どく少女
「――でね、アイツったら……」
「マジ? ははは」
耳障りなくらい甲高い女子高生の笑い声が、廊下にこだまする。姿は見えないのに、迷惑な声は鼓膜をビリビリと刺激した。
青春を謳歌しています! と言わんばかりの嬌声は、肩にのしかかるカバンの重さと相まって私を沈み込ませた。
呼吸をするのさえ面倒になってくる。
気だるさを振り払おうと、前髪をかき上げた。それに伴って視界が拓けた。が、次の瞬間には、指を離れた髪の毛が逆襲とばかりに目に侵入してくる。
「ねえ、聞いてる?」
私が目をしばしばさせていると、隣を歩いていた有紗が顔をこちらに突き付けてきた。整った顔が、眉間に寄った皺のせいで台無しだった。
近いなぁとぼんやりと考える。
「……あ、ごめ……」
「ホント最近の菜摘って上の空だよね」
相手が友人であっても、鋭い視線で見据えられると何も言えなくなる。そんな私を見透かしてか有紗は意味深な笑みを浮かべた。
思わず見とれるような、蠱惑的な表情だ。
「ジュース飲みたい」
にこやかに自販機を見つめていた。暗に奢れと言われたのだ。
たかり癖、というほどでもないけれど、有紗はよくお菓子やジュースを欲しがる。相手は同じクラスの男子だったり廊下でかち合った先生だったりと、見境がない。
良くいえば、「物怖じしない性格」なのだろう。
私だって、彼女にねだられると買ってあげてもいいかなと思ってしまう。
きっと、有紗はおねだり上手なのだ。
「……今回だけだよ?」
今日は私が悪かったんだし、と諦め半分で百円硬貨をふたつ手渡した。
「マジ?」
有紗は目を輝かせ、可愛らしいえくぼを作って自販機へと走り出した。その足取りは空を翔けるようで、映画のワンシーンにも見えた。
彼女を繋ぎ止めていた重いカバンは、廊下に置き去りにされている。
「これだから憎めないんだよなぁ、有紗は」
私は苦笑を漏らすと、有紗のカバンを持ち上げる。
同じクラスだから荷物の量も変わらないはず。なのに彼女のカバンは重い。流行りの雑誌や、化粧品のポーチや、その他、有紗を飾り立てる全部が入っているのだから。
二人分の荷物を抱えて、有紗がいる自販機まで駆ける。ちょうど硬貨を入れ終えたタイミングだったので、適当なボタンを押してやった。
ガタンと音を立ててペットボトルが現われ、おつりが吐き出される。
「「あっ……」」
私たちは同時に声を上げた。本当に出てくるなんて思いもしなかった。
有紗が取り出し口から持ち上げたのは、何の変哲もない水だった。様々な風味があるシリーズの中で唯一の、完全無味。本当の水だ。
「ちょっと、菜摘!」
怒った有紗のこぶしが飛んできた。ひょいとかわしながら逃亡を計ったけれど、カバンの重量で動きが鈍る。そこに、蹴りが入った。
「うちは炭酸が飲みたかったの! あの、歯がとろけそうなくらい甘ったるくて、シュワシュワした液体! それをうちの体は欲していたの! なのにお前はっ……!」
親の仇とばかりに、有紗が握りしめた両手をしきりに上下させながら熱弁をふるう。右手の中では、簡単に潰すことができるのがウリのペットボトルが大きく歪んでいた。
「ごめんごめん、有紗があんまりにも悩んでるからつい――」
苦笑いで両手を合わせた私の頭に、拳がひとつ降ってきた。カバンの重さによろめいて、床にへたり込む。
太ももの裏に触れる床は少しざらついていたけれど、冷たくて気持ちが良かった。
「ははは……、菜摘、大丈夫?」
二人分の荷物を抱えて座り込む様子が滑稽だったのだろうか。有紗は怒りも忘れて腹を抱えて笑っていた。
目のふちに溜まった涙を指で拭いながら手を差し伸べてくる。そんな態度が気に食わなくて、差し出された手を無視して立ち上がった。
「ほら、飲む?」
そう言って手渡されたのは、今しがた買ったばかりの、彼女の指の跡が残るペットボトルだった。
――……ああ。
軽く笑い合ってじゃれ合いが終わるのが普通なのだろう。そんな場面で私は、冷めた気分でペットボトルをを見つめてしまった。
これは今回に限ったことではない。そのせいで友人達から気まずい顔をされてしまうこともある。それでも、どうしてもこの癖が直せなかった。
案の定、有紗がつまらなさそうな表情を見せる。
「そのくらいで怒るの?」
――有紗だって人のこと言えないじゃん。
心の底で思いながら、なんとか笑顔を作って水を受け取った。
うっすらと水滴を纏ったペットボトルの形を整えつつ蓋を開ける。
「新しいリアクションに挑戦したんだけどなー。失敗失敗」
飲み口に唇が触れないように気を遣い、水を飲み込む。有紗はまだ不満げだったけれど、無味無臭の水は甘ったるいジュースより体にいい気がした。
校舎から一歩外へ出ると、むせ返るような雨の匂いに包み込まれた。建物の中からでは気が付かなかったけれど、外は結構な雨が降っていたようだ。
水溜りに広がる無数の波紋に、私たちは顔を見合わせた。
「どうしよ……。うち、傘持って来てないよ」
困ったように呟くと、有紗はカバンからスマートフォンを取り出した。そして、当然のように電話をかける。
「――うん、お願い。早く来てね」
言い終えると、有紗はスマートフォンをカバンへしまった。きっと、相手はお母さんだろう。
有紗は甘え上手だから。同じことを自分がやったなら、お説教を食らいこそすれ、迎えに来てもらえることはないだろう。
ずるいなぁと、心の中で漏らした。
「菜摘も乗ってく?」
有紗がこちらの様子を窺うように問いかけてきた。言葉とは裏腹に、はっきりと迷惑だけど仕方ないと顔に書いてあった。
「ん……、や。私、今日チャリだし」
ちりん、と鈴を鳴らしながら自転車の鍵を出して見せる。それを見た有紗は、ふーん、と冷たく言った。
それっきりで、何も言わない。
――……あーあ。強引に誘ってくれるの、期待してたんだけどな。やっぱり社交辞令か。
有紗の反応に落胆を覚える。
いつでもそう。
意地を張って平気な振りをするけど、実は誘って欲しい。ちゃんとそう言えばいいのに、言えない私は独りぼっち。
それでも寂しくない振りをするから、皆も安心して私を独りにする。
「なっちゃんは独りでも大丈夫だから」。
皆は言い訳みたいにそう言う。あたかもすごいことであるかのように言われるから、私も得意になってしまう。
悪循環。わかってるんだけどね、直らないんだよ。
誰に言うでもなく言葉が零れる。
吐息に溶かした声は、放つ傍から雨音に塗り替えられた。
有紗は不思議そうにこちらを見ていた。
そこへ一台の軽自動車が止まった。窓が少しだけ開いて、おばさんの目から上だけが見える。
声を掛けてくれたようだけど、想像以上に雨足が強いせいか言い切る前に窓が閉まった。
名前を呼ばれたような気がした。
半歩足を出しかけて、聞き取れていないのに図々しい真似をするのもな、と自制心が働く。
「じゃ、菜摘、風邪ひかないようにね」
そうしているうちに、有紗は車にそそくさと乗り込んでしまった。おばさんも、私なんていないみたいに車を走らせる。
――ああ……、独りだな。
感傷的な気分に浸りながら、ひさしの外に出た。
屋根の下から眺めていた時よりも確かな存在感をもつ雨粒が、制服をじわじわ侵食する。遠くなった有紗の家の車は、テールライトの赤い光を滲ませて交差点を曲がっていった。
これで私を気にかける人はいなくなったことになる。
気にしなければ降っていないような雨だ、と自分に言い聞かせた。濡れた前髪が額に張り付こうと、ローファーの中で濡れた靴下が気持ち悪かろうと、それは気のせいなのだ。
そうでも思わないと、耐えられない気がした。
雨に濡れるのも構わず駐輪場へ向かう。校舎から百メートルも離れていないのに、雨の雫は頬を伝って流れ落ちた。
「降っていない。気のせい」と繰り返すのも馬鹿らしいほどの降りだ。
「……土砂降りだよ、ばか」
誰かに聞かれやしないかと怯えながら声に出してみる。幸い、この雨の中を歩いている馬鹿は私独りのようだった。
ばか。ばか。ばか。
繰り返すたび、鼻の奥がつんとして視界が滲んだ。
駐輪場では、沢山の自転車が雨に濡れながら主人の帰りを待っていた。その中で、ひと際輝く水色の自転車が目に留まる。
有紗の自転車だ。
ぎりぎり屋根のかからない場所に置かれているせいで、汗ばんだように全体が濡れている。せっかくの新しい自転車が台無しだ。
心臓と肺の間にもやもやとした塊が生まれ、呼吸が苦しくなった。気管を圧迫されるような感覚の中、強制的に深呼吸をする。
――いくら待っても、お前の持ち主は来ないんだよ。お前を置いて帰っちゃったんだ。
寂しげに佇む自転車に、心の中で語りかけた。
無意味なことだというのはわかっていた。そうでもして毒を吐き出さないと、自分の毒に侵されて死んでしまいそうな気がしたのだ。
だから毒を吐いた。
けれど、そのくらいじゃ吐き出しきれないほど私の中の毒は濃く、強くなっていたらしい。中途半端に吐き出した毒のせいで、逆に苦しくなる。
喘ぐように深呼吸をした。
そこへ一人の男子が駆けて来きた。
見覚えはあるけれど、名前は知らない他クラスの生徒だ。
彼は自転車小屋の屋根の下に入るとほっと一息つき、すぐに自転車にまたがる。そして、虚ろに自転車を眺める私を横目で見ると、雨の中へ飛び出していった。
――……そろそろ帰ろっか。
遠ざかって行く彼の背中を見送って我に返った私は、自分の自転車を開錠する。
雨が弱まった隙を窺ってペダルを踏み込んだ。
細かい雨の粒子が顔を打ち付ける。小さな水滴がだんだんと結合して雫となり、肌の上を滑り落ちる。
髪から、あごから、至る所から雫が滴り、タイヤが水溜りを踏む度に大きな飛沫が上がった。
全身が水浸しになるのも構わず、どんどんペダルを踏み込む力を強めていく。ペダルをぐっと踏み込む度にスピードが上がり、心地よい風が私の頬を撫でる。
足元にかかる水さえも心地よく感じた。
眼球に襲いくる雨が鬱陶しくもあったが、それを補って余りあるくらいに爽快な気分だった。
遠回りをして帰りたい。
ふいに、そんな衝動に駆られた。徐々に太腿に疲労が蓄積され、思うようにスピードが出なくなってきているのに、だ。
このまま遠回りをしたら、家まで辿り着けなくなるかも知れない。危険も承知で、いつもは通ることのない細い道へ向けてハンドルを切った。
ぐっと車体を傾けて体重を内側へ寄せる。
自転車は鋭く弧を描いて曲がり、風が私を包み込んだ。
気分が晴れるようだ。
と、足下に衝撃が走り、そのままバランスを崩したのを感じた。
――ペダルが縁石にぶつかったんだ。
理解したときには、私の体は雨に濡れたアスファルトに擦り付けられていた。
「……痛っ」
派手に転んだせいで、買ったばかりの自転車は遥か前方で横倒していた。
カラカラと虚しい音を立ててタイヤが空転している。
自転車を救出すべく立ち上がると、とろとろと歩み寄った。爽快な気分はとうに霧散していた。
近付くにつれ、その惨状が明らかになってくる。
日光を反射して銀色に輝いていたはずの車体は泥水で汚れ、転倒した衝撃でかごは歪に潰れていた。
おまけに、アスファルトに擦った部分は塗装がはげて、細い線状の傷がついている。
こんな時に限って、誰も通りかからない。
誰にも見られていないという意味では、願ってもない事だ。それは同時に、助けてくれる人がいないという事でもある。
独りきりで自転車を立て直すのが、これ程までに惨めで虚しいことなのかと寂しさを感じた。
制服のスカートから雨と泥が混ざった液体が滴る。全身を打ったはずなのに、痛みというものは一切感じなかった。
それよりも遥かに強い羞恥の気持ちに急かされるように、私はそそくさと自転車にまたがりペダルを踏み込んだ。
――うん。問題なく動く。
それだけ確認すると、安堵に胸を撫で下ろす間も惜しんでペダルをこぎ続けた。
自宅に辿り着き、自転車を降りてやっと一息つく。安心したせいか、途端に痛みが襲ってきた。見れば、ひざを大きく擦りむいていた。
傷口は泥で固まり、隙間を縫って雨水に混じった血が流れている。これは痛いはずだ。どうして今まで気付かなかったんだろう。
膨大な嫌悪感だけが私の心に残った。
これ以上傷口を直視したくなかったので、急いで玄関を開ける。
「ただいまぁ」
言いながら鞄をソファに投げ捨て、風呂場へ直行した。
無造作にハイソックスを脱ぐと、スカートが濡れるのも構わずシャワーで足を洗い流した。傷口に熱いお湯がしみる。
反射的に身をよじったせいで、スカートにまでお湯がかかってしまった。もくもくと湯気が上がるのが何だか可笑しくて、久しぶりに声を上げて笑った。
「菜摘、帰ったの?」
母さんの声だった。
口を開きかけた瞬間に、有紗のおばさんの顔が浮かぶ。
喉元に体内の毒素が集結して、声帯を詰まらせた。呼吸すらも苦しい。
「ちょっと、返事くらいしなさいよ」
母さんが風呂場の戸をノックした。声を出したくても出せないのだから仕方ない。
無言を貫けば貫くほど、母さんはうるさくなった。
お望みなら、と無言のまま風呂場の扉を開ける。
私の格好を見た母さんは、びっくりして目を見開いた。間抜けな顔は面白くて堪らないはずなのに、不思議と笑うことが出来なかった。
「あんた……なんて格好で」
母さんが言い終える前に、雫を滴らせながら横をすり抜けて自分の部屋へこもった。
いつもつんと澄ましている母さんが愕然としているのを見るのは初めてだ。娘の行動に目を丸くした様子を思い返して、胸の辺りのもやが粘度を増したきがした。
水浸しの制服が、体に張りついて気持ち悪い。
ストッキングを体から引き剥がすように脱ぐ。いつもより密着していたせいか皮膚がはがれていくようだった。
脱皮ってこんな感じなのかな、と乾いた笑みがこぼれた。
――……タオルがないや。
重大な事実に気付いた時には、私はもう下着姿になっていた。
仕方なく落ちていたTシャツで体を軽く拭く。そのTシャツもあっという間にびしょびしょになってしまった。
濡れた制服の上にTシャツを投げ捨て、タンスから部屋着を取り出した。
ドアを開けると、母さんが雑巾片手に私の垂らした水を拭きながらこちらへ向かってくるところだった。
「菜摘!」
母さんの鋭い声に、開きかけた扉をパタンと閉めた。それでも母さんの声は、扉を突き抜けて襲いかかってくる。
渋々濡れたブラウスとTシャツを片手に部屋を出た。
「風邪引くといけないから、ちゃんと髪は乾かしなさいよ」
母さんの言葉に拍子抜けした私は、間延びした返事を返しながら洗濯機にブラウスを突っ込んだ。
濡れた髪のせいで肩の辺りが湿っていた。けれど、髪に触れてみると乾いているように思える。これだと自然乾燥の方が髪にも優しかろう。
取り出しかけたドライヤーを棚へ戻した。
髪よりも、じくじくと痛む足をどうにかする方が先だ。居間へ戻って絆創膏を探した。
改めて見た傷は、存外に小さかった。問題はその位置だ。
ちょうど膝下の、スカートの裾から見える辺りにあるせいで絆創膏の存在が嫌でも目を引く。
――失敗したな。こんなことになるなら、意地なんて張らないで有紗の家の車に乗せてもらうべきだった。
今更後悔しても遅いのだろうけれど、過去の自分がとても恨めしく思えてくる。
私はいつでもそうだ。素直じゃないせいで、後々になって後悔することばっかり。気がつけば、私の中の毒は今にも溢れ出しそうになっていた。
どうしてこんなに駄目人間なんだろう。
チクリ。毒が私を責める。
毒のもやはドス黒いヘドロとなり、内臓の隙間を埋め尽くしていた。
重い毒の塊のせいで、いつもの半分しか空気が吸い込めない。
自分に対する苛立ちを視線に乗せると、ため息とともにそれを窓の外へ投げやった。
睨みつけた窓の外は、さっきまでの土砂降りが嘘みたいに綺麗な夕焼けに染まっていた。上空にはうっすらと虹もかかっている。
――ばかみたい。
不意に、そう思った。
学校ではしゃぎあった時間も、その後の白けた空気も、あの雨の中を帰ってきたことも、膝の傷も、今この瞬間の苛立ちでさえも。全部が全部、馬鹿らしい。
全てをあざ笑うかのような夕陽の赤に、脱力してしまった。そのままソファに倒れこむ。
見上げた真っ白な天井は、一瞬にして虚無感に埋め尽くされた。
私が何を考えようと、どんなに悩もうと、皆には関係ない。
世界には、こんなに日常が溢れてる。
――……制服、干さなくちゃいけないな。明日もまた学校があるんだっけ。
ゆっくりと体を起こし、夕焼けにかかる虹を私はしばし呆然と見つめた。瞳を閉じ、深呼吸をする。
息を吐き終えて細く目を開くと、心なしか視界がクリアになっていた。声も、普段通りに出せそうだ。
私を苦しめた毒はじんわりと溶けて血液とともに全身を循環しはじめている。
日常は、ぬるま湯のように私を包み込んでいった。