追憶。幼き少女の儚き願い
「……ぁ、……はぁ、ぅ……っ」
──あれから。あれから、いったい。
──どれほどの時が過ぎたのだろう。
──半刻? 一時? 半日? 一日?
──わからない。
時間の感覚はとうに失われている。
あれから無我夢中で戦い続けたのだ。
すでに限界は振り切れている。
視界は赤く染まり、歪んで使い物にならない。
耳は聞こえない筈なのに耳鳴りだけが止まらない。
声を発する事はおろか、呼吸も儘ならない。
血を失い過ぎたのか、全身が痺れて動かせない。
魔力、体力はすでに尽きて、感じ取れる生命力もあと僅か。
──でも。
──それでも。
『ニーナは生きていた』
(ふふ、まさか私がこんなにしぶといとは思わなかったわ──でも、これまで、ね)
更地と化した森林。
いまや緑豊かだった頃を想像するのが難しいほど、荒れてしまっている。
そんな場所からほど近く。
僅かに残された林藪の中、折れて幹だけとなった大樹へと寄りかかりながらも、儚く笑うニーナの姿があった。
ニーナの周りには精霊が揺蕩う。
その姿には以前シャルの前で見せた輝きはない。
当然だ。エネルギー源である主、ニーナの『力』がもう枯渇寸前なのだから。
精霊はもう戦うことが出来ない。
現状では、ニーナの『目』や『耳』など、知覚の代用をするので精一杯である。
それ以上の行使をすれば、間違いなく命を落とすのをニーナは理解していた。
とはいえ、そんな命令を与えずとも、遠くないうちに自分は命を散らすだろう。
ニーナは精霊を通した視覚で藪の外を見ると、小さく溜息が漏れた。そこには、一匹の獣がゆっくりと着実にニーナへと迫っている。
オルトラ。
ニーナが命を賭してこの場に繋ぎ止めている魔物。自分には過ぎたる相手。
十全で戦っても勝てる見込みがない相手。
そんな規格外の化け物が、これまでの戦いの疲れなど微塵も感じさせずに、ニーナへと一直線で迫って来ていた。
これでは助かる見込みが欠片もない。
さながら心境は死刑を待つ罪人。
(私はしっかり役割を果たせたのかしら……悔しい。アルルのところに戻るって、そう決めていたのに。また、また私は自分の信念を貫けなかったッ)
悔しさから手を握りしめようとするも、痺れて手を握ることすらできない。
そんな自分に、ニーナは情けなさやら虚しさやらで一杯になった。
オルトラが歩くたび、断続的に地響きが伝わってくる。その振動を受けてニーナは、オルトラが自分の位置を分かっているのだと確信する。
では何故。オルトラは今すぐ走って襲い掛からず、悠々と歩いているのか?
それは強者ゆえの傲慢か。
はたまた、ただの気まぐれか。
そんなものを考えても分かる筈がない。
相手は人ではなく魔物なのだから。
しかし、どんな理由であろうとも、あと僅かであの魔物に命を摘み取られる。
死が刻々と迫る。
しかして、ニーナは。
目の前の魔物など気にもせず、精霊を通して見える色彩がない世界のなかで。
ただ一つ。自分の半生を想っていた。
そう、それは今際の際にみる走馬灯のように──
◾︎◽︎◾︎
──数年前。
ニーナは育ての親とも呼べる女性、プルトーネ・ヘーゲルフォイアに拾われた。
その場所はパニシュ森林など及びもつかない、深い深い樹海の最奥でのことだった。
何故そんな場所に居るのか全く思い出せず、長い間思考を空転させていたニーナに、プルトーネは優しく頭を撫でて、その手を差し伸べてくれた。
不思議な雰囲気のプルトーネに、興味を持ち自然と惹かれて、ニーナは付いていくことを決めた。
それからは、母であり師となったプルトーネと共に各地を渡り歩いた。
旅の最中、ニーナは様々なことを教えてもらった。プルトーネは凄腕の冒険者だった。
自由奔放で常識破りな人物ではあったが、誰かを守るために戦う時の姿は、とても眩しく、そして美しく映った。
ニーナがプルトーネに憧れて冒険者になりたいと思うのは、ある意味必然であった。
乗り気でないプルトーネに根気よく頼み込み、冒険者のイロハを教えてもらった。
しかし、運動は不得意で簡単な武術さえも儘ならず、何故か魔法さえ全く使えない事をそこで知った。
それでもプルトーネは嫌な顔一つ見せず、笑いながら優しく教え続けてくれた。
そんな自由でありながら優しいプルトーネの事が、ニーナは大好きだった。
旅の最中、辛いことが悲しいことが沢山あった。
街々を転々としていたから、というのもあるが、感情表現と人付き合いが苦手であるが故に、友人と呼べる者が一人もできなかった。
プルトーネが留守の時は常に孤独だった。
それどころか、この人族が統べる大陸に入ってからは、見も知らぬ人に罵倒を投げられる事すらあった。
悪意を浴びて心に傷を負った。
それでもニーナはプルトーネの前でだけは、暗い顔や泣き顔は見せなかった。
心配だけはかけたくなかったから。
旅を続けていると嬉しいことがあった。
たくさんの精霊と仲良くなれた。
数年がかりで念願の冒険者になれた。その事でプルトーネにいっぱい褒められた。
お祝いに手作りの帽子も貰った。それは、ニーナにとって一生の宝物となった。
およそ一年前。侯都ファナールに来た。
そこでプルトーネの姉、ユミルネに出会った。
当初、ニーナにとってのユミルネは、プルトーネに悪口や嫌がらせばかりをする冷たい存在として映り、恐ろしく感じられた。ただ、悪い人ではないのだと、ユミルネの性格を知ってからは思えるようになった。認識を改めることもできた。
プルトーネの知人の娘というコレットに出会った。
プルトーネ以外の人に触れられるのは嫌いなのに、暴言を無視してひたすら撫でてきた。
聞けば同年代だと言うのに、見た目だけで子供扱いをされてイラっとした。でも、そんなふれあいも続けていれば、いつしか暖かかい気持ちが湧いていて、嫌ではなくなっていた。
二月前。
プルトーネが自分のもとを去った。
深い理由は教えてもらえなかった。
聞かされたのは、これから危険な所に行かなければならない。巻き込みたくない──といった言葉のみだった。
翌朝、気がつけばプルトーネは既にいなくなっていた。ニーナは孤独の悲しみに襲われたが堪えた。
もう自分は子供ではないのだから、と。
もう自分は一端の冒険者なのだから、と。
ニーナは冒険者として、一人の大人として、独り立ちを決意した。
そして、三週間前。
不思議な少女たちと出会った。
まだ自分の半分ほどの年齢であるというのに、すごく聡明な子たちだった。
出会った当初には、どう接して良いのか分からず、素っ気なく冷たい態度を取ってしまった。
それでも、少女達は気にせず接してくれた。
これではどちらが子供なのかわからないと、軽く落ち込んだ。
その次の日。二人が冒険者になったと知って驚き、二人が隊商をを守る為にとったという行動を、商人から聞いて更に驚いた。
三人で依頼を受けた。
一緒に受けようと誘われて凄く嬉しくなった。
誰かと一緒に依頼を受けるなんて初めてだったから。やはり表面上は取り繕ってしまったが、その心の内は嬉しさで踊り狂っていた。
二人が姉妹ではないと分かった。
その内の一人が実は男性だと知った。
とても信じられなかったが、嘘ではないと思い至り、信じることにした。そして、彼との会話や行動が蘇り、恥ずかしすぎて頭が真っ白になった。
気づかず一夜を過ごしてしまった事もあるが、男の人が苦手でまともに話したことなんてなかったから。
彼が本音で言った『素敵な女の子』という言葉が、しばらく頭で反響し続けた。
蓮華宿で一悶着があった。
しかし、ニーナは初めから心配なんてしていなかった。コレットの性格を知っていたから。
結局、ニーナの予想通りになった。コレットが二人を宿に引き止めたのを見て、密かに安心もしていた。
二人とはもっと仲良くしたかったから。
それから三週もの間。
ニーナは二人と一緒になって過ごした。
それはとても楽しい時間だった。
まだ出会って間もないとはいえ、二人は自分にとってかけがえのない友人となっていた。
残念ながら生来の性格と、長年染み付いたその態度までは変えられなかったが。
それでも、二人が大切な人だとハッキリ言い切れるくらいに、自信は持てていた。
だけど、そんな日々は今日で終わり……。
これから自分は遠いところへと逝くのだ。
当然、離れ離れになったとしても、自分は何一つだって忘れることはないだろう。
シャルとアルルだけでなく、プルトーネを、コレットを、ユミルネを。
この鮮やかな色彩を帯びていた日常を。
死んでも忘れないだろう。
◾︎◽︎◾︎
(あぁ……死にたく、ないなぁ……)
ニーナは既に見えなくなった目を閉じ、穏やかな表情を浮かべて精霊とのリンクを切った。
精霊とのリンクを失ったニーナは何も見えなくなり、何も聞こえなくなる。
暗闇が、孤独が、ニーナの心に広がっていく。
死の恐怖がジワジワと押し寄せてくる。
遂にオルトラがニーナの間近まで到達する。
オルトラは二つの頭それぞれの双眼でニーナを捉えた。そして、片方でも優にニーナの倍以上ある大口を開けて、強靱な牙を剥き出す。
それからニーナを挟み込むよう、ゆっくりと愉しむように口を動かし──
その凶牙を突き立てる……
「──────ッセァァァッ!!」
──唐突に。
オルトラの気配がニーナの前から消えた。
(…………?)
ニーナはその違和感がわからず動けない。
しかし、いくら待てども訪れる筈のものが訪れない。これは流石におかしい。
ニーナは精霊との再接続を無意識に行っていた。
暗闇が引いて、光が差し込む。
ぼやけが薄れて視界が開ける。
無音だった世界に音が満ちる。
そして、目の前に広がる光景を目にする。
ニーナは反射的に、その使えなくなった重い瞼を持ち上げて驚きを露わにすると。
「……ニーナ!?」
これ以上ない程の心配を顔に貼り付けて、自分に寄り添う少女にしか見えない少年、シャルラハートが声をかけてきた。




