エピローグ後編Ⅱ
何とか日曜日中に投稿出来ました。
エピローグ後編Ⅱ
邀撃機隊の壁を抜け艦隊へ向けて飛翔を続ける、クーラ・ルフの飛竜群を出迎えたのは、大小三二発の砲弾だった。
但し、東と西に分かれて接近して来る敵に対して帝国海軍側も二手に分けての砲撃であったので一群への砲弾数は十六発であった。
内訳は、東から来る甲群に対しては「比叡」と「静狩」、西の乙群へは残りの「霧島」と「石狩」と言った具合で、双方へ三五.六センチ砲弾八発と一五.五センチ砲弾八発が放たれた事になる。
彼我の距離は、約で二〇〇〇〇メートル。
三五〇〇〇メートルを超える射程距離を持つ「金剛」型戦艦の毘式三五.六センチ砲と「大和」型の副砲にもなった六〇口径一五.五センチ砲の持つ最大射程二七〇〇〇メートルから見れば余裕の距離であったが、これは後に続く一二.七センチ砲の射程との兼ね合いでこの位置まで引き付けての攻撃であった。
砲口を発して緩やかな弾道軌道で飛翔した大小の砲弾は、弾頭に装着された時限信管が調停秒時に達して起動するとそこで炸裂し、前方へ向かって無数ともいえる燃焼弾子を放出した。
二〇ミリあるいは二五ミリの円筒形をした燃焼弾子は、砲弾底部の射出薬が炸裂した勢いで放出されると共に自身の弾頭部の点火薬に着火され周囲へ飛散してゆく、そして点火薬が燃え進んだところで内部に込められた焼夷薬に火を放った。
最初に燃焼を始めるのは硫黄やリンなどの焼夷剤であったが、それはすぐ弾子内に充填された粉末状のマグネシウムやアルミニウムへ燃え広がった。
燃焼とともに黄銅製の弾子外筒は四散し火が付いたマグネシウムやアルミの粉末は広く飛び散りながら周囲の酸素を取り込んで短くしかし激しく燃え上がった。
接近する飛竜群の針路上にばら撒かれた燃焼弾子は、一発当たり三五.六センチ砲弾で約五〇〇発、一五.五センチ砲弾でも二〇〇発であるから一群当たり総数五六〇〇発と言う計算となる。
それが一斉に閃光を発して燃え上がるのだ、一瞬とは言えそこには確実に視覚を奪う光の壁が立ちはだかることとになる。
クーラ・ルフ帝国との戦争が始まると、人類側は敵の情報取得に躍起になった。
各国の学者と知識人、特に人類学・言語学・生物学に関わる者は総動員で敵の実態、世界・社会・国家・民族・言語等の把握に当たった。
前後するがクーラ・ルフと言う国家名と、それが存在する世界の名ヌームウォルトも一連の調査の成果であった。
そして、中でも敵の主力である、怪竜特に飛竜は難敵故に徹底した調査が行われた。
幸いな事に、戦争の経過と共に少なくない数の飛竜がその騎手共々鹵獲或いは投降してきていた為、調査対象には困る事はなかった。
そして、それらの捕獲個体に加えて撃破された飛竜の残骸の解剖結果からある一つの結論が導き出される事となった。
それは、飛竜が情報の多くを視覚によって得ている事、つまり極めて眼が良くそれに頼って生きている生物であると言う事であった。
そこで彼らの視覚を奪う手段が考案され、当時帝国海軍が開発していた大口径用対地対空焼霰弾である三式弾をベースに中に短時間だが極めて強い光を放つ砲弾が開発されたのである。
閃光焼霰弾、略してS弾と名付けられた閃光を発するこの砲弾により、飛竜は一時的に視覚を奪われる事と成った。
勿論、効果はごく短時間の一時的であったが、常に視覚に頼って生きて来た飛竜にとってはそれは恐怖以外の何物でもなかったであろう。
それが証拠に、それまでは使役して来た騎手に対して極めて従順であった飛竜が一切の指示を無視して暴れ出し、制御不能と成っていた。
騎手は振り落とされない様に鞍にしがみ付くのが精いっぱいで、当然その機動は通常よりも単調なものと成っていた。
確かに、閃光による混乱は一時的なものであった、しかし、この段階で敵に無防備な姿を晒すのは致命的と言えた。
飛竜が落ち着きを取り戻すより先に、帝国海軍の長槍、「石狩」型の二隻の持つ長射程の高角砲の砲弾がかれらの周辺で炸裂し始めた。
「石狩」と「静狩」は、S弾を五射で止め六射目から通常の対空弾へ切り替え射方も一斉打ち方から交互撃ち方へ変えて射撃を継続していた(「金剛」型戦艦の二隻は既に二射でS弾の射撃を止め高角砲の射撃準備に入っていた)。
「大淀」型軽巡洋艦の艦体を流用する形で新造された「石狩」型防空巡洋艦は、六〇口径一五.五センチ連装砲四基八門を主砲として、三八口径一二.七センチ連装砲六基十二門を高角砲と四〇ミリ・二〇ミリ対空機銃を多数搭載していた。
中でも主砲の六〇口径一五.五センチ連装砲は、軽巡洋艦の主砲用に開発された平射砲を基本に装薬の形式を薬嚢式から薬莢式へ変更し、弾丸と薬莢を別々に揚弾して装填する方式に改めていた、これは高角砲として使用する際に高仰角での装填が予想されたのと射撃の速度を維持させる為に担当兵員の負担を軽減させることが目的であった。
この様な改造の結果、同砲は最大射程二七〇〇〇メートルを超え、射撃速度の毎分十発と二〇〇〇〇メートルを超えても尚高い命中精度は高角砲として同砲が充分使用に耐えるものである事を証明していた、正しく≪長槍≫、重高角砲と言える代物であった。
この重高角砲と二式両用射撃指揮装置の組み合わせによる射撃制度は二〇〇〇〇メートル近辺でも非常に高く、甲乙二群に対して今回も早々にその効果を現した。
最初は乙群に射撃を続けていた「石狩」の戦果であった、目前に展開した危険半球内へ飛び込んだ翔竜二騎がその翼をボロ布の様にされてそのまま落下していった。
続けて甲群への射撃を行っていた「静狩」も一基の翔竜を撃ち落とす戦果を挙げた。
そこからは連続して撃墜される翔竜と飛竜が続出するが、クーラ・ルフ帝国の飛竜群はその少なくない数を犠牲として重高角砲が構築した弾幕を力づくで押し通て行った。
やがて、二群の飛竜は重高角砲の弾幕を抜け、艦隊外縁より一〇〇〇〇メートルのラインを突破したが、その数を三十を切るまで減らした彼らをそこで待ち構えて居たのは、『死の花』が咲き乱れる『死の花園』であった。
『死の花』、高角砲の弾丸が炸裂する時に発する爆光と直後に爆煙が広がる様子を、クーラ・ルフ帝国軍の飛竜騎手達はそう呼んでいた。
艦隊外縁より一〇〇〇〇メートルを超えた地点は、多くの艦が搭載する三八口径一二.七センチ連装砲の射程内であった。
帝国海軍第三航空艦隊を構成する艦艇は、空母と「秋月」型駆逐艦を除けば全艦がこの米国生まれのこの高角砲を搭載していた。
それが射程に入り次第一斉に打ち始めるのだ、北海にはその空を覆いつくすほどに巨大な花園が生まれていた。
中でも輪形陣の外周に位置する二隻の「阿賀野」型防空巡洋艦は、完全体が燃え上がる様に見えるほど艦首と艦尾側の甲板に三基づつ計六基一二門搭載した一二.七センチ連装砲を連射していた。
それ以外にも「秋月」型と「松」型の駆逐艦も前者は八九式一〇センチ連装高角砲・通称長一〇センチ砲四基八門を後者は前述の通り一二.七センチ連装砲を三基六門を次々と接近して来る飛竜群へ向けて打ち込んでいった。
艦橋と一部の艦では後檣の頂部にも設置された二式両用射撃指揮装置の内部では、艦内の戦闘指揮所より送られてくる電探の捉えた敵の位置情報と指示を基に決められた概略方向に指揮装置を指向させ、その後は指揮装置の上部と側面に装着された射撃用電探と高角測定用電探で精密測定を行い順次照準を合わせながら流れ作業の様に砲塔への砲撃指示を行い『花園』を構成していった。
やがて、その花園へ一歩踏み込んだものは容赦なく、鋼と焔で形作られ彩られた『死の花』によって絡め獲られて異世界の空でその生を奪い取られて行った。
人も飛竜もである。
正しく、そこはやはりクーラ・ルフの騎手たちが名付けた様に『死に花園』であった。
それでも幸運か、実力か十五騎ほどが剛竜の強靭な肉体と障壁により帝国海軍の高角砲群が生み出した『死の花園』を踏み越えて艦隊外縁部に迫ることが出来た。
しかし、多くの犠牲を払いながら艦隊外縁に達した彼らを待っていたのは、『死の花園』よりも更に過酷な、艦隊各艦が搭載する無数とも言える多様な口径の機銃群が生み出した『鋼鉄の暴風』であった。
機銃による弾幕の内、外周部を構成していたのはスウェーデンで開発され今や対怪竜用の標準兵器と成った感の有るボフォース四〇ミリ機銃(ボフォース40ミリL60機関砲)であった、最大射程三五〇〇メートル・有効射程一五〇〇メートルの同機銃は命中精度が高く有効射程内では剛竜の障壁や鱗を撃ちぬく威力が有る事から多くの軍が採用しており、帝国海軍に於いても五式四〇ミリ機銃として生産されて、戦艦から駆逐艦に至るまで全艦が四連装型または連装型を装備していた。
そしてその内側、最終ラインを護る二〇ミリクラスの機銃は国によって違うが、帝国海軍にではフランス生まれの九六式二五ミリ機銃を採用していた、この銃も五式と同様に多くの艦に搭載されていたが、一部は英米と同様のエリコン機関砲のライセンス生産した九九式二〇ミリ機銃、これを艦載用に改造しベルト給弾とした三号機銃四型を使用していた。
この機銃弾幕を構成するに当たって中核と成っていたのは、「長良」型「川内」型の所謂五五〇〇トン軽巡洋艦の四隻であった。
南シナ海のリアウ門を巡る戦いが続く昭和十八年(一九四三年)、空母機動艦隊の再建に目途が立った頃より問題と成ったのは、機動部隊を護る防空艦の不足であった。
当初は、「秋月」型駆逐艦を中心に防空艦を整備する計画であったが数と能力の両面で不足が懸念された、当時既に一五.五センチ重高角砲搭載の巡洋艦と建造途中の「阿賀野」型軽巡洋艦を米海軍の「アトランタ」級に倣って防空艦として整備する計画は実施に移されていたが、現場からは早急な防空能力の底上げが求められていた。
ここで白羽の矢が立てられたのが、水雷戦隊の嚮導を目的に建造されてきた前述の「五五〇〇トン型軽巡洋艦であった。
これらの艦は、当時既に雷撃戦の可能性が起こり得ない状況に置かれたことで出番が無く、艦隊型駆逐艦と共に慣れない護衛任務に投入されていたが駆逐艦とは違い極度の消耗は免れ計画作成当初時に於いて未だ一〇隻が生き残っていた。
そこで軍令部と艦政本部は、「松」型駆逐艦が戦場へ投入されるタイミングで五五〇〇トン型軽巡洋艦を戦場より引き上げ、防空任務を担当する艦への改装が実施されることとなったのである。
当初、高速航行用の軽巡洋艦の細い艦体へ大量の高角砲の搭載は無理が有り有用性が疑問視された、しかしながら、対応策の端緒を示す事例はあった。
それは、対米戦を想定して改装が行われた「大井」「北上」の事例であった。
当時、既に旧式化していた「球磨」型軽巡洋艦の中から上記の二隻が選ばれ、両舷に張り出しを設けて四連装魚雷発射管を片舷五基・両舷一〇基を搭載した重雷撃艦へと改装していた。
この二艦は艦隊雷撃時の切り札としてその巨大な雷撃能力が期待されたが、クーラ・ルフ帝国との戦争では、艦隊雷撃を行う機会には恵まれず、雷装を撤去して特設の高速輸送艦として使用された。
しかし、その改装の際に主砲の高角砲化と張り出した両舷の魚雷発射管を撤去した後と艦中央に三連装二五ミリ機銃を一二基載せたことで予想外に有力な防空艦となっていた。
これらの事例は応急処置ではあったが、両舷の張り出し部を有効に使えばそこへ当時使用可能と成っていたボフォース四〇ミリ機関砲、後の五式四〇ミ機銃の四連装を魚雷発射管と同様に搭載すれば最終防衛線を守るのに最適な防空艦が出来る可能性があった。
そうした計画から産まれた五五〇〇トン型改装防空軽巡洋艦は、第三航空艦隊ヘも二隻が配備されていた。
「五十鈴」と「那珂」の二隻は迫りくる飛竜群に対して片舷を発砲炎で染めながら、無慈悲なまでに強固な弾幕を形成し、突入を試みていた剛竜二騎を最終的に北海へ叩き込むことに貢献していた。
勿論、機銃による弾幕を形成していたのは四〇ミリ機銃だけでは無かった、むしろそれ以外の機銃の方が多かったであろう。
九六式二五ミリ機銃は、五式四〇ミリ機銃が導入されるまで主力機銃として三連装や連装で装備されることが多かったが、五式導入以降は人力で容易に取り廻せる単装の比重が大きくなっていた。
そして、九九式二〇ミリ三号機銃四型も主に単装で甲板の隙間を埋める様に搭載され、艦隊の最終対空防御力として威力を発揮していた。
機銃の弾幕圏内まで進攻したの飛竜は十五騎、しかしながらその数は『鋼鉄の暴風』を突破するには余りにも少ない数であった。
やがて、各艦の機銃の発砲が疎らに成り最終的には射撃は停止した、電探と目視の双方で敵影が認められなくなったのだ。
戦闘が終結した、と各艦の指揮官たちはそう判断した。
勿論、正式な戦闘停止の命令が出ていない以上警戒と戦闘に臨む姿勢は崩してはいない。
しかし、『これで終わった。』と各艦の乗員たち、地位や階級に関係なくその場に居た多くの人間がそう判断し安堵したのは事実であった。
「樫」の艦長である黒木少佐もそう安堵した一人であった。
「無事に、何とか終わったな。」
彼が安堵の声を漏らした時、突然、「樫」の前方に閃光が走り爆焔と遅れて爆発音が響いてきた。
済みません、完結出来なかったです><。
完結、するする詐欺に成ってしまって申し訳ないですが、次は完結させます。
急いで書いたので誤字脱字が普段より多いかもしれませんが、有りましたら感想の方で一報ください。
次は水曜日か木曜日の予定です。