから考えると言っていたが、案は浮かびそうか?」
面白そうに言うヒューイの横で、レティはうなりながら髪を掻きむしるとじっと天井をにらんだ。
「……空を飛ぶとかは?」
「お前は馬鹿か」
ヒューイが呆れた顔で首を振る。
「飛ぶ術がないだろう。グエンダの血族の住む地域にはペガサスがいるという話だが、俺たちには、あれに乗る権利も技術も……」
ヒューイの言葉が途切れた。不思議に思ったレティが見上げると、まぶたがぎゅっと閉じられている。
沈黙を置いて、ヒューイは目を見開いた。
「そうか。その手があるか」
「その手って?」
「禁書のうちの一つで読んだ記憶がある。あれに書いてあったことが事実で、かつ、あの人が俺たちの説得に応じてくれれば、あるいは……」
ヒューイはぶつぶつと呟きながら、再びレティの手をとった。
「まずは母上に交渉だ。そこまで長期間にはならないだろうが、里を離れる許可がいる。その後、あの人のところへ……〈灰ノ女〉のところへ行こう」
「待てよ!」
レティはヒューイの手を振り払い、声を荒げた。
「母さんが交渉に応じると思ってんのか? 里が第一と思ってる母さんだぞ。あたしがシンディを助けるのを手伝ってくれるわけない。むしろ止められるだろ!」
レティの言い分に、ヒューイは動じなかった。
「レティ、お前、母上を誤解してるぞ。確かに母上は里の長だが、同時に俺たちの親だ。それに母上は、そこまで融通の利かないお方じゃない。お前の髪が短いことがその証だ。母上が頑なな方だったら……里のためにという名目で何もかもしきたり通りにしようとするお方だったら、髪の短い娘だなんて許さない」
困惑の表情を浮かべるレティの手を再び握ると、ヒューイは部屋の中央の赤い魔方陣の上に立った。
✝
広々とした農村地帯の景色が後ろへと流れていく。ギャロップと呼ばれる速い走り方を馬にさせるのと同じくらいのスピードだが、馬ではこの速度を十分も維持できないだろう。ソファのような座席にゆだねた身体に、虫の羽音のような振動が休むことなく伝わってくる。わずかではあるが、腰に鈍い痛みがあった。
隣に座るケーリーにふと目をやると、そわそわとして明らかに落ち着きがない。当たり前だ。出発の直前にイヴォンヌの唇からこぼれたセリフを、シンディもしっかりと聞き取っていた。
『越えてやろうじゃないの。ディーラゴン山脈』
ディーラゴン山脈。ケーリーの祖母が口にした、秘密の眠る山脈だ。
ケーリーは機体が進み始めてからすぐにイヴォンヌに質問しようとする様子を見せたが、機体の操作に集中していないと危険だから、という理由で断られてしまった。
ケーリーから視線をそらし、シンディは目を閉じる。
――ホワイト、か。
ホワイトは比較的新しい魔物だ。被害が報告されるようになったのは四十年ほど前からの話らしい。夜ごと現れ、人を食い、どこへともなく消えていく。その姿は真珠で形づくられたような、小柄で美しいドラゴンだという。魔力が途方もなく強く、退治しようとして屠られた魔術師が何人いるかわからないとも聞いた。最初にホワイトが現れたのはアーデンの地であり、今も目撃情報のほとんどはアーデンらしいが、最近ではグエンダ自治区の内部でもその姿が確認されるようになったと聞く。
そんな化け物の存在を、イーニッドはなぜ、知られてはいけなかったのだろう。
「ねえ、ケーリー」
シンディが目を開けて声をかけると、ケーリーはこちらを向いた。
「何ですか?」
「あなたのおばあさんは、どんな人だったの?」
はじめケーリーはきょとんとしたが、すぐにその頬がゆるんだ。
「物知りで、優しい人です。自分ではなぜだかわからないんですけど、僕は、母さんにも父さんにも、村の他の子たちにも、変わってるとか、変な奴だとか言われて。でもおばあちゃんは僕を、選ばれた賢い子だって言って、村の誰も知らないようなことをたくさん教えてくれたんです」
「村の誰も知らないようなことって、たとえば?」
「たとえば……」
考えるそぶりを見せた後、ケーリーは開いた手の指を一本一本折りながら歌うように唱えた。
「ドット(約一ミリメートル)、キート(約一・一センチメートル)、イート(約一・三メートル)、ジーイート(約一・六キロメートル)。一ジーイートは千三百イートで、一イートは百二十キート、一キートは十一ドット。シンディさんは、知ってますか?」
シンディの背筋を、悪寒が走った。
「……知ってる」
そうだ。自分は、知っている。里の誰も使わない単位。シンディの家系の女だけが知っている単位。アーデン人が用いる単位。
「ケーリー、私が出す問題に、答えて」
不思議そうにこちらを見つめるケーリーに、シンディはゆっくりと言った。
「直方体の箱があります。たて三十キート、横八十キート、高さ四十キートの四角い箱です。この箱の体積は?」
「八インイート(約十・四平方メートル)、ですよね?」
一秒にも満たない、即答だった。
ついさっき聞いたケーリーの言葉が、シンディの脳裏で繰り返される。
――選ばれた賢い子。
「ねえ、ケーリー。今私が出したような問題の考え方も、おばあちゃんに教わったの?」
ケーリーは、こくりと首をたてに振った。
シンディのなかでざわめき始めていたある予感が、確信に変わる。
ケーリーの祖母イーニッドは、外の世界を、アーデンの地を知る人間なのだ。
単位を知っているだけなら、グエンダ自治区の者でもそこまでおかしくはない。春と秋の取引のためにやってくるアーデン人と接触していれば、そこで見聞きすることもありえるだろう。だが今のような取引の交渉の場でも使うことのない算術を、グエンダ自治区の人間が、それも魔術師ですらない一介の村人が知っているのは、違和感がありすぎる。
「あのね、ケーリー」
深呼吸を一つすると、シンディは口を開いた。
「そういう単位や問題はね。グエンダ自治区の人は、普通、知らないものなの。アーデン人が使うものなの」
シンディの言わんとしていることを察したのだろう。ケーリーは目を丸くした。
「おばあちゃんは……アーデンに行ったことがあるってことですか?」
「でもありえない。わかってるだろうけど。魔術師でもないグエンダ自治区の庶民が川を越えるとしたら、追放の時だけだから」
そしてアーデンの人間がグエンダ自治区に移り住むのもあり得ない話だ。外部の人間がグエンダ自治区内に居住することは禁止されている。
二人の間に、沈黙が流れた。シンディは困惑の色を浮かべるケーリーから、外の景色へと視線を移す。
ずっと前から心のどこかで感じていたことが、シンディの頭の中心ではっきりと形を成していた。
自分も、自分の母も、母の母も、そのまた母も、グエンダの地で異質な存在だったのだ。
先祖代々受け継がれてきたという知識も技術も、この金の瞳も。グエンダの地では異質な存在だ。
その異質なものを引く自分が全く思いがけなかった展開で、五日前までは互いの存在も知らなかった少年とともに、川を越えた。そして今まで見たことのない色の肌の女性と、今まで見たことのないものに乗って、異国とも言っていいような世界を走っている。
何かとても、とても大きなものに、自分は動かされている。そんな気がしてならなかった。
「ケーリー、ごめん、ちょっと、耳をふさいでてくれる?」
シンディが言うと、ケーリーは両手で耳をふさいだ。それを確認して、首にかけた槍の穂の水晶を紐の部分を指でつまむようにして持ち上げる。
「約束を守る姫、心を欲する姫、全能の姫。あなたを追う者に、あなたの居場所を示されよ」
透明な光を発しながら糸に引かれるように動き出した水晶が、まっすぐに北西を指し示す。
――まだまだ遠い。
出発してから二時間弱が経つ。確かマリアンは、五時間で百二十五ジーイート(約二百キロメートル)と言っていた。進んだ距離は五十ジーイート(約八十キロメートル)ほどだろう。
水晶の光が消えると、シンディはケーリーの肩に触れ、もう耳をふさいでいなくて良いという意味をこめて目配せした。
耳から手を離したケーリーが、そういえば、と口を開く。
「あの、前からちょっと気になってたんですけど、シンディさんの杖って、他の魔術師のものと少し違いますよね」
ケーリーにつられて、シンディは自らの腰布に挿された杖を見た。艶やかな木目に彩られた光沢のある土色のドードーが、じっと何かに身構えている。
「僕、うちの村に来る魔術師を何人か見ましたけど、みんな、杖の柄は大魔術師グエンダへの忠誠を表すトンビの頭ですよね。でもシンディさんのは違うなあって。何の鳥なんですか?」
「ドードーって聞いたけど。小さい頃、お母さんに」
「ドードー!」
突然の大声にどきっとしたシンディの前で、ケーリーは瞳を輝かせた。
「これドードーなんですね! そういう名前の鳥がいたって話をおばあちゃんから聞いたことあって、見てみたいと思ってたんです! でも絶滅した生き物だから、もう見られないっておばあちゃんは言ってて。そっか、これがドードーなんだ!」
身を乗り出すようにしてシンディの杖に顔を近づけながら、ケーリーはしゃべり続ける。
「二百七十年前、海に沈んだ大国アトランに生息してて、鳥ではあるんですけど、羽が退化してて飛ぶ能力はなかったそうです。飛べなかったので、巣は地面に作っていて……!」
「ケーリー」
振り返らぬまま、イヴォンヌが厳しい口調でさえぎる。
「声を小さくしてもらえる? 気が散って仕方ないわ」
「あ……えっと……はい」
しゅんとした様子で口を閉じたケーリーに、シンディは腰から杖を引き抜きケーリーに差し出した。
驚いた顔で、ケーリーがこちらを見つめる。
「え、えっと……?」
「好きなだけ見てていいよ。ただ、大事なものだから、傷つけないでね」
ぱっと明るい表情になったケーリーは、丁寧な手つきで杖を受け取ると、ドードーの頭の部分に目を近づけ食い入るように見入った。
シンディもまた何となく、ケーリーの両手にある自らの杖をぼんやりと眺める。
太陽に雲がかかったのだろう。ガラスを通して降りそそいでいた初夏の陽が消え、杖は陰に覆われた。




