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人の形

作者: みてくら

 雲間から覗く僅かな月光によって、海は鈍い光を発していた。暗く沈むような色だった。


「たとえば、この人形と私は何が違うんだろう」


 女は手に持った人形を見つめながら言った。薄汚れた人形だった。海辺を歩いているときに、ふと見つけた西洋人形は、至る部分が傷つき、また、衣服にも損傷が見られた。

 女と人形は、同様に壊れているのだと思った。


「人形は自分で服を選ばなかった」

「この服は、あの人が選んでくれたの。この色が似合うだろう、なんて言ってね」


 過去を懐かしむかのように薄らと目を細め、女は笑った。

 縋るものを過去にしか見出せぬ人間は、もはや生きていくことなど叶わないのだ。人間には、何に縋るかを選ぶ権利しかない。それを誤った人間は、終わる以外にない。

 彼女は二度も誤った。

 一人目の旦那は浮気をして、女の下を去った。次に女が縋ったのは、隣の部屋に偶然住んでいた私だった。

 彼女は私に縋り、そこに希望を見出そうとしたが、私は彼女に縋らなかった。

 女は狂信者だった。依存せねば生きていけない、まるで人形のように、所有者なしでは存在する意義さえ見出せない、あまりに浅はかな女だった。

 しかし、それは私にとっては都合が良かった。愛とか恋とか、そういうセンチメンタルな情念によってでなく、もっとプリミティブな情欲によって、私は女を蹂躙した。


「私たちはね、誰かのお人形でいなくてはならないのよ。人々の求める姿でいなくてはならないし、求められなくてはならないの。けれど、貴方はもう私を求めはしないでしょう?」


 私はもう女を求める気にはならなかった。年齢に見合わずに美しい相貌であるとは思うし、肉感的な体躯も、十二分に私を満足させ得るものであった。

 そうであるのにも関わらず、私は女に対して憎悪すら覚えていた。


「マトリョーシカなんぞ、不気味なだけじゃあないか。私と同じ顔をした人形が中にいると考えるだけで、それは耐え難い苦痛でしかない」

「貴方は自分が嫌いなのよ。誰のことも好きでないのに、それ以上に自分のことが嫌いなの。だから、許せないのでしょう。私たちの子供が」

「産みたければ産めばいい。生涯を子供に依存して生きればいい」

「生まれてくる方が、よほど哀れよ。誰にも求められずに生まれてくる子供なら、いっそ消えてしまった方が幸福じゃあない。私が求めているのは貴方であって、貴方に似た誰かじゃあない。愛とはそういうものでしょう」


 私には、彼女の語る愛が滑稽でならなかった。

 自らが人形であると定義しているのに、人形に注がれる愛が永遠でないことには気付いていないのだ。女が手にしている人形だって、かつては何者かの愛情を受け止める器であったはずなのに、今では波打ち際に流れ着いたガラクタどもと変わりはしない。

 いや、ガラクタでさえ、かつては人を支えたものの一部であった。

 必要とされる時間は、永遠ではない。

 ただ、長い時間を、多くの人間に求められようと考えるために、人は創意工夫を凝らして、自分という人間をより美しく着飾ろうとするのだ。

 私は虚構に満ちた人々の営みが、好きではなかった。


「もしも、君が本当に人形であったのなら、私は君を愛したかもしれない。君は人形ほど美しくもなければ、あまりに不安定な人間だった」

 

 女は哀れむような目で私を見た。それは、決して人形にはできない表情だった。母性といっても過言ではないほど、慈愛に満ちたものだった。

 私には耐えられなかった。

 自らを人形と侮蔑する女にまでそういう表情を向けられた事実が、矮小な心根を甚く刺激したのだ。

 月の光が、弾劾するように私を照らした。見上げると、雲はどこかへ流れたあとだった。

 

「私には、どうしても人を愛するということができないのだ。君のいう通り、人が恐ろしくてならない。だが、それがなんだというのか。誰もが怯えながら生きているではないか。人々のいうところの愛は、何に向けたものか。身なりだとか血だとか、理由がなくては人は人を愛せぬと、何なぜわからぬ。その理由を作るために取り繕うのではないか。お前など、他人がいなくては存在する意味すらわからない売女であるのに、どうして愛を語れるという」

 

 私の中では感情がのたうっていた。私は今が深夜であることも忘れ、大口を開けて怒鳴りながら、女を罵った。

 激しい怒りとともに、私は恍惚を感じていた。

 それは、女を罵ることによって得たものというより、感情の吐露に伴うものであると思った。私は口内が渇いていくことも厭わず、心の昂ぶるままに下卑た言葉を女にぶつけ続けた。女は黙って私の言葉を聞いていた。

 やがて息が切れるまで叫び続けると、私の目からは涙が零れていた。


 女は私が涙を流し始めるのを見ると、悲しげな顔をしながら「それが愛なのよ」といって、母が子にそうるように優しい手つきで、人形の頭を一つ撫でた。

 不意に、私はその人形を羨ましいと感じた。

 その一瞬、確かに私は女を求めていた。


 私は女が必要でなくなった。女がどのようにするのかは、私の知るところではない。また、新たな依存先を見つければ済む話なのかもしれないが、残念なことに女はそれほど頑丈にできていなかった。

 もはや、単なるガラクタに過ぎない。


 そうで考えていたはずなのに、私は彼女の語る愛を欲していた。

 女は私の傍に歩み寄ると、人形を撫でたせいで汚れてしまった掌でもって、私の涙を拭った。衝動的に、私は女の手を振り払っていた。

 求めていたものが向こうからやってきたというのに、私の人間らしい愚かさは、愛されることすら拒んだ。

 それでも、女は振り払われた手を私の頬に再び押しやって、「私は貴方を愛しているわ」といった。

 君は夫にも同じことを言っていたじゃないか、と彼女にいおうとしたが、まるで子供の屁理屈のようだと考えてやめた。

 彼女は私の頬に押し当てているのとは逆の手に持った人形を、腹の前に搔き抱くようにしていた。

 きっと、彼女に母性を見出したのは、子を孕んだためなのだろう。

 私にとって許せぬものが、私の欲するものを生み出したというのは、あまりに皮肉なことだと思った。


「確かに、私は君を求めている。けれど、それはきっと永遠ではない。些細なきっかけで、全ては壊れてしまう」

「貴方を永遠に求めていたい。だからこそ、私はこうするしかない」


 女は私の頬から手を離しながら、母なる海に還るのだといった。


「私の中で、この一瞬は永遠であり続けるのだろうか」

「少なくとも、私は永遠に変わらない。けれど、貴方には変わる日が来るのかもしれない」


 この気持ちを忘れたくなかった。

 私も永遠の一部になってしまおうか、というと、女は、それはだめ、と短くいった。

 あまりに強い意志の籠もった言葉だったので、私は反射的に頷いてしまった。


 彼女は満足げに微笑んだ。始めて見る顔だった。

 そうして、私たちの間には視線ばかりが交わされた。月の光が、急かすように弱くなっていった。

 

 ほんの一筋だけ差し込んだ月光が、女の持つ人形を照らした。

 女は、さよなら、といった。


 月は再び雲に覆われ、黒く染まった海から発せられる漣の音だけが、辺りを包んでいた。

 女は振り返ることもなく、人形とともに還っていった。夜の海に消えていく女の背を、私は最後まで見送りはしなかった。どこまでも広がる深淵の中に、私までもが吸い込まれてしまいそうな気がした。

 私が母であったものに背を向けると、波の打つ音が、僅かに強くなった気がした。

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