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「うーん……」
「タカ、めずらしいわね。あなたがお使い以外で本屋に来るなんて」
本屋の棚の前でうんうん唸っていると、見かねた店主のおばさんが声をかけてきた。この本屋は主に古書を取り扱っていて、先生に頼まれた本を探しに来たり、またおばさんに手に入ったら教えてくれるよう頼みに来たりと、しばしば利用している。
が、今日はそういった類の用件で来ているのではない。
「おばさん……いや、ちょっとほら、たまにはね。そういうこともあるって」
「上の方の本に手が届かないってんなら、あっちに踏み台があるよ」
おばさんはカウンターに頬杖をついたまま、反対の手であっち、と指差した。
失敬な。確かに僕はまだ背がそんなに高くないが、今が成長期なのだ。これから伸びるのだ。
「大丈夫……ただどの本を買おうか、少し考えているだけだから」
「そう? そんならいいんだけど。あんたとこはお得意だし、本を買ってくれるってんなら大歓迎さ」
そう言うとおばさんは、カウンターの下から新聞を取り出して読み始めた。僕はもう一度本棚に向き直り、背の高いそれを見上げる。
今日は、先生は丸一日魔導院にこもり切りの日だ。朝のうちに弁当を作って渡してあるから、家事一切が終わってしまえば、夕方まで僕は自由に過ごして良い。
ここ数日、僕は夜に自室に戻ってから、先生の部屋から失敬した本を読んでいた。いや、読んでいたというとすこし語弊がある。読もうとして、読めずにいたのだ。
先生は先生の先生からあの本を、入門書として受け取ったそうだったが、はっきり言って僕には難しすぎた。
原因を僕なりに考えてみたところ、魔法による現象や魔法を行使する瞬間を、僕は先生が幼い頃ほど、注意深く、そして繰り返しは見ていない、ということに気づいた。
僕は従者。弟子ではない。先生は、弟子は取らないことにしているようだった。もちろん魔導院に在籍している以上、生徒に対して授業をすることはある。しかし、誰か一人を自分の弟子として、つきっきりで教育してはいない。理由は知らないが、大方、後進の教育より自分の研究に没頭したいのだろう。そのために日常生活の一切を僕に任せているのだし。
従者は、生活の手伝いをする。弟子は、もちろんそういうこともするにはするのだろうが、基本的には魔法の勉強をするために、先生に付き従うものだ。
その溝は大きく、深い。
それを埋めるところから始めないといけないということに気づいた僕は、入門書よりも更に易しい書物を求めて、この本屋に足を運んだというわけだ。
一応、それらしい本を集めた一角はあった。しかし、どの本もやはり、僕が今読もうとしているものと同様であった。わからないことが多すぎる。
店の外から、鐘の音が聞こえてきた。そろそろ、食料の買い物に向かおう。
「おばさん、また来るよ」
「あいよ。いつでもおいで」
おばさんに声をかけて、店を出る。そして、落胆のため息をひとつ。
――ないもんだなあ。
落ち込んでいてもしょうがない、気長に探す他はないのだ。さて、あとは仕事だ。僕は急ぎ足で、いつもの食料品店に向かった。
※
夜。
「それじゃあ先生、おやすみなさい」
「おやすみ、タカ。……あ、そうそう。最近遅くまで起きてるようだけど、ほどほどにするのよ? あなた朝早くから起きてるんだから、しっかり寝ないと」
「あ、はは……気づいてたんですか。すみません」
「私はもともと夜中まで起きてることが多いから。でも、珍しいわね。何か本でも読んでるの?」
僕は答えに窮した。
魔法に興味が出てきて勉強をし始めたものの早速躓いている、というのは、なんとなく格好悪い気がする。それに、その本も先生の部屋から勝手に拝借したものだ。
「ま、まあそんなところです……それじゃ」
ぼろが出る前に、急いで部屋へ。
短くなったろうそくに火を灯し、本を開く。もう一度、最初から読んでみよう。最初の何ページかは読めたはずだ。繰り返し、挑むしかない。
ページを捲り、最初の一文から――。
どれくらい時間が経ったのだろう。
肩をゆすられて、僕は目を覚ました。いけない、机に向かったままで寝てしまったらしい。ろうそくの火はとっくに消えている。
「――風邪をひくわよ、タカ」
「せ、先生……」
僕の後ろに立ち、両肩に手を乗せて、彼女は優しくそう言った。
「その本、入門だけど、あなたにはまだ少し難しいんじゃないかしら?」
痛いところを全部同時に突かれて、僕は押し黙った。
「――ねえタカ。私の明日の予定は?」
「……朝、魔導院で会議があります。午後は空いています」
「そう。それじゃ、明日の午後は私に付き合ってちょうだい。ね、いいでしょ?」
楽しげに彼女は問う。付き合うも何も、どうせどこへ行くにも僕はくっついて行くのだが。それが仕事だから。
「……はい、わかりました」
答えると先生は、うんうん、と嬉しそうにうなずいた。
「それじゃ、今日はもう寝たほうがいいわ。おやすみなさい、タカ」
先生の両手がそっと離れる。僕は振り向かないままでいた。背後でドアが、ぱたんと優しく閉まった。
※
翌日午後。先生のやや後ろをついて、魔導院の廊下を行く。
魔導院の中でも、先生が行くのはだいたい自分に割り当てられた部屋と、そこからほど近い講堂、それから会議室くらいなものだ。流石に毎日通う魔導院の内部構造くらいは、いい加減覚えてくれているらしい。僕が案内しなくても、すいすいと歩いて行く。
階段を降り、地下へ。壁に埋め込まれた石にはどれも紋様が刻まれていて、それらが淡い光を放って足元を照らす。
「さあ、ついたわ」
先生が扉を押し開ける。
入ってすぐのところには、いくらかの机と椅子が置かれている。その奥に並ぶのは、本棚、本棚、本棚――。街の本屋なんか比較にならないくらいたくさんの本棚が並び、それら全てにびっしりと分厚い本が収められている。
「ここは――?」
「魔導院の書庫よ。誰でも、ここにある本を読んでいいの。借りることが出来るのは、魔導院の生徒か先生だけなんだけど、あなたでも、ここに来て本を読むことは出来るわ」
こんなに沢山の本を一度に見るのは、初めての事だった。
「――大半が専門書だけど、入門者用の本を集めた棚もあるわ。魔法に関するあらゆる文献を収集するのがここの役目だから、きっとあなたが読むべき入門の本も、きっとここにはあるわ」
僕はというと、圧倒されて声も出なかった。生徒と思しき幾人かが、分厚い魔導書を捲っている。本を選んでいる姿も見られる。
「だから、あなたはいつでも、ここに来て、魔法を勉強していいの。そのかわり、夜更かしはなるべく減らすのよ?」
先生は僕を見てにっこりした。
「――ありがとう、ございます」
先生はまだ遠い。先生から借りた本も、まだまだ僕には全然遠かった。でも、ここにはもしかしたら、僕にとって近い本があるかもしれない。まずはそこを目指すんだ。それを探して、読んで、そしていつかは。
「さあ、私はここで探しものをしてくるわ。あなたも、そうしたら?」
「はい。そうします」
こうして僕は、魔法を学ぶ道へ、ようやく一歩を踏み出した――。
お題は「近い本」、必須要素はなし、 制限時間は1時間でした。