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空へ  作者: 上田謡子
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1、衝動(上)



 窓の外には夜の暗闇だけが在り、テーブルに立てたろうそくの火が、飾り気のない木の床や壁を照らしていた。赤毛の少女の体重を預けられた椅子が、きしっと小さく鳴く。


 テーブルと簡素な造りの家具が数点置かれたこの居室には、ダヌアザミの花の甘ぬるい香りがたゆたっていた。少女が今日の昼間から夕方にかけ、天日干しで乾燥させたダヌアザミを粉末にする作業に勤しんでいたからだ。生命の母神ダヌの乳が垂れたのだという白い模様の入った葉と、紫がかった桃色の花弁をもつこの花は、二日酔いによく効く。この時期はダヌアザミが大活躍だ。山の向こうのいくつかの村では、初夏に盛大な祭りがとり行われる。大人たちは酒を浴びるように飲むのを楽しみにしながら、辛い二日酔いを避けるべくダヌアザミの薬を求めるのだ。もうそろそろこの里に、山の向こうの村々から大量の薬の注文が入るだろう。


 ずいぶん静かな夜だった。普段は少しうるさいほどの虫たちが、今夜はやけにトーンを落として鳴いている。1人ブナの椅子に腰かけた少女――シンディは、テーブルに肘をつき、虫の音を聞くとはなしに聞いていた。身体全体に気だるさがまとわりついている。午後に花を粉末にする作業に精を出したのと、午前中、同じ十四歳のレティに誘われて、里を囲む山を歩いたからだった。


『早くナツメが採れねえかな』


 春のうららかさが褪せつつある強い日差しを受けながら、レティはシンディを振り返った。その青葉のような濃い緑の瞳が、脳裏にくっきりと焼きついている。


 ナツメの実が採れるのは二ヶ月以上先だ。気が早いよと笑ったシンディは、思い出していた。


 レティ同様、母も赤みがかった生のナツメをかじるのが好きで、実がなるのを毎年楽しみにしていた。遠い夏の日、目に痛い緑に燃える山で、まだナイフもまともに扱えぬ年齢だったシンディは母の背中を追いかけていた。立ち止まって一本の木を見上げた後、こちらを振り返った母の瞳は、シンディと同じ秋の麦の穂の金色をしていた。


『早くナツメが採れないかしら』


 もうこの里に、金の瞳の持ち主はシンディしかいない。そう考えると、心にぽっかりと穴が空いたような心地がする。


 四方を山に囲まれたこの里――〈月刀ノ里〉の者はみな、燃えるような赤毛と若葉のような緑の瞳をしている。そのなかで、シンディの母の家系だけが代々金色の瞳をしているのだった。シンディは母の金の目を受け継いだが、四つ下の弟は父親ゆずりの緑の目だ。


 さんさんと照り続ける陽の下、レティは木に背を預けてシンディと向かい合った。里のみなと同じ色の瞳が伏せられ、いつもならくるくるとよくまわる唇が重たげに動いていた。


『昨日母さんに、シンディとあんまり仲良くしない方が良いって言われてさ。未来の里の長として、だって。意味わかんないだろ? ちゃんと理由があって、まだあたしが若すぎるから話せないけど、後で辛い思いをすることになるぞってさ』


 眉を寄せ、意味わかんないだろと繰り返したレティは、男のように短い髪をくしゃくしゃと掻きまわした。母にも父にも似ていないつり目が、頭上の太陽とは裏腹に暗かった。


 テーブルの木目に影を落とし、ちろちろと長く燃える蝋燭の火を前にして、昼間の森での出来事を脳裏でなぞる。


 自分もレティも、目に見えない、大きなものに包まれている。それは大昔から網の目のように張り巡らされていて、意識しなければ気づけないような綿密さで、頭上にのしかかっている。


 レティは短い髪が好きでそうしているが、いつまでもというわけにはいかないだろう。今はまだ若いからいいが、そのうちだんだんと言われるようになる。髪を伸ばせ、と。未だに短いままでいさせてもらえているのが不思議なくらいだ。


 髪は魔力を持つといわれる。大昔から魔術師の里として存在してきたこの里では、女はみな魔術師となる。色鮮やかで豊かな赤毛は、魔術師の重要なシンボルだ。


 不意にノックの音が響いた。玄関だ。こんな時間に誰が、と思ったシンディだったが、数日前伝わってきたある伝令の内容を思い出し、腰を上げる。


 弟のエイブも、家の奥からろうそくをかかげてやって来た。ドアの前に立ちこちらを振り返ったエイブが小声で尋ねる。


「開けていい?」


 シンディがうなずくと、エイブはゆっくりと扉を開けた。


 そこに立っていたのは、つばの広いわらの帽子を目深に被った少女だった。つばからは緑、赤、黄、青、色とりどりの飾りひもが垂れており、少女の身には桃色の花が散りばめられた水あさぎの長衣が纏われている。右手に握った杖の柄のトンビは、その両眼から淡く光を発していた。


「こんばんは」


 少女は、練習を重ねたのであろう優雅な仕草でお辞儀をした。


「明日成人となります、ベルと申します。それにつきまして、里のみなみな様にごあいさつをしてまわっております。里の仲間であるあなた方の未来に、平安を」


 口上を最後まで聞き終えると、シンディとエイブは頭を下げた。この家の最年長であるシンディが言葉をつむぐ。


「ありがとう。ベル、明日成人となるあなたの未来に、平安を」


 ベルと名乗った少女は緑の目を伏せ、再度、深々と頭を下げた。


「それでは、これで」


 姿勢を正したベルは、一歩、二歩、三歩と後ろへ下がると、くるりとまわって方向を変え、ゆっくりとした歩調で歩き去っていく。


 シンディはその晴れ着の背中を見送っていたが、やがて静かにドアを閉めた。


 この里には、成人となる日の前夜、里の家を一軒一軒あいさつしてまわる習慣がある。三日前、里の娘の一人がまもなく十三歳に――成人になるという知らせがあった。


 ――私は、黄色いダリアの花が咲く、もえぎ色の衣だった。


 もう二年近く前のことだ。シンディが成人の儀のための晴れ着を着たのは。


 美しい思い出のはずなのに、どこかふさいだ気分なのは、なぜだろう。


「お姉ちゃん」


 シンディは顔を上げた。エイブの緑の瞳がこちらを見ている。


「居間で、お茶でも飲む?」


「……あ、ああ……ありがとう」


 シンディが答えるとエイブはうなずき、居間で待ってて、と言葉を残して台所の方へと歩いていく。言われるがまま、シンディは再び居間のテーブルについた。まもなく台所から出てきたエイブが、シンディの前に湯気のたつティーカップを置く。何か質問をされるな、という予感がした。聞きにくいことを聞く時、エイブはさりげなく飲み物を出したり、お菓子を出したりする。


 案の定、エイブはシンディの向かいの椅子に腰を下ろすと、おずおずと口を開いた。


「お姉ちゃん、ちょっと、聞きたいんだけどさ」


「何?」


「お姉ちゃんってさ」


 目をそらして言いよどみはしたが、エイブは言葉を継いだ。


「神様を、見たことがあるんだよね?」


「……それは、私が〈女神ノ守り人〉だから聞くの?」


 シンディは一昨年の夏に十三の誕生日を迎えてから、〈女神ノ守り人〉として働いている身だ。〈女神ノ守り人〉とはその名の通り、この里が祀る女神を守る人々をさす。シンディは若手ながら、女神を祀る神殿に頻繁に出入りしていた。


 〈女神ノ守り人〉でない者も、冬の始めの祭りの際には神殿に足を踏み入れて祈ることが許されている。だが女神そのものの姿を見ることができるのは、〈女神ノ守り人〉と里の長だけだ。ごく一部の例外――自分たちゴールダー家の女――をのぞいては。


 エイブはかぶりを振った。


「それならもっと早くに聞いてるよ。そうじゃなくて……何というか……お母さんの娘として」


 すぐに答えることができずに、シンディはティーカップに視線を落とした。


 本当は、そういう意味の質問だろうなという気がしていた。エイブが目をそらせて質問する時は、たいてい母がからんでいる。


「ごめんね」


 鎖が絡み合ったような模様のティーカップを口に運び、シンディはハーブティの底を見つめながら謝った。


「話してはいけないって言われてるの。その……」


「いいよ」


 言葉を探すシンディを、エイブは早口で制した。もうここを立ち去って寝室に行ってしまうかと思われたが、その様子は見せず、目線をさまよわせている。


 弟の曇った瞳の動きを、シンディはじっと追っていた。


 ――私は、お母さんのような間違いは犯さない。次のエイブを、生まない。


 母を悪い人だとは思わなかった。だが、エイブをこんなふうにしてしまったのはまぎれもなく母だ。


 母が亡くなったのは二年近く前、今くらいの季節のことだった。明日から数えて十二日目が命日だ。山で崖から転落し、頭を打ったのだった。たとえ慣れていても山は危険をはらんだ場所であるし、魔術師であっても死ぬ時は死ぬものだ。転落事故は決して珍しいことではない。決して。


 その年の冬、父は母の後を追うように病で命を落とした。シンディが十三に、エイブが九つになる年の出来事だった。


 ずっと泳いでいた弟の瞳が止まった。こちらを向いてはいるが、微妙に目が合わない。シンディが眉を顰めると、エイブはいや、と口ごもった。


「その、ピアス、いいな、と思って」


 どういう意味の「いいな」なのか、シンディには手にとるようにわかった。シンディの両耳で光っている金のドードーのピアスは、亡き母の形見だ。


「……夏が終わって秋が来れば、山の向こうに市場が出るでしょ。その時、エイブに似合いそうなピアス、買ってくる」


 でもその前に、まずエイブがピアスの穴を開けなきゃね、と言おうとしたシンディだったが、陶器の割れる激しい音がそれをさえぎった。


「お姉ちゃん!」


 弟のびっくりした声を遠くに聞きながら、シンディは呆然と前を見た。さっきまでカップを抱えていた両手は空っぽで、その下にいくつもの陶器の欠片が転がり、水たまりができている。


 自分がティーカップを落としたのだとはわかったが、シンディは動けなかった。動悸が激しい。身体全体にとても嫌な感じがした。心臓の内側で何かが鐘を鳴らしているかのような、指の先をじっとしていておけないような、激しい不安と焦りで、震えている。


 不意にあの女性の姿が頭をよぎった。山の泉の水のように透きとおった髪を背に流し、斜め上を見つめる女。エイブが、里の人々が、一度も目にしたことがないままに「神様」と呼ぶ女。


 今夜の神殿の門番は、〈女神ノ守り人〉の先輩のジーナとケイトだったか。


 割れたティーカップや、それを片付け始めたエイブや、居間の家具が、自分から遠ざかっていくようだった。指先が、とん、とん、とテーブルを叩く。


 何かとても大事なことを見落としている。そんな気がしてならなかった。だがいくら考えても、特にこれといって心配の種は見当たらない。今日はもう戸締まりを確認してベッドにもぐるだけのはずだ。明日の朝起きたらパンと卵とピクルスで朝食をとり、〈女神ノ守り人〉の詰め所に向かえばいい。


「お姉ちゃん? 大丈夫?」


 心配そうなエイブの呼び声で、シンディは我に返った。眉を下げてこちらを見つめるエイブの姿が、世界に戻ってきていた。


 夢から覚めた心地で何度かまばたきをし、シンディは詰めていた息を吐く。


「うん、大丈夫。ごめん、片付けさせちゃって。私が落としたのに」


「ううん、いいよ」


 何ともないというふうに首を振るエイブの背中に、窓が見えた。黒い空に白い星が光っている。月は、なかった。


 今夜は新月かと思うと、母に繰り返し聞かされてきた言葉が、意識の底からゆらりと立ち上がった。シンディの母もそのまた母も、〈女神ノ守り人〉だった。


『新月の夜は、気をつけなくてはいけないよ。神様が弱るからね』


 がたんっと音をたてて、シンディは勢いよく立った。


「エイブ、私、ちょっと出てくる」


「えっ?」


 裏返った声で聞き返したエイブの横をすり抜けて、シンディは寝室に駆け込んだ。さっき湯浴みを終えて身につけた寝間着を脱ぎ捨て、膝が隠れる程度の丈の明るい黄緑の衣に身を包み、腰布をきつめに結ぶ。その上に白波の模様が入った紺のマントをまとうと、肩に垂らしていた赤毛を頭の後ろの高い位置で馬の尾のように一つ結びに結った。自分の背筋が自然と伸びるのがわかる。


 部屋のすみの杖たてには、一本の杖がたてかけられていた。シンディの背丈の三分の一ほどの長さがあり、柄はゆるやかなカーブを描く大きく太いくちばしを持つ鳥、ドードーの頭のかたちだ。杖たてのわきには、短剣や縄、小瓶など、〈月刀ノ里〉の魔術師であればいつも持ち歩くものが入った小ぶりの鞄が置いてある。杖を右手に持ち鞄を肩にかけると、シンディは玄関に向かった。玄関口には松明用に綿の布を先端に巻き付けた木の棒が用意してある。それを左手にとり、バタンと勢いよく扉を開けた。眼に飛びこんできたのは、月のない夜の暗闇だ。それでもなお、シンディは杖を振って呪文を唱え、左手の棒の先に火を灯すが早いが駆けだした。



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