4-A
(あ……天井……?)
目が覚めた俺の目に入ったのは、木目調の天井だった。
起き上がろうとしてまず気が付いたのは、自分が固く冷たい石畳の上ではなく、布団の上に寝かされているということだった。
なんと身体には、きちんと毛布までかけられている。
寝かされている敷布団は固く、掛けられている毛布も安っぽいものだったが、あのケージの中に比べれば天国だ。
意識を失う直前の事を思い返してみる。
衆人環視の前で、豚に貞操を奪われそうになったとき、とつぜん現れた女性が助けてくれた。
、ここは、あの人の家なんだろうか。
起き上がってみて始めて、自分が服を着ていることに気付いた。
たぶん、助けてくれた女性が着せてくれたんだと思う。
貫頭衣というか、ポンチョのような簡素な衣装だった。
身体を起こした俺は、ぼんやりとした頭で室内を見回てみる。
室内は、純和風の作りになっていて、布団が敷いてあるのも畳の上だった。
書き物をするための簡単な文机以外、目立った調度品のようなものは無い。
机の傍には窓があり、障子が閉まっていた。
机がある壁際とは反対の方向には、部屋の外に続いていると思われる襖の引き戸がある。
どことなく、人家というよりも、安宿屋の一室という感じだ。
部屋の外の景色はどうなっているんだろう。
好奇心に駆られた俺は、布団から出ると、畳の上を四つん這いで文机のところまで這って行った。
障子に手をかけ、ほんの少し開き、隙間から外の様子を伺ってみた。
この部屋は建物の二階にあるらしく、眼下に景色が広がっている。
窓の外には、時代劇でよく見かける日光江戸村っぽい建物を小汚くしたような家屋が建ち並んでいた。
道行く人達も、どことなく、明治以前の日本人を思わせる着物を着ている人が多い。
洋服を着ている人も居るには居るけど、今時の洋服と違い、どことなく野暮ったい。
まあ、それはいいんだけど、道のそこかしこにゴミが散乱しており、道端に座り込んでいる物乞いのような人達が大勢いる。
あ、山賊みたいな身なりの人同士が、突然喧嘩を始めた。うわ、短刀みたいなものまで抜いてる。
俺は怖くなって、慌てて障子を閉めた。
どうも、あまり、治安の良い場所じゃなさそうだ。
奴隷市場なんてものがあるようなところだし、それも当然かもしれない。
少なくとも、今の日本ではありえない光景だ。
……いい加減、現実を受け入れるべきなんだろうか。
さっき目が覚めたときも、全部夢でした、みたいなオチを期待したんだけどな。
別の世界……なのは良いとして(良くは無いけど)なんで、子供になってるんだろうか。
しかも、獣耳と尻尾まで装備している状態で。
こちらの世界に来てからの、最も古い記憶から順に思い返してみた。
確か、どこか競技場みたいな所の中央で、俺は目を覚ました。
俺の居た場所には、なんだか中二病臭い魔法陣みたいな模様が描かれていて、ローブを羽織った妙な連中が居た。
そいつらに暴行を加えられ、気がついたら今度は奴隷。
売り飛ばされ、貞操を奪われそうになったところで、見知らぬ女性に救出され、そして、今の状況だ。
うん、さっぱり分からん。
溜息をひとつ吐いて窓から離れた。
ふと、視界の端に映った机の上に、卓上鏡があることに気付いた。ちょっとした身嗜みの確認なんかに使うものだろう。
今更ながら、俺は今の自分が、どんな顔をしているのか、全く知らないことに事に気付いた。
おそるおそる、鏡を手に取って、おっかなびっくりしながら覗き込んでみた。
そこに写ったのは、ぼさぼさとした黒髪で、気の毒なほどに痩せ細った血色の悪い子供の顔だった。
目が落ち窪み頬はこけているが、よくよく見てみると、若干子供の頃の俺の顔に似ているような気がしないでもない。
そして何より異様なのは、その耳だ。
人間の耳のある場所から生えているのは、狼か犬のような形をした獣の耳だった。
アニメやラノベなんかには良くありがちだけど、耳を覆う毛色が黒というのはあまり記憶に無い。単に俺が知らないだけかもしれないけど。
耳の位置が人間と同じということに、少しだけ安心した。
よく漫画や小説に登場する獣耳娘とか、俺はどうしても好きになれなかった。
なぜかと言うと、耳の位置が人間のそれとは明らかに違うからだ。
兎耳とか猫耳とかが、元となった動物と同じ位置に生えているというのは、頭蓋骨の形状を想像して、冷静に考えてみると、物凄く気持ちが悪い。なまじ人の形をしているからなおさらだ。
鏡を覗き込み、暫く百面相をしていると、がらりという音と共に襖が開いた。
俺は思わずビクッと肩を竦ませてしまい、その拍子に手にした鏡を取り落としてしまった。
開いた襖のほうに顔を向けると、そこには若い綺麗な女性が立っていた。
いわゆる日本人顔の美人で、年は10代後半ぐらいに見える。
服装が、俺の世界でもお馴染みの巫女さんに酷似していた……というか、正にそのものだった。
白小袖の上から千早を羽織り緋袴を履いているその出で立ちは、何処をどう見ても神社の巫女さんだ。もちろん、はしたなく脇なんて出しちゃいないし、袴の裾が極端に短かったりもしない。
袴はスカート状の行灯袴ではなく、襠のあるズボンタイプのものみたいだ。たしか、捻襠袴とか言うんだっけ。
高校時代の友人に、自他共に認める袴大好きの変態が居て、聞いてもいないのにそいつから教えてもらったような気がする。
ちなみにそいつ曰く、巫女さんの袴は着衣プレイが可能な行灯袴が至高だとかなんとか言ってたな。
彼女は何かを呟きながら、ゆったりとした足取りで俺のほうに歩み寄ってきた。
口調や表情から、非難めいたものは感じられなかったけど、俺は思わず頭を庇ってしまった。
奴隷だった頃、いつも事あるごとに殴られていたせいだ。条件反射というのは恐ろしい。
彼女は俺をあやす様に、背に手を回し、心配ないとでもいうように軽く叩いた。
あの暗がりの中でも美人なのは分かっていたが、明るい場所で、間近で見ると更にそれが際立っていた。
まるで、花嫁人形のような清楚で鼻梁の整った顔立ちをしていて、笑みの形に細められた涼しげな瞳が、穏やかに俺を見つめている。
位置的に良く見えないが、艶やかな長い黒髪を、髪留めか何かで、首の後ろで束ねているようだ。ますます巫女さんっぽい。
肌は透き通るように白いが、かといって人形のような作り物めいた美しさとは無縁で、瑞々しい活力に満ち溢れていた。
何より俺の目を引いたのは、彼女の耳だ。俺と全く同じような、黒い獣の耳をしていたのだ。
袴の陰からは、僅かに黒一色の尻尾が見えており、耳だけでなく、尻尾も俺と一緒であることに気付いた。
俺と彼女は同じ種族というか、仲間なんだろう。もしかしたら、助けてくれた理由はそれなのかもしれない。
彼女は優しい声で、頻りに俺に話しかけてくれるが、残念なことに俺には言葉が理解できない。
「ごめんなさい。わかりません」
ためしに日本語でそう言ってみたが、やっぱり通じていないようで、今度は彼女のほうがきょとんとした表情になってしまった。
仕方が無いので、俺はわからないということを示すように、首を横に振って見せた。
すると彼女は、少し考え込むように顎に手を当てた後、こんどは人さし指をすっと立てると、彼女自身の顔を指さした。
「ハ・ヅ・ネ」
一語一語区切るようにして、彼女は言った。
「ハ・ヅ・ネ」
首を傾げていると、彼女が同じ言葉を繰り返し言った。
そこでようやく、それが彼女の名前であることに気付いた。
「ハ……ハ、ヅ、ネ?」
彼女の発音を真似て呟くと、彼女――ハヅネさんは、嬉しそうに頷きながら俺の頭を撫でた。
「ハヅネ。ヒムカ・ハヅネ」
ヒムカ・ハヅネ。それが彼女の名前らしい。
日本のように、姓が先に来るみたいだ。
本来なら、相手が名乗ったのだから俺も名乗るのが筋なんだろうけど、躊躇してしまった。
ここはいわゆる異世界のようだし、二十歳の大学生だった俺は、何故か獣の耳と尻尾の生えた子供の姿になっている。
そもそも、この身体の本当の持ち主はどうなったんだ。
実は俺は既に死んでいて、憑依みたいなかたちで、この子供の身体に取り憑いているんじゃないのか。
いずれにしろ俺は、本来のこの子供では無い筈だ。
そんな状況で、元の世界の名前を名乗ってもいいんだろうか。
ハヅネさんは、静かに俺の答えを待っている。
いつまでもこうしていても仕方が無い。
俺は自分の顔を指さした。
「シ、シンタロウ。イセ・シンタロウ……」
少しの逡巡の後、伊勢 心太郎という元の世界での名前を名乗った。
「シンタロー……イセ、シンタロー」
彼女は、噛み締めるように俺の名前を何度か繰り返した後、にっこりと微笑んで何か呟いた。
たぶん、いい名前だとか、社交辞令的なことを言ったんだと思う。
俺はそれに応えるように、ぎこちない笑みを返した。
何となくほっとした途端、俺の腹の虫が、盛大な音を鳴らした。
恥ずかしさのあまり俯いてしまう俺に、彼女は笑みを浮かべ、一言声を掛けると立ち上がり、入ってきたときと同じように、襖の向こうに消えた。
彼女が襖の向こうに消え、暫くすると、何だか良い匂いが漂ってきた。
食欲をそそるその匂いは、すきっ腹を抱えている俺にとって、拷問に等しかった。
やがて、再び襖が開き、彼女が姿を見せた。
彼女の手には盆があり、その上には湯気を立てている小さな土鍋があった。
お粥だった。
腹を空かした俺のために、この人が用意してくれたんだ。
所々に浮かんでいる黒っぽい塊は、どうやらベーコンのような干し肉を刻んだものみたいだ。カビの生えた石のように硬いパンに比べれば、とんでもないご馳走だ。
ありがたく戴こうと、盆に手を伸ばそうとすると、彼女にやんわりと押し留められた。
ハヅネさんは、木製のレンゲのようなもので、粥を一匙掬い取った。熱さを確かめるように僅かに口をつけ、ふうふうと息を吹きかけて覚ました後、笑顔を浮かべながら、俺の口許に差し出してきた。
もしかして、手ずから食べさせてくれるというんだろうか。さすがにちょっと恥ずかしい。
俺が躊躇していると、口を開けてというように、彼女は自分の口をあーんと開けて見せた。
「あ、あーん……」
観念して口を開けると、程よく冷まされた粥が、口内に流し込まれた。
塩加減が絶妙な、とても美味しい粥だった。
噛み締めるように咀嚼して飲み込むと、彼女は再び粥を冷まし、俺の口許まで運んだ。
そうやって、親鳥から餌を貰う雛鳥のように、彼女の手を借りて食事を続けた。
空腹だったこともあり、俺は米粒一つ残さず平らげた。
ご馳走様の意味をこめて、手を合わせて頭を下げた。
通じるかどうか不安だったが、幸い彼女は俺の意図を汲み取ってくれたらしく、微笑みながら頷いてくれた。
温かい食事なんて、この身体になってからは初めてだ。
腹も膨れてひと心地ついたせいもあってか、何だか、目が潤んできた。
このわけの分らない状況になってから、初めて人間らしい扱いを受けたからだ。
そう思ったとたん、突然視界が歪み、ハヅネさんの顔が見えなくなった。
それが自分の涙のせいだということに中々気付けず、ようやく気が付いて慌てて堪えようとしたが無駄だった。堪えようとすればするほど、次から次へと込み上げてくるものが止まらなくなってしまった。
「うっ……うえっ……ひっく」
ついには耐え切れずに、嗚咽まで漏れてきてしまった。
俺の異変に気付いた彼女は、空になった土鍋を脇に置くと、優しく俺の背に手を回して抱き締めてくれた。もう、そこが限界だった。
恥も外聞も無く、俺はハヅネさんの胸で泣きじゃくった。
衣服を汚してしまうんじゃないかという思いが脳裏を過ぎったが、次から次へと溢れてくる衝動を抑えることが出来なかったのだ。
ハヅネさんは、そんな俺をしっかりと抱きしめて、背中を擦りながら耳元で優しく語り掛けてくれた。言葉の意味はわからなかったけど、俺を気遣ってくれていることだけは、はっきりと理解できた。
やがて、ある程度の落ち着きを取り戻してくると、今度は女性の胸に抱きしめられているという気恥ずかしさで一杯になってきた。
僅かに身を捩ってみるけれど、ハヅネさんは抱擁を解こうとはしなかった。それどころか、いっそう強く抱きしめてきた。そのため、彼女のふくよかな双丘が顔に押し付けられる形になってしまう。
(ま、まあ、良いかな……)
この体勢が、とても心地よいものだということは間違いない。
早くもちっぽけな羞恥心やプライドを放り出し、俺はハヅネさんの身体の感触に身を委ねるのだった。