9話
「初代勇者様は、聖女様、魔導師様、剣聖様、拳聖様とご一緒に王都を発たれ、その圧倒的な強さで、カーミネの街を襲撃する魔族を打ち倒されました。その際、勇者様は、剣聖様と拳聖様に左右から魔族を追うように指示を出され、追い詰められた魔族を勇者様と魔導師様で仕留められ、結果、カーミネの街の被害を最小限に留めることに成功しました。このことから分かるように、初代勇者様は、軍略にも秀でていらっしゃったことが分かります。カーミネの街には、この時の勇者様の雄姿を模った彫像が置かれているのは有名ですね。次に・・・。」
二時間目の勇者史に余裕で間に合い、マティルダと二人並んで、後ろの方の席に腰掛けた。背の低い老年の教師が少し熱い口調で、初代勇者様の偉業を語っている。
この授業はリリティアが通う一般教養学課では選択授業なのだが、マティルダが通う魔法課では、必須科目らしい。しかも、マルティダにしては珍しくこの授業が苦手のようで、他の授業では姿勢正しく凛としているのに、この授業中は俯きがちだ。
「・・マティルダ、大丈夫?」
マティルダが俯いたまま、肩を小さく震えさせているのに気づく。小声で声を掛けると、大丈夫という返事の代わりなのだろう。マティルダの手がリリティアの太ももを軽く二度叩いた。
この授業中、度々起こる現象なのだが、マティルダはよっぽどこの授業が苦手なのだろう。本人の口からも、そう聞いている。しかし、定期試験では、満点を叩き出したりするのだから、さすがというか。リリティアはマティルダを心配しつつも、授業に意識を戻した。
「大丈夫?マティルダ?」
授業が終わりもう一度尋ねると、マティルダは自分自身を落ち着かせるように深呼吸してから、ゆっくり頷いた。何故か消耗しているように見えるし、目元も少し赤いような。
「大丈夫ですわ。この授業がちょっとだけ苦手なだけですの。」
「・・そう?」
「それより、次の授業に遅れますわよ。ほら、皆様が待っていてよ。」
促されて、仕方なくマティルダと別れた。次の授業は、マティルダとは別々の教室で授業を受けることになっている。
「心配しなくても、大丈夫ですわよ。ちゃんと手は打ってありますの。」
「え?」
「ほら、急いで。」
別れ際に、小さく囁かれた言葉の意味を問いただしたくても、マティルダに答えるつもりはないらしい。彼女の雰囲気で悟ってしまい、リリティアは大人しく他の学友たちの輪に加わって、移動を開始するしかなかった。
ちらりと振り返ると、小さく手を振ってくれた。リリティアもそっと振りかえす。令嬢の挨拶としては、庶民的すぎる挨拶。慣れなくて、なんとなく気恥ずかしい。
それから数日間は何事もなく、日々が過ぎていった。心配していたアルフレートからの接触もなく、穏やかな日々だ。
時々、アルフレートの視線を感じることもあったが、彼は彼で、友人に囲まれているので、話しかけられることもなかった。文化祭実行委員にも、あの日以来、エドルドが姿を見せることもなく、このまま何事もなく過ごせたらいいのにと思わずにいられなかった。
「もうそろそろ、本格的に文化祭の準備が始まりますわね。」
少し弾んだ声に顔を向けると、ユリアがふんわりと微笑んだ。文化祭実行委員会の帰り道。夕日が差し込む校内をユリアと二人、並んで帰っていた。鞄をもって、委員会に参加したので、教室には寄らず真っ直ぐ校門へと向かう。
「楽しみですわね。去年は、慣れないことばかりで、心の底から楽しむ余裕もなかったように思いますもの。」
「そうですね。入学してそんなに経たない時期にありますから。」
「去年の実行委員さんは大変でしたでしょうね。」
「そうですね。先輩方が助けてくださるとはいえ、傍から拝見していても大変そうでしたわ。でも、その分、楽しそうでもありましたけど。」
何気ない会話を楽しみながら進んでいると、少し先の廊下に男の子が現れた。階段を急いで上がって来たのだろう、支えを求めて片手を壁につく。
焦りがこちらにも伝わるほど動揺しているのが伺える。幼さが残る薄茶色の髪の男の子。1年生だろう。
彼が縋るような目を上げるのと、隣のユリアが小さく声を上げるのは、ほぼ同時だった。
「・・あっ。」
「ユリア先輩!!」
ユリアを見つけるとすぐさま駆け寄ってくる。ふわふわの茶髪が子犬のようだ。
「どうしましたの?」
「大変なんです!部長が・・!とにかく、早く来てください!」
ユリアの手を取って、今すぐにでも駆け出しそうな後輩にユリアは戸惑った表情を浮かべる。
「待って・・。でも・・。」
ユリアは困った表情で、後輩とリリティアを見比べた。その意図を察してリリティアは慌てて挨拶をする。
「ユリア様。私は、ここで失礼させて頂きますね。また明日、教室で。ごきげんよう。」
「リリティア様!ですが、もうすぐ日も暮れる時間帯ですし、お一人にするわけには・・。」
「大丈夫ですわ。ここは学院内ですし、心配いりません。」
「・・えっと、いえ、そういう事ではないのですが・・・。」
戸惑うように呟かれた小さな声は、リリティアの耳には届かなかった。自分が離れないと、ユリアが動きそうにないと思い、リリティアは急いで二人から距離を取る。背後で何事かやり取りした後、二人は部室のほうへ向かったようだ。
リリティアはほっと安堵のため息を付く。ユリアはとても友達思いで、以前も顔色が悪いリリティアを馬車停まりまで送ってくれた。
部活よりもリリティアを優先してくれたのだ。先程も、リリティアと後輩の間で躊躇する仕草が窺えた。動揺している後輩と、健康そのもののリリティアでは、比べるべくもないのに。
ユリアが優しいのは重々承知しているが、迷惑は掛けたくない。捨てられた子犬のように頼りなげな表情を浮かべた後輩のためにも。
(・・・そう言えば、1人で校内を歩くのは久しぶり。)
普段から友人と行動を共にすることが多いリリティアだが、最近は全くと言っていいほど一人になることがなかった。アイリスとのランチデート(アイリス命名)も続いているが、最近はその行き帰りにユリアたち管弦楽部の面々が加わっている。文化祭で舞台発表をするため、自主的に練習量を増やしているらしい。
授業はとっくに終わっているが、部活をしている生徒たちの大半はまだ校内に残っているようだ。廊下に人の姿はほとんど見えないのに、なんとなく人の気配が感じられる。綺麗な夕焼けに染まる校舎も相まって、なんとなく切ないような温かい気持ちになる。
・・・・・だから。油断していたのだろう。
後から省みれば、それはもう油断と表現するしかなかった。ユリアと別れて一人になるということは、自ら危険度を高めているようなものだ。丸腰で魔の森に足を踏み入れると同義であると気づいた時には、それこそ後の祭りである。
階段を下りて玄関口に向かっていたリリティアは、正面に藍の色を見つけて足を止めた。青のチェックの制服をさらりと着こなし、柱に背を預ける体勢は少々行儀が悪いのに、どこか気品を感じさせる。夕日に照らされた真面目な横顔は、とても綺麗で、そこだけ時が止まっているように見えた。
差し込む夕日は、彼の輪郭を曖昧にして、まるで一枚の絵画のよう。目が吸い寄せられて、離せない。
それに、何故だろう、胸が痛い?
時間にして、きっと数秒間。永遠に続くような呪縛は、彼が身じろぎした瞬間にあっさりと解かれた。