10、嘘(下)
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なぜ、こんなことを急に思い出したのだろう。
シンディはまぶたを開けた。幌に覆われた荷台は、オレンジ色のランタンの灯りに照らされている。外はすっかり暗い。黄ばんだ幌の布に、荷台の荷物の影が馬車の揺れるリズムで踊っていた。
イヴォンヌの薬を飲んでから、呼吸はずっと安定していた。名高い魔術師が作った薬というのは本当だったらしい。
不意に、父親似で少し太めの眉と緑の瞳をした弟の顔が、脳裏に浮かんだ。
今頃どうしているのだろう。里を離れてから四日がたつ。
エイブはまだ成人前の子どもだ。きっとどこか他の家の世話になっているだろう。シンディとエイブの家は、あの山の合間の里に空っぽでたたずんでいることになる。
戻りたいと思った。弟が、そして友達のレティがいる里に、戻りたい。
だがご神体を持ち帰った後里に残ることは難しいだろう。禁忌を犯し、呪いを受けた身で。
一瞬自分のこの先を考えてしまったシンディは、両の拳をぎゅっと握りしめた。
――里のため、お母さんのため。全ては、里のため、お母さんのため。
「アーデンの地では、男の魔術師もいるんですね」
不意に飛び込んできたケーリーの大きな声に、シンディは我に返った。どうやらイヴォンヌとマリアンに話しかけているようだ。
御者席の二人は顔を見合わせた。
「グエンダ自治区には、男の魔術師はいないのかい?」
マリアンが手綱を握ったままシンディを振り返る。魔術師に聞いた方が良いと思ったのだろう。
握っていた拳をゆるめて、シンディは首をたてに振った。
「少なくとも私は、見たことも聞いたこともありません。私のいた里は魔術師の里でしたけど、魔術師になるのは女だけです。他の里と交流はありますけど、男で魔術師の人間はいませんでした」
「ほお。それなら、おかしな質問になるかもしれんが、男は何をするものなのかね?」
「大工仕事とか、畑の世話とかですね。魔術でもやれないことはないですけど、魔術なしでも十分できることは男が、という感じでした」
「あの、すみません」
ケーリーが身を乗り出して口をはさんだ。
「アーデンの地だと、何というか……女と男の役割、みたいなものはどうなっているんですか? 僕のいた村は、魔術師の里ではなかったですけど、やっぱり何となく、女と男で、仕事が分かれていました。畑に出たり、家畜を世話したりするのは、女も男も一緒ですけど、お祭りをとり仕切ったり、森を管理したり、外からの商人と取引をしたりするのは女の人です。家を建てたり、薪を切ったり、力がいる仕事は、男の人がやっていました」
「そうか、そうか。こことは、ずいぶん違うな」
思っていた以上だ、とマリアンは呟くと、言葉を続けた。
「力仕事は男性が、というのは同じだよ。魔術師はこっちでも、女性の方が圧倒的に多いだろうな。王家や貴族お抱えの魔術師も女性がほとんどだよ。だが少数ながら、男で優秀な魔術師もいる。あとは……ふむ、何と言えば良いかな。多分グエンダ自治区よりも、ここは仕事の種類と数が多いんだが、大ざっぱに言うと、魔術師だとか、家政婦だとか、産婆だとか、一部の仕事は別として、仕事は男がやるものだな。それに女性が何かを取り決めるとか、とりしきるとかも少ないよ。農家は別だが、女性は家にいて家事だとか、子育てだとかをやっていることが多いね。イヴォンヌ君のように、女性で、しかも黒い肌で研究や発明をしている人はかなり少ないだろうね」
「へえ……」
興味深げにうなずいたケーリーに、マリアンは力んだ口調で言う。
「この国にはね、女性を、女性というだけで、肌の黒い人を、黒いというだけで、馬鹿にする人間というのがいるんだ。イヴォンヌ君も今まで、女のくせに、黒い肌のくせに、などと何度も言われていてね。そうするともう、僕は腹が立って腹が立って仕方なくて、そういう連中はギタギタのボコボコにしてやるんだ」
「マリアン博士」
それまで黙って聞いていたイヴォンヌが声を上げる。
「私、博士が誰かをギタギタにするところだなんて、見たことありません」
「頭の中での話だよ。僕が本当に殴りかかってなんかみろ。ぺしゃんこにされてしまうぞ、僕が」
「まあ」
呆れた顔をしながらも、イヴォンヌの口元には小さく笑みが浮かんでいた。
「あ、そうだ、シンディ」
何かを思い出したように言うと、イヴォンヌは荷台を振り返った。
「さっき飲ませた薬だけど、明日から、毎晩寝る前に飲んでちょうだい。苦しまないためにね」
「はい」
シンディはイヴォンヌと視線を合わせしっかりとうなずいた。少しぎこちなくうなずき返したイヴォンヌが、シンディから目をそらす。
「さて、そろそろ着くぞ。イヴォンヌ君の自慢の城にな」
マリアンのセリフで、シンディは御者席の二人の頭の向こうを見た。まだ少し遠いが、すっかり暗くなった道の先の右側に、ランプらしき灯りとそれに照らされる門がある。門のそばには白い人影が立っていた。
「イヴォンヌ博士! マリアン博士!」
張りの良い若い男の声が響き、ドタドタとした足音で人影が走り寄ってきた。
「お疲れ様。それに久しぶりね、アントニー」
イヴォンヌは、馬車に並んで小走りするアントニーと呼ばれた青年に言葉をかけた。ブロンドの髪に丸みのある穏やかそうな顔立ちで、少し太めの体に白い上着をまとっている。
「ご無沙汰してます、イヴォンヌ博士。もう研究所の中は大騒ぎですよ。博士が急に、明日からあれの長距離実験を執り行うなんて知らせてくるもんですから。今研究員がデータを確認したり、整備士たちが機体のチェックをしたりしてます」
「ごめんなさいね。今月の賃金は上乗せしておくわ」
「ありがとうございます。ところで」
マリアンの手元と馬とを交互に見たアントニーは、イヴォンヌに向かって眉を顰めた。
「まだ御者を雇っていなかったんですか? 自分の馬車と御者を持つお金くらい、あるでしょう?」
「御者にお金を出すくらいなら、研究所のみんなにお酒の一杯でも奢る方がいいもの」
やや棒読みのような口調のイヴォンヌに、マリアンが咳ばらいをする。
「イヴォンヌ君、それは、僕の受け売りのセリフではないかね?」
「技術は盗むものですわ、博士」
「全く君は、不器用なんだか違うんだか、時々わからなくなるよ」
ため息をつきながらも面白がっている表情で、マリアンは鞭を振って馬車の速度を上げた。御者席の横を小走りに走っていたアントニーがみるみる遅れていく。
「ほれほれ、若いの、馬になんか負けるんじゃないぞ」
「無茶ですよ!」
大股で本格的に走り始めたアントニーだったが、結局1分もしないうちに、イヴォンヌと並んでいたのが馬車の後方まで引き離されてしまった。
「アントニーは若いけど優秀でね。最近まで王都の方に勉強に行かせてたから、会うのは久しぶりなのよ」
小さくなっていくアントニーの姿を目で追いながら、イヴォンヌが感慨深げな口調で言う。
「そういえば」
シンディはふと浮かんだ疑問を口にした。
「さっきマリアンさんが、イヴォンヌの城と言ってましたけど……」
「あの研究所の主はイヴォンヌ君だよ。工学研究所だからね。誤解されることが多いんだが、僕とイヴォンヌは同じ科学者でも、研究している内容が違うんだ。僕は地質学……大地を調べる学問を、イヴォンヌ君は工学、人の生活に役立つものを作るための学問をやってるんだよ」
「えっ」
ケーリーが驚きの声を上げる。
「でも、二人は師匠と弟子みたいな関係なんじゃないんですか? それなのに、そんな全く違うことをやってるんですか?」
「僕とイヴォンヌ君を、師弟関係とは言えないという人もいる。でも僕は、イヴォンヌ君を弟子だと思っているよ。学院を卒業するまで勉学の面倒を見ていたのは僕だし、その後、研究者を目指す者が入る深学院に入学した後も、分野は違えど、同じく科学を志す者として、教えられることは教えてきたつもりだ。まあ僕と同じ地質学に進まなかったのは少しさみしい気もするけど、イヴォンヌ君には、イヴォンヌ君の道があるからね」
じっと耳を傾けていたイヴォンヌが、少しはにかむ様子を見せながらもマリアンの後を継ぐ。
「工学の師匠は、マリアン博士とは別にいるのよ。その人も立派な方よ。マリアン博士は私にとって……人間として、科学者としての、師匠なの」
四人を乗せた幌馬車が、アントニーが開けておいてくれたのであろう門をくぐり抜ける。
真っ先に視界に飛び込んできたのは、半透明のドームから光を発してそびえたつ巨大な石の建物だった。息を呑んだケーリーの横で、シンディもまた目を丸くする。
こんなに大きな建物も、光るドームも、見るのは初めてだった。全体的に四角い建物だが、光を放つ半透明のドームが屋根の真ん中に横たわり緩やかな円を描いている。窓の位置と数から察するに、おそらく三階建てだろう。
「あのドームを光らせるのに使われている陽蓄機という機械は、イヴォンヌ君の発明なのだよ」
まぶしそうに光を仰ぎながら、マリアンが大きな声で言う。
「太陽の光を十分に浴びせたうえでスイッチを入れると、ああやって光るんだ。浴びた光の量によるが、晴れの日の太陽に五時間あたった場合、光の持続時間は約十時間。主に夜間作業に使われている。この建物だと、あのドームの下が、柱のような空間の開発室になっていて、夜でも、十分な明るさで作業ができるようになっているんだ。ただ、少しばかり高価なのが玉に瑕だがね」
やがて馬車は建物の扉の前で動きを止めた。御者席のイヴォンヌが門に視線を向ける。
「機体……私の発明品を動かす準備に時間がかかるから、出発は明日の朝よ。今夜はここに泊まることになるわね。泊まり込みの実験も少なくない研究所だから、豪華ではないけれど、宿泊施設はしっかりしてるわ。アントニーが来たら一緒に行きましょう」
「はい」
シンディが返事をした横で、ケーリーが突然立ち上がった。荷台の後ろの方へまわって外へと顔を出し、何かをじっと見つめている。
「どうしたの?」
シンディは尋ねながら、同じようにして外へ顔を出す。ケーリーの視線の先にあったのは、あの光るドームだった。星々のまたたく夜空に煌々と浮かぶ光の物体。そのまぶしさに、シンディは目を細める。
私は、異国に来たのだ。




