12、出発(下)
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研究所の敷地内にあるのは、渡り廊下で繋がった研究棟と宿泊棟と、発明品の実験場を兼ねた広々とした庭だった。
庭といってもあくまで実験の場であるため、草木の姿はほとんどない。あるのは黒い柵に囲われているだだっ広い石畳の空間だ。
その中央に、朝靄がうっすらと漂うなか、それは横たわっていた。
上から見ると、まるで銀の水の雫のようだった。ただ雫と違うのは、雫の上半分の部分だけがガラスのような透明な素材で覆われており、そのなかに横二列の座席が入っていることだった。前の列に座れるのは一人、後ろは二人といったところだろう。
「これは……何という名前のものなんですか?」
銀のしずくの不思議な物体を目の前にして、イヴォンヌとシンディの間に立つケーリーが尋ねた。
「どう名前をつけたものか、まだ迷ってるのよ。今は仮に走反機と呼んでいるわ」
答えたイヴォンヌが機体に歩み寄り、銀色の表面に手をあてて言葉を続ける。
「大ざっぱに説明すると、引力に反発する性質をもつ鉱石で作られた円盤を回転させて、機体を宙に浮かせるのと同時に、磁力に反応する鉱石の円盤の回転で前に進むの。円盤の回転の燃料には熱魂石柱を使ってるわ」
「イヴォンヌ君、その説明は学院の三年生以上なら何となくわかるだろうが、この子たちには少し難しいよ」
シンディの左隣に立つマリアンのセリフに、イヴォンヌがはっとした様子で振り返る。
「そうよね、ごめんなさいね。つまりこの乗り物は、地面から少しだけ浮かんで進むの。馬車だと険しい岩場の移動は無理だけど、これなら、足場に関係なく進めるわ」
「それに速いぞ。馬で移動となると一日で五十ジーイート(約八十キロメートル)がせいぜいだが、こいつは一回で積める燃料……熱魂石柱のラグサイズが二本とシグサイズが四本さえあれば、五時間で百二十ジーイート(約二百キロメートル)だ。ああ、そうだ、熱魂石柱が何なのかくらいは、教えておいた方が良いな。見せてやりなさい、イヴォンヌ君」
はいと返事をしたイヴォンヌは、機体の後方に回ると横に長い長方形のハッチを開け、シンディとケーリーを手招きした。
指し示されるままにハッチをのぞきこむと、中に入っていたのは二本の黒く太い棒だった。一本一本が両手で抱えなければ持ち上げられそうにない大きさだ。真っ黒な表面は光沢があり、白い文字で「熱魂石柱 ラグ」と刻まれている。
「これがラグサイズ。シグサイズはこの三分の一の大きさね。アーデンで機械を動かすのに用いられる燃料は、ほとんどがこれよ。エネルギーのもと、と言えばわかるかしら。これによって、機体のなかの円盤を回転させるの」
「ところでだね、イヴォンヌ君」
説明を終えてハッチを閉じたイヴォンヌに、マリアンが話しかける。
「それを運転するなら、スカートはやめた方がいいんじゃないかい? 男ものになってしまうが、君と背丈の変わらない研究員の私服でも借りた方がいいよ。シンディ君とケーリー君はどうする? その服でいいかい?」
シンディが今着ているのは、ここの若い女性研究員の長衣をグエンダ自治区の服のかたちに近くなるように仕立て直したものだった。濃い緑色の柔らかな生地で、ひざが隠れる程度の丈だ。腰布は目が覚めるような黄色で、少しごわごわとした丈夫な布が使われている。その腰布の左に、シンディは自らのドードーの頭の杖を挿していた。ケーリーは白のワイシャツにチョッキをまとい、膝丈のズボンをはいている。
「大丈夫です。わざわざご用意して頂いて、ありがとうございます」
シンディがケーリーと共に頭を下げると、マリアンは笑みを浮かべた。
「良かった、良かった。シンディ君のを仕立て直したのは、ここの整備士の一人でね。裁縫が趣味だと聞いていたから頼んでみたんだが、期待以上のものを作ってくれたよ。君が喜んでいたと、彼に伝えておこう」
「お願いします」
再び頭を下げたシンディの横で、イヴォンヌが口を開く。
「私もこのままで大丈夫です。ズボンの方が動きやすいかもしれないですが、私はそれよりも、慣れた服の方が良いので」
「ふむ。そうか。つまりは、もう出発できるということだな」
マリアンの言葉に、みなの顔が自然と引き締まった。
背筋を伸ばしたマリアンが、改まった口調で言葉を続ける。
「僕はシンディ君の事情も知らないし、イヴォンヌ君の機体のこともわからない。これといったアドバイスはできないが……くれぐれも気をつけて、行って、戻ってきてくれたまえ」
真剣な表情で噛んで含めるように言ったマリアンを、イヴォンヌはまっすぐに見つめた。
「はい」
「あ、それとだね」
さっきまでとは打って変わって頬を緩めたマリアンは、右手に提げていた黒い角ばった鞄をイヴォンヌに差し出した。
「君が開発してくれた土の成分の検査機器が入ってるよ。予備の熱魂石柱も入れておいたからね」
イヴォンヌは不可解そうに眉根を寄せ、鞄とマリアンとに視線を行き来させた。
「マリアン博士、私は地質調査に行くわけではないですよ」
「いつどこで突然土を調べたくなるかわからんだろう? 君は僕の弟子なのだから」
マリアンは鞄をぐいぐいとイヴォンヌに押し付ける。根負けしたイヴォンヌは、渋々といったふうで鞄を受け取った。
「イヴォンヌ博士!」
急に飛び込んできた声に、全員の目がいっせいに研究棟の方を向く。
突然響いた声の主は、アントニーだった。ドタドタと足音を響かせてこちらに走ってくる。
イヴォンヌの前で立ち止まったアントニーは、肩で息をしながらイヴォンヌに両手を差し出した。
「こ、これ……持って、いってください。お願いします!」
それは鉛色の、持ち手のついた筒だった。大人の手のひらほどの大きさで、持ち手の他に帯などに引っかけるのに良さそうなかぎの部分もついている。
「僕が王都にいる間に開発したものです。持ち手の、この指を引っかける部分のボタンを押すと、筒の先の穴から大量の粉が噴射されます。知り合いの魔術師に用意してもらった、魔物を弱らせる粉です。このかぎの部分を使えば、帯に引っかけて持ち歩けます。あそこで……あの、死者の魂の鉱脈で、何かあったら使ってください。イヴォンヌ博士は、僕があのおとぎ話を信じてるなんて言ったら、笑うでしょうけど、でも僕は、博士が心配なんです。僕はまだ博士から、たくさんのことを教えてもらわなくてはならないんです」
イヴォンヌを見つめるアントニーの目は真剣だった。わずかではあるが、捧げるように筒を持つ手が、震えている。
イヴォンヌはその鉛の筒と、アントニーの瞳とを交互に見、うなずいた。
「ありがとう、アントニー。あなたの想いを、持っていかせてもらうわ」
イヴォンヌの鞄を持っていない方の黒い手が、アントニーの白い手から鉛色の筒を受け取る。感触を確かめるように筒の持ち手を握ったイヴォンヌは、顔を上げて尋ねた。
「これは何という名前なの?」
「いや、それが、どう名づけたものか、全然思いつかなくて……」
気まずそうに頭を掻くアントニーに、イヴォンヌはくすりと笑った。
「名づけに時間がかかってしまうところは、似てしまったようね。今は仮に、噴射器とでも呼んでおきましょうか。帰ってくるまでに考えておいてちょうだい」
「はい、必ず」
真面目な顔で答えたアントニーに、イヴォンヌは再び微笑むと、シンディとケーリーに向き直った。
「それじゃあ、行くわよ。二人は二列目の座席に座ってちょうだい」
イヴォンヌの指示に、シンディとケーリーは用意された五段のはしごを登り、開かれたガラスの扉から機体に乗り込む。そっと足を下ろした床は灰色で弾力があり、何の素材を使っているのかわからなかった。一列目の座席も二列目の座席も、背もたれのある灰色のソファのようなつくりだ。前の列は一人用のソファ、後ろの列は横長で、二人用のソファといったところだろう。最前列の席の前には、床と同じ色のテーブルのようなものが張り出しており、たくさんのボタンやレバーがところ狭しと並んでいる。
最後にはしごを登ってきたイヴォンヌは荷物を床に置くと、二列目に腰を下ろしたシンディとケーリーの体を、座席に取り付けられた黒い布の帯で固定した。
「安全ベルトよ。強く揺れた時、座席から跳ね飛ばされて、どこかに頭をぶつけたりしないためのね」
説明しながら前の列の座席に座ったイヴォンヌの腰の上の部分で、鉛色の筒が光った。
イヴォンヌが何やら手元を動かしたかと思うと、開かれていたガラスの扉が魔法のように自動で閉められた。同時に機体全体に振動が走り、蜜蜂の羽音のようなくぐもった音が響き渡る。
「鉱脈まではスムーズに行けると思うわ。今回ほど長距離ではないけれど、平地での走行実験は何度も成功してるの。問題は山岳地帯ね。計算上は問題なく進めるはずだけれど」
ボタンや目盛りの並ぶ、目の前に張り出したテーブルにじっと視線を注ぎながら、イヴォンヌは力のこもった声でつぶやいた。
「越えてやろうじゃないの。ディーラゴン山脈」




