11、出発(上)
私は、母の腕のなかで眠る生後半年の弟の顔をのぞき込んだ。私と同じ赤色の髪と、父を思わせる少し太い眉をしている。今は眠っていて見えないが、弟の瞳は私の金のそれとは違う緑色だ。そのことが不思議なような、さみしいような気がした。
「可愛いね、お母さん」
私が母の顔を見上げると、母は微笑んだ。だが母の細い眉は、少しだけ、残念そうに下がっていた。
「女の子だったら、もっと良かったんだけどね」
「どうして?」
目をぱちくりさせて尋ねた私に、母は答えた。
「私の母の家、家系ではね、女の子がたくさんいた方がいいのよ、シンディ」
「どうして?」
「どうしてもなのよ」
ちょうどその時、小さな弟のまぶたが開いた。若葉のような緑の目が、母を、そして、私を見る。
私と弟と、いったい何が違うのだろう。私は女で、弟は男。それだけではないのだろうか。女の子の方が、男の子より良いものなのだろうか。
右の親指をしゃぶった弟を、私は見下ろした。自分の頬に自然とうすら笑みが浮かぶのがわかる。
母が見ていたのは確かに、私だった。
✝
故郷に残してきた弟のことを思いつくままに語ると、シンディは紅茶を一口、口に含んだ。
向かいの席に座ったケーリーは、こちらをじっと見つめている。何を考えているのだろう。弟と同じ男の子であるケーリーに、こんな話をして良かったのだろうか。
二人がいるのは、イヴォンヌの研究所の宿泊棟、その三階の談話室だった。一台の丸テーブルと三脚の椅子のセットが二つ。それに、えんじ色で横長のソファが二台、向き合う形で鎮座している。窓から見える空はまだ暗いが、地平線に沿うように、うっすらとした紺色の線が引かれていた。夜明けまで、あと一時間もかからないだろう。
昨夜はアントニーが追いついてきてすぐ、宿泊棟のベッドだけの部屋までイヴォンヌに案内してもらった。与えられた部屋で眠りに就いた時、こんなに早く起きるつもりはなかった。しかし暗いうちに目が覚めて眠れなくなってしまい、お茶でも飲もうと談話室に足を踏み入れたところをケーリーと出くわしたのだ。
「だから、私は」
シンディは言った。
「もし将来、男の子を産んだら、エイブのようにはしない、って決めてたの。エイブが、いつも妙におどおどしてて、自信がなさそうなのは、お母さんがそういうふうに考えてたから……男のエイブを、大切に思ってなかったからなんじゃないかって」
「……あの」
おずおずと、ケーリーは口を開いた。
「一つ、いいですか?」
「何?」
「シンディさんは、自分が弟を助けようとは思わなかったんですか?」
「……え?」
きょとんとするシンディに、ケーリーは考え考え言葉をつむぐ。
「何というか……姉として、おどおどしてる弟に、自信をつけさせる、みたいなことは、できなかったんですか?」
「……っ!」
答えられなかった。
右手に持っていたティーカップを置き、弟との記憶を、これまでにない猛スピードでなぞっていく。頭のなかで光が弾けているかのような感覚だった。
母が留守の間に算術の勉強をしていたシンディの手元を、弟がのぞきこんできたことがあった。その時、自分はどうしただろう。
『ちょっと邪魔しないでね。お姉ちゃん、大事なことやってるから』
里のはずれで魔術の練習をしていたシンディのもとに、弟が走ってやって来たことがあった。僕にも教えてよとせがんだ弟に、自分は何と言っただろう。
『今自分の練習をしてるの! 邪魔しないで!』
――私は。
なぜ、弟に算術を、魔術を、教えようとしなかったのだろう? 母が見ていないところでさえも。
自分がエイブに何かを教えていたら。そしてエイブがそれを習得して、自信を得ることができていたら。
「……私は」
何と表現すれば良いのかわからない恐怖が、腹の底から押し上がってくる。たまらなく、たまらなく怖かった。何かとても恐ろしいものに、自分は今、触れようとしている。
唐突に、談話室のドアノブが回る音がした。
はっと我に返り扉の方を見る。ちょうどアントニーが部屋に入ってきたところだった。寝ぼけまなこをぱちぱちさせ、左手には折り曲げた灰色の紙の束を持っている。
「やあ、おはよう。えっと……ごめん僕、人の名前覚えるの、すごく苦手で。イヴォンヌ博士の長距離走行実験に同行する子たちだよね?」
目をこすりながら言ったアントニーは大あくびをすると、やや丸みのある体をシンディとケーリーの間の椅子に下ろした。テーブルの上に、ばさり、と紙の束が置かれる。黒い文字がびっしりと敷き詰められた分厚い紙の束だ。
「君たちが乗っていく機体は、もうほぼ動かせる状態だよ。あとはイヴォンヌ博士と、僕の先輩たちと、整備士何人かで最終チェックをしたらおしまい。出発できるよ」
「ありがとうございます。わざわざ私たちのために」
シンディが礼を述べると、アントニーは首を振った。
「いいんだよ。いずれは実験する予定だったんだ。それにしてもあの鉱脈を越えていくなんて、勇気があるよな、ほんとに。僕は嫌だよ」
「何かあるんですか?」
ケーリーの質問にアントニーは一瞬眉を顰めたが、すぐに納得した様子でうなずいた。
「そうか、グエンダ自治区から来たから知らないのか。あの鉱山には、アーデン人なら誰でも知ってる伝説があるんだよ。死者の魂が降り積もってできた山だ、っていう伝説がさ。イヴォンヌ博士は、ただのおとぎ話でしょって笑ってたけど、僕は近づきたくないな。……イヴォンヌ博士と君たちに、クェーサルとフィンタンのご加護があらんことを」
祈りを口にしたアントニーに、シンディはふと疑問を感じて尋ねた。
「でも、国が管理している鉱脈なんですよね? 鉱脈なら、人がたくさん働いてるわけじゃないですか。気味が悪いようなことがあるんですか?」
「前はあったらしいよ。ものが消えたようになくなったりとか。でも山の神様にお供え物をするようになってから、そういうことはぱったりなくなったって読んだな」
「読んだ?」
「大分前だけど、新聞でね」
アントニーは自らが持ってきた灰色の紙の束をぽんぽんと叩く。きょとんとするシンディとケーリーに、アントニーは首を傾げた。
「グエンダ自治区には新聞はないのかな? こういう大きな出来事がありましたとか、国の決まりの変更とか、そういうことを文章にしてみんなに知らせるものだよ。たとえば、ほら、こういうふうに」
折り曲げられていた紙の束が開かれると、その新聞という紙は思っていたよりも大きかった。太く大きい文字の一行の下に、小さい文字がところ狭しと並べたてられている。シンディは読むには読めたが、ところどころ、意味のわからない単語を飛ばさなければならなかった。
「……戦争は避けたい、と述べた?」
目に留まったある一文をシンディが口に出すと、ああ、とアントニーは相槌を打った。
「何年か前から、北の隣国デラルカが不穏な動きを見せてるって話でさ。できるだけ交渉でことを穏便に進めようっていう意見と、やられる前にやっちまえっていう意見で、ちょっとごたごたしてるんだ。まだそこまでせっぱつまった状況じゃないけどね。……でも戦争は、嫌だなあ」
しみじみとした調子で、アントニーはつぶやく。灰色がかった緑のまなざしに暗い影が差した。
「戦争ってなるとさ、僕たちみたいに工学をやってる連中は、兵器造り、人を殺す道具造りに回されるんだ。一緒に深学院で学んだうちの何人かはもうそういう道に進んでるよ。仕方ないといえばそれまでなのかもしれないけど……嫌だなあ、僕は」
早朝の談話室に、沈黙が流れた。日の出が近い。ふと目を向けた窓の外の空は、さっきまで真っ黒だったのが澄んだ群青色に染まり、視界の限りに伸びる地平線が炎の帯に包まれていた。
――レティの髪と、同じ色の、炎だ。
自分より明るい色合いの赤毛が、怖がられることの多いつり目が、懐かしかった。
小さい頃からあちこちを走りまわっては、何か騒ぎを起こしたり、どこへ行ったのかと大人たちを心配させたり、シンディにいたずらをしてきたり、そういう子どもだった。あの子は、落ち着きというものを母親のお腹に忘れてきたのかね、と里の老女たちが苦笑いする姿が、今でもまざまざと思い出されてくる。シンディとは正反対といっても良いような女の子だった。仲良くなったのが不思議なくらいだ。いったいどこで、自分たちは惹かれ合ったのだろう。
「……ここでも」
ぽつり、と、ケーリーが言った。
「朝焼けは、きれいなんですね」
シンディとアントニーは、一瞬ケーリーの横顔を見つめ、そして、もう一度外を見た。
夜を押しやっていく炎の帯は、確かに、故郷と同じ色をしていた。
✝
天井のシャンデリアが放つ光に目が慣れたレティは、自分が今足を踏み入れた空間を見まわした。ガアン、と耳に痛い音をたて、背後の石の扉が閉まる。
そこは、書庫だった。
よく磨かれた石の床に、両腕を広げた大人が三人並べる程度の幅の本棚が十台、均等な間隔で二列に置かれている。千冊はゆうに越えているであろう数の本が、古い棚のなかで静かに眠っていた。
本棚を通り抜けて奥へと進むと、現れたのは一台の木のテーブルと数脚の椅子、それに、こちらに背を向けて本を読んでいる1人の男の背中だった。
「兄さん」
呼びかけると、兄は妹を振り返った。
会うたびに妹は思う。自分とこの人は兄妹のはずなのに、どうしてこんなにも違うのだろうと。
髪も瞳も同じ色だが、兄は優しい目元をしていた。短く刈った茜色の髪は妹よりずっとなめらかだ。シンディのように伸ばしたら、どんなに美しいだろう。
「驚いたよ」
ちっとも驚いてなどいなさそうな低く落ち着いた声で、兄は言った。
「お前が、自分から一人でここに来るなんてな」
少し痩せた頬に、小さく笑みが浮かんだ。
「相変わらず指笛が下手だな。指の位置が微妙にずれてるんだ。あれにちゃんと反応する狼たちに、俺は感心するよ」
「うるさいな、いいだろ別に。うちの狼たちは優秀なんだから」
妹は言い返しながらも、悪い気はしなかった。いつもの自分たちだ。
笑っていた兄は、すっと真顔に戻ると尋ねた。
「何があった?」
「色々あったんだ」
妹は答えた。
「本当に色々、あったんだ」
「そうか」
テーブルの上の本を閉じると、兄は、ヒューイは立ち上がった。
「何をしに来た?」
「どうしても調べなきゃいけないことがあるんだよ。ここで。多分ここにしかない情報を」
里の歴史、長の家の歴史、グエンダ自治区の歴史。それに様々な魔術や薬草、魔獣の知識。後世に継いでいかなくてはならない貴重な情報が、何重もの魔法と狼によって守られている。ここは、そういう場所だ。
「あたしが知りたいことは、多分、まだあたしに知ることを許されていない情報。でも兄さんはもう許されて、禁書の間を開く権利を持ってる」
ヒューイの目が光った。険しい光だ。
「俺に、お前のかわりに禁書の間を開けと?」
「頼むよ。兄さん」
レティは引き下がらなかった。
「どうしても必要なんだよ。本当にどうしても。緊急事態なんだ」
「どういう緊急事態だ」
自分をじっと見下ろすヒューイに、一瞬、レティは怯んだ。母と同じものをヒューイは持っている。押しても微動だにしない大樹のような、重く静かな何かを。
「……シンディが」
喉の奥から絞り出すように言葉を吐く。レティはまっすぐにヒューイを見返した。
「シンディのために、あたしの大事な友達のために、できることをしたい。それだけだよ。シンディを助けたいんだ」
「シンディ?」
彫像のようだったヒューイの表情に、揺らぎが生じた。
「シンディ・ゴールダーか?」
「そう、シンディ・ゴールダー。あたしの親友」
レティは眉を顰めた。ヒューイの瞳はこちらを向いているが、その瞳にレティは映っていない。
「そうか……ゴールダー家の娘か」
ヒューイはまぶたを閉じた。眉間にしわが寄っている。六年前にヒューイがここにこもって本を読みあさるようになる前からの、考える時の癖だ。
しばらく沈黙を守っていたヒューイは、ゆっくりと目を開いた。
「シンディ・ゴールダーが、女神の像とともに姿を消したんだな?」
「えっ」
レティは、思わずヒューイの顔をまじまじと見つめた。
「兄さん、ここんとこ書庫に泊まりこんでたよな? 何で知ってんだ?」
「それは後でわかる。ところで一つ疑問なんだが、お前は何でここに、あの娘を助けるヒントがあると判断したんだ?」
「えーっと、説明が難しいんだけど」
頭を巡らせ、レティはたどたどしく説明する。
「ちょっと前母さんから、シンディと仲良くなりすぎない方が良いって言われて、シンディがいなくなって、長の家の者がシンディと仲良くしない方が良いのと、シンディがいなくなったことが関係してるのかなって思ってさ。しかもその理由はあまり外で話しちゃいけない、大事な秘密のことで、あと、神様も関わってて。シンディがいなくなった夜、神殿を封鎖するようにって、母さん命令してたし。それで、神様とシンディが関わってる長の家の秘密がある場所っていったら、禁書の間かなって」
聞き終えたヒューイは、ほお、と感心する様子を見せた。
「それだけのことを自分で思いついたか。……何となくだが、お前が何を知りたがっているのか、見当はついた。だがお前、それを知ったところで、どうするつもりだ?」
「わからん!」
「何?」
レティの即答にヒューイの声が裏返る。面食らった様子のヒューイに対し、レティは一歩前に出た。
「知ってから考える。まずそこがわからないと、話にならないだろ」
「いや、だがお前、シンディを助けると言っただろうが。まさか、まだ何も考えてないのか?」
「考えてない!」
レティがきっぱりと言うと、ヒューイは呆気にとられた顔で口をぽかんと開けた。ヒューイの表情がこれほど変わるのを目にするのは久しぶりだ。
困り果てたように、ヒューイは額に手をあてる。
「全くお前は……! 十四になっても、無鉄砲さは変わらないか……!」
再びまぶたをぎゅっと閉じたヒューイは腕を組むと、また黙り込んでしまった。
その姿を見つめながら、レティは左の腰に挿したトンビの杖にそっと右手をそえる。
――もし兄さんが、あたしの頼みを聞いてくれなかったら。
魔術で脅すか、催眠をかけるかして強行突破するしかないだろう。禁書の間には、許された者しか入れないよう強い魔法がかかっている。
ヒューイの目が、開いた。
レティは、杖を握った。
「俺がちょうど、成人した日に、母上と父上から言われたことがある」
「……へ?」
間の抜けた声を上げたレティを無視して、ヒューイは言葉を続けた。
「あの跳ねっ返りは、落ち着きはないし、髪は伸ばすのを嫌がるし、手が焼けて仕方ない。でもあの子は必ず、将来、何かでかいことをやる。だがあの無鉄砲な性格は、危ういところもある。思慮と知恵のあるお前があの子を支えてやれ。そのためなら、多少なら、お前の判断で掟を破るのも許そう、ってな」
ため息を一つつくと、ヒューイはテーブルの上の本を手にとり、本棚へと足を向けた。
「待ってろ。この本を片付けたらお前の頼みを聞いてやる。それから、いい加減杖から手を離せ」
「あ……ああ、うん」
あたふたと杖から手を離したレティは、はっとした。
六年前の成人の日以来兄が書庫にこもるようになったのは、この時のためだったのだろうか。
レティは問おうかと思ったが、なぜだか、うまく言葉が出なかった。




