"ᚾ"
03:『ᚾ』
彼は不自由だった。
どうしようもなく不自由だった。
縛られ、囚われ、閉じ込められる。
雁字搦めの拘束、見えない束縛が続く。
終わりない地獄の日々。
毎日が変わらない負の世界。
悪の影が支配する絶対空間。
この影こそが、唯一であり絶対。
毎日は耐えるだけ。
飢えに耐え、渇きに耐え。
痛みに耐え、悪意に耐え。
己の感情に耐える。
忍耐、忍耐、ひたすら忍耐。
彼にはそうする事しか許されない。
他には何もさせてもらえない。
自由に動くことも許されない。
勝手に喋ることも許されない。
涙を流すことも許されない。
大声で喚くことも許されない。
苦痛に顔を歪めることも許されない。
自分の意思を持つことさえ許されない。
その全てを奪われてしまったのだ。
囚われの生活は、彼から人として必要な機能を次々と奪う。
影は徹底していた。
生かさず、殺さず。
逃げる気が起こらない様に上手く壊す。
しかし、自分に対して負の感情を確実に抱かせる為、罵倒し打擲する。
燻る様に悪感情を煮詰めさせる。
より濃度の高い強烈な悪意を自分へと向けさせる為に……。
そうして影は栄華を極めた。
あらゆる事が上手くいく。
なんだって出来る。
止められるものはどこにもない。
人生の障害が消えていく。
影に都合のいい優しい世界。
その全能感に酔いしれる。
比例して彼の扱いは苛烈となる。
雁字搦めの彼が不憫でならない。
囚われの彼は生まれながらの強者だ。
影では到底及びもつかない程の強者だ。
肉体が強いのではない。
心の強さが人の規格から外れている。
正しく育てば簡単に勇者になれる適正。
あらゆる困難、あらゆる苦痛。
この世に存在するあらゆる悪意。
その全てに挫けず、跳ね返せる精神性を、彼は生まれつきに備えている。
加えて、やろうと思えば何でも出来る才能だって備えていた。
普通に育てば、ありふれた幸せに包まれた人生を、多少なりとも満喫できただろう。
でも、彼は幼かった。
肉体も精神も幼い無垢な子供。
白よりも白い純白な心は、影からすれば酷く染めやすかった。
それこそ、影の命令をすかさず実行できる様に洗脳することすら。
影の所為で彼は適正を悪い方に傾かせた。
強い精神が自分を縛る楔に成り替わる。
絶望したくても絶望できない。
狂いたくても狂えない。
死にたくても死ねない。
そんな負の連鎖に囚われてしまった。
それに彼は気づけていない。
いや、気づくより先に気づけない様にされてしまった……。
影が命じるのは一つのみ。
いつもたった一つだった。
一言──『憎め』
たった、それだけ。
彼は憎悪を抱き続ける事のみを許された。
常に怒りを持ち続けるのは難しい。
普通なら心が疲弊し憔悴し感情が薄れる。
だが、彼の強さは不可能を可能にする。
毎日毎日、影を想い強烈な憎悪を向ける。
負荷の強い感情を抱き続ければ、当然心が悲鳴をあげる。
彼はそれすら耐え忍ぶ。
そして、ただただ静かに強く憎悪した。
彼の世界は、この閉じた負の世界だけ。
ここで一生を束縛されて生きていくのだ。
死ぬ事も、まともに生きる事も出来ない。
影を照らし出す舞台装置。
影が君臨し続ける限りそれは変わらない。
だから、この先もそうなる筈だった。
しかし。
変わってはならない世界に転機が訪れた。
それは本当に小さな出来事だった。
──ある日。
閉じた世界に影以外の存在が現れた。
現れたのは小さな光。
小さな光は、あろう事か彼に優しさを与えてしまった。好奇心からくる無自覚の優しさだった。
彼は戸惑った。
心を縛っていた束縛の鎖が軋む。
負の世界に亀裂が走る。
優しさは瞬時に心へ染み込んでしまう。
悪意を解くきっかけとなる。
生来の心の強さが、ゆっくりと精神を正常に導いてしまう。
それを知らず、小さな光は彼に優しさを与え続けてしまう。
彼の精神の正常化は更に進み、小さな光に対して感情を見せられる程にまでになる。
そして、ついに小さな光は禁忌の扉を開いてしまった。
無垢な彼は小さな光に感謝の念を覚えた。
それは純粋な好意。
敵意、害意、悪意、名前はどうあれ、そんな負の感情に晒され続けていた彼には、この優しさは劇的すぎたのだ。
小さな光を好ましく想う──善の感情。
彼は小さな光に笑顔を向けた。
表情はぎこちなく伝わりにくかったが、彼の心は確かな熱を放っていた。
その日──。
小さな光の自覚なき善意によって、全てが終わりを迎えることとなる。
まず、小さな光が消えた。
そして、影は破滅した。
影を支えていた存在も消えた。
影に恭順し甘い汁を啜っていた存在達も全てが消えた。
凡ゆる災厄が小さな光を中心に襲いかかった。影はそれに巻き込まれた。
影に都合の良すぎた世界は、手のひらを返した様に猛威を振るった。
影が巻き込まれる事は確定された必然。
逃れようがない運命。
そうして小さな光諸共、影の栄華は崩壊し、影自身も消えることになった。
絶対的だった悪の影はもういない。
好意を向けた小さな光もいない。
なんとも呆気ない幕引き。
たった一つの予想外によって、全てがあっという間に消え失せてしまった。
結局。
取り残されたのは彼だけだった。
やはり、彼だけだった。
彼は一年も経たずして元の場所へと戻ることになった。彼は忌み嫌われしもの。全く歓迎はされない。
その場の空気は最悪となる。むしろ、この出来事で更に忌避感が激化したといえよう。
彼に近づく存在は誰一人としていなかった。
誰もいない。誰も。誰も……。
彼はたった一人だ。一人きりだ。
彼に孤独感が襲いかかる。
孤独。
孤独、孤独。
孤独、孤独、孤独。
孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独孤独
彼の感情を占めたのは凄絶な孤独感と、決して無くならない喪失感だった。
彼はこんな気持ちを抱くくらいなら、まだあの束縛の生活をしていた方がマシだと思った。
何せ一人ではないのだ。
憎悪を向けられる人がいる。
彼の事を見てくれる人がいる。
つまり、一人ではない。
それだけでも十分だと。
彼には、自分が人として見られなくても、道具の様に扱われても構わないのだろう。
一人でいるよりは何倍もマシだ、と。
帰ってきた彼は人形のようだった。
何故なら、元の状態に戻りかけていた精神を、彼は自らの意思で歪めたのだから。
もう、自分の側から人が消えるのは耐えられない。もう、一人は耐えられない。
あれだけ忍耐強かった彼は驚くほどあっさり根をあげた。一人でいても何も感じないように心を捻じ曲げた。
感情は限りなく希薄に。
強い意思は持たない。
だが、幼心に彼は死を恐れた。
だから無感情でも死なないように、生存本能だけは残した。
嫌な記憶も、大切な記憶も要らない。
感情を揺さぶる要素は何も何も何も。
全部全部、壊れてしまえ。
彼は、記憶を自ら絶った。
この時、彼は人ではなくなってしまった。
常識の枠から逸脱した化物となって。
彼は家族が欲しかっただけなのに。
この世界はそれを許さない。
手の届かない見えざる悪意の集合体。
ただ、愛されたかっただけ。
ただ、欠けたものを埋めたかっただけ。
ただ、幸せになりたかっただけ。
その全てが全て、手に入らない。
足掻けば足掻くほど真逆の結果に繋がる。
元来、彼にとっては息苦しい世界。
それなのに彼を弄び嘲笑い、更に苦しみを味あわせる。彼にとっての生きる楽しみを悉く奪い尽くしていく。
あぁ、なんて残酷なのか。
これは──『ᚾ』
束縛の世界と心の欠乏のお話。
幼き彼が心を無くした化け物に成り、自らの幸せを諦めてしまった日の出来事である。




