幕間-Maeror of Bestia
「……はぁ、はっ、はぁはぁ……!」
ウィーティスの町・近郊。
光の少ない闇夜の中、ひとりの童女は息を荒げながらも、一心不乱に荒野を駆ける。
少しでも早く、自分が標的としていたあの黒髪の子供から離れたいが為に。
──なんで。どうして。
──わからない。わからない。
童女は思考するが、判然とせず全くまとまらない。混乱を抱えたまま、童女は足を動かして本能に従って逃げ続ける。
童女のココロが揺れる……。
【殺せ】
「──ッ」
逃げ続けていると。
突然、自分の内側から逃れようのない黒い意思が語りかけてきた。
その声は自分自身の心が発した声だった。
【逃げるな】【殺せ】
【標的を殺せ】
【殺せ】【殺せ】【殺せ】
自分の声が脳裏に響くたび、童女の理性はグラついて、焦燥感が募っていく。
思わずこのまま足を止めて、走ってきた道を引き返したくなる衝動が湧き上がってくる。
あの黒髪の子供を殺さなければ……と、名状し難い観念が押し寄せる。
だが童女の本能は、早く逃げろとばかりに無理やり自分の身体を動かし続けていく。
本能と感情とがせめぎ合う。
そうして更に童女の思考が散り散りに乱れていった。
童女の表情は変わらない。
お人形の様な無表情を浮かべたまま、その内側だけが、嵐の様に荒れ狂っていた。
童女のココロが更に、揺れる……。
童女は──奴隷であり暗殺者だ。
主人の命令に従い、ただ標的を殺していくのが務めである。
務めを果たせなければ処分される。
だからこそ、生きる為には務めを果たさなければいけない。
自分が生き続けるには、他人を殺すしか道はないのだから。
何としても、自分は生き続けなければならない。それが亡き父との約束。
だから情けや容赦はかけない。
それは今回の任務にしてもそうだった。
標的が幼い子供でも、童女には油断どころか、容赦すら一欠片も無かった。
生きる為に、全力で務めを果たそうと行動したのだ。
候都で捕捉してからは、気づかれない様に密やかに後を追い。
観察に徹し、絶好の機を伺った。
そして、万全の状況で武器を振るった。
──なのに、任務は失敗した。
理由はわからない。
気がつけば、自分は首を絞められ殺される寸前で。そこからは無我夢中で逃げ出して、今へと至るのだから。
こんな事は今まで一度もなかった。
いつも通りであれば、既に務めを果たして帰路についている頃だ。
童女自身、どうしてこうなったのか理解が及ばない。
童女は理解できない事態に恐ろしさを感じる。そして、そんな恐ろしさを感じている自分の事がもっと理解できない。
今は感情が揺らがない筈なのに、揺らいでしまっているのを自分自身が気づいている。
それが何もより恐ろしかった。
「──はっ、はっ………はっ、……はっ」
不規則になりかける呼吸を、精一杯意識して整えるよう努める。
既に童女には精神的な余裕はなかった。
童女のココロが大きく揺れる……。
走り続けて暫く。
荒野を抜けて、小さな森の中ほどまで来たところで、童女は精神的にも肉体的にも限界がきて足を止めた。
自分の内側からの声は絶えず響いている。
しかし、一旦足を止めて落ち着くと。
その自分の声とは別のモノまでもが、間を縫う様にして溢れてきた。そう、それは追い詰められた獲物に追撃をかけるかの様に。
溢れてくるのは、怨嗟の声。
自分がこれまで殺してきた者達の声だ。
殺された亡者達が、虚ろな目で自分を見つめてくる光景が脳裏に流れていく。
恨みがましい目。苦しみにまみれた目。
激しい怒りを浮かべた目。
涙ながらに助けを求める目。
あらゆる亡者の眼差しを受け、童女は手をかけた時の光景を明確に追想させられる。
吐き気を催す血の匂いが鼻を突き。
死の間際の絶叫が耳に刺さる。
人を切る時の嫌な感触が鮮明に蘇る。
「…………ぁ、ぁぁ……」
気づけば童女は全身を震わせて蹲うずくまっていた。自分の内からは消えない亡者の囁きが聞こえ続ける。
……この、人殺し……絶対に許さな……
……お前が死ねば……化けも……
……助けて、助け……なんで、殺……
……酷い、嫌だ……苦しい、苦し……
……痛い、痛……死にたく、な……
「…………ぁ、ぁぁあぁあぁ!」
耳を塞いでも、目を瞑っても消えない囁きや虚ろな瞳に、心が盛大に悲鳴をあげる。
童女は耐えきれず、反射的に自分の腰の辺りへと手を伸ばした。
そこには、常日頃から使っている支給品が取り付けてあるのだ。
それを使えば、この苦しみから逃れられると、童女は知っている。
だが、伸ばした手は無情にも空を切った。
「──ッ!?」
まさかの手応えに驚愕を浮かべ、次いで愕然とする。
腰にはあるべき物が無かった。
童女はしばしの空白の後、状況を把握すると、今までの無表情を嘘みたいに剥がれ落とし、焦燥を露わにする。
「……ぁ、ぇ、……なぃ、なん、で……。な、いっ。ない、ないないッ、なんで、なん、でっ……ぁぁあぁァァ!!」
鬼気迫る叫びをあげながら、童女は蹲ったまま頭を抱える。
今まで表面上では取り繕えていた冷静さは完全に消え失せ。
童女は自分の感情に翻弄されていた。
童女の任務に個人の感情は不必要だ。
感情を制御出来なければ、それだけ任務に支障が出る可能性が高まり、いずれは死に直結するミスを犯すから。
しかし、そうはいっても童女は幼い。
感情の制御なんて上手く出来ない。
その為、童女は自分の上役の者からとある薬を支給されていた。
それは心の揺らぎを消す便利な薬。
あらゆる感情、恐怖心や罪悪心から無駄な思考までも無くす薬だ。無心で務めを果たすには、うってつけの代物であった。
今日に至るまでの任務では、童女は常にこの薬を持ち歩き、定期的に服用しながら務めを果たして生きながらえてきた。
支給品のおかげで生きていられると言っても過言ではない。この薬は最早、童女にとってなくてはならない必需品なのだ。
それが、あるべき場所にない。
童女は取り乱す。
錯乱するのも時間の問題だった。
今も童女の内側からは、黒い意思と亡者の囁きが二つとも聞こえ続けているのだから。
──辛い。苦しい。誰か助けて。
そう童女は身の内で必死に懇願する。
でも、懇願した所で助けがこないのは自分が一番知っている。
そんな、現実を思い童女は嘆く。
額を地面にこすりつける様にして蹲り、ひとり静かに涙を流す。
【殺せ】【標的を殺せ】【殺せ】
……ユルサナイ……ナンデコンナ……
……イタイ……コロサナイデ……
【早く殺せ】【殺せ】【殺せ】
……オネガイ、タスケ……イヤ……
……ナンデ、コンナ……アぁぁ……
「……う……うぅっ。ぐすっ。ぁぁ……」
真夜中の森の中で蹲って泣き続ける童女。
かなり憔悴していて、動く気力もない様子だ。
しかし、この場は安全とはいえない場所。
いや、むしろ危険ともいえる場所だ。
何時までも座り込んではいられない。
先程から大声をあげて無防備な姿をさらし続けている童女は、森の暴力者達からすれば最高の獲物に見えている。
その証明として既に童女の周りには、いくつかの影が近づいているのだから。
「………………」
染み付いた危機感知能力から、童女はピクッと反応すると、ゆらりと立ち上がった。
童女の泣き声もピタッと止んだ。
立ち上がった童女は俯き気味の自然体。
ただ童女の瞳には、まったく活力が見られず、底の見えない闇だけが広がっていた。
童女はか細い声で呟く。
それは自分と対話するかの様な、とても小さな声量だった。
「……ころ、す? な、にを……? ひょうてき、……ぁ、そう、か……標、的……。ううん、コロス。コロサ、ナイ……コロス。 ひょうてき……てき? 敵を……殺、す?」
ひとしきり唸っていたら、丁度草むらから大型の魔物が顔を覗かせる。
童女は現れた魔物──パンツァベアに一度視線を向けると。
「……アハッ♡」
薄く笑って濃密すぎる殺気を解き放った。
そして、後先を考えずに全力で魔力を纏うと、自分の内側から響き続ける意志に従って……敵を殺す為に飛び込んでいった。
童女のココロは振り切れる……。




