3-A
新しい部屋で過ごす時間は、すぐに終わりが訪れた。
それほど時間が経たないうちに、再び男達がやってきた。
今度はどんな折檻をされるのかと怯える俺に、例の禿頭の男が、ニタニタしながら鎖の付いた首輪を嵌めた。
その上で、連行される犯人のように、両手首に手枷を嵌められた。
首輪に繋がれている鎖を引かれ、俺は転びそうになりながら、部屋から連れ出された。
大して広くも無い通路には、俺と同じように、首輪を付けられた連中がいた。
誰も彼も、死んだ魚のような目をしていて、生気が感じられない。まあ、俺も似たようなものだったと思う。
この閉鎖空間に連れてこられた時から薄々感じていたけど、このとき、それが確信に変わった。
俺達は奴隷で、俺達を折檻していた連中は奴隷商なのだ。そして今、いよいよ商品として「出荷」される時期が来たというわけだ。
さっきの水責めモップ責めは、汚い格好では売り物にならないからと、おざなりながら身体を洗ったのだろう。
もっとも、多少汚れが落ちたところで、俺を始めとした奴隷達は、やせ細っていて、いつ死んでもおかしくないような状態だ。
こんな奴隷を買ったところで、一体なんの役に立つんだろう。
ああ、あれか。臓器だけとるとか、何かの人体実験に使うとか、そういう使い道もあるのか。
どっちにしろ、俺の未来に救いが無いことだけは確かだった。
男達に追い立てられるようにして、俺は始めて、その建物の外に出た。
ようやく、日の光が浴びれると期待したんだけど、残念ながら、またしても外は夜だった。
出荷される肉牛のような気持ちで、俺は追い立てられるままに、他の奴隷共々馬車に押し込まれていった。
暫く馬車に揺られた後、連れて来られたのは、サーカスのテントのような建物だった。
室内からは、大勢の人間の気配がする。
おそらくここが、奴隷を売りさばく市か何かのようだ。
俺達は、安っぽい敷居で仕切られた、一角に次々と押し込められていった。
その後、暫くすると、男達がやってきて、一人また一人と、順に引き立てられて行く。
誰かが出て行くと、敷居の向こうから物凄い怒号と歓声が飛び交う。その波が引くと、奴隷商の男がやってきて、更に別の誰かを引き立てていく。
ああやって一人ずつ、競に掛けられて、売り捌かれているみたいだ。
奴隷の売買は、順調に進んでいるようで、最後に残ったのは俺一人だけになった。
単なる順番なのか、何か意味があっての事なのかは知らないが、よりにもよって、トリとは。
例によってやってきた、あの筋骨隆々の禿親父に引き摺られ、俺は売買の場に引き出された。
背後から突き飛ばされるようにして、壇上に上がった。
その瞬間に湧き起こる、割れんばかりの歓声と、突き刺さる無数の好奇の視線に晒された俺は、頭が真っ白になった。
想像して欲しい。不特定多数の、得体の知れない連中の前に、全裸を晒す様を。
恐慌状態に陥った俺は、せめて股間だけでも隠そうと試みるが、両手に枷を嵌められているので当然上手くいかない。
その様が可笑しいのか、連中は指をさしたり手を叩いたりして、愉快そうに笑っていやがった。
そうこうしているうちに、足をもつれさせて尻餅をついてしまい、かえって隠そうとしていた部分を晒してしまう羽目になった。
俺の晒した醜態に、観客共は興奮したように歓声を上げた。
もう嫌だ。死にたい。そもそも、何で俺はこんな目にあってるんだ。
バイトを終えてクタクタになってボロアパートに帰り、翌日に備えて寝てただけのはずだったのに。
わけの分からない獣耳と尻尾のガキになって、奴隷として売買されようとしている。
理不尽さと羞恥で目に涙が滲んできた。半泣きで蹲る俺の気も知らず、観客共の熱狂は最高潮だった。
こいつら、頭おかしいんじゃないのか。全裸の美少年や美少女だったらともかく、こんな痩せこけたガキの全裸なんか見て何が楽しいんだ。耳と尻尾のせいなのか。マニアなのか。そういうニッチな趣味の持ち主なのか。
そんな俺に構うことなく、競の準備は着々と進行しているようだった。
競に参加している客は、素性がバレるとヤバイ連中なのか、蝶マスクなんかで仮装していて、表情は良く分からない。
言葉が理解できないので、細部までは分からないが、俺の一段低いところにいる司会役らしい奴隷商の男が、客席に向かって声を張り上げている。
俺という商品の説明や、入札のルールなんかを説明しているんだろう。
司会の話が終わると、客席のそこかしこから、声と共に手が上がり始めた。ついに入札が始まったらしい。
俺は頭を抱えるようにして耳を塞ぎ、出来るだけ視線を浴びないように、ひたすら蹲っていた。
やがて、一際大きい歓声が聞こえた後、司会の男が、観客に向かって何事かを宣言した。ついに、俺の売却先が決まってしまったらしい。
誰かが壇上に上がってくる気配に、俺はおそるおそる顔を上げた。
そこにいたのは、豚だった。いや、もう、そうとしか表現できない程に豚だった。顔中に気色の悪い吹き出物のある、二足歩行の豚。
その二足歩行の豚のご面相の上に、蝶マスクが乗っかってる様は、不気味を通り越してシュールだった。
豚はガムでも噛んでるかのように、しきりにくちゃくちゃと口を動かしていて、気色悪さが半無かった。
仮面越しからでも、加虐心に満ちたそいつの嫌らしい視線が、俺の身体を舐めるように見回していることが分かり、恐怖と生理的な嫌悪感で身体の震えが止まらない。
もしかして、とは思ったけど、やっぱりそういう趣味の持ち主らしい。
怯える俺を眺めながら、豚は司会の男に向かって、何やら大声で話し掛けていた。
何度か豚と司会との間でやり取りが交わされた後、司会の男が、観客達に向かって何事かを宣言した。
一瞬の沈黙の後、観客達からは狂ったような歓声と、万雷の拍手が鳴り響いた。
一人取り残され呆けている俺に、豚が荒い息を吐きながら、ベルトを外しズボンを脱ぎ始めた。
(まさか、まさか……これから、俺とこの豚の、まな板ショーが始まるのか……?)
観客の熱狂的な歓声が、俺の嫌な予感を裏付けていた。
股間にぶら下がっている醜悪なソレを扱きながら、豚は嬲るように俺に近づいてくる。
「っ……!」
声にならない悲鳴を上げて後ずさる俺に、観客は更に興奮したような歓声を上げた。
壇上の隅まで追い詰められ、男の水死体のようなぶよぶよの手が、俺の顔に掛かろうとしたときだった。
突然、何の前触れも無く、テント内の明かりが消え、周囲が闇に包まれた。
一瞬、視力を失い混乱するが、暗い場所に閉じ込められて過ごした俺の視力は、程なくして回復した。
しかし、俺を手篭めにしようとしていた豚や、煽っていた観客達は違うようで、混乱が起き始めていた。
豚も同様で、引き攣った顔で周囲を見回しては、罵声のような声を上げている。
司会の男の様子を伺うと、大声で他の奴隷商達に何やら指示を飛ばしている。
どうやら、これは何かの演出ではないみたいだ。
観客の混乱がいよいよ大きくなってきたときだった。
「オルルルルルルアアアアアアアアアアアァァァァ!!」
観客席の一角から、直接脳に響くような、不快でけたたましい声が上がった。
思わずそちらに目を向けると、人型をした異様に手が長い何かが、何人もの観客を吹き飛ばしながら立ち上がるところだった。
全身影絵のように黒一色で、目と思われる箇所にのみ、赤い光が灯っている。
そいつが無造作に両手を振り回すと、周囲から悲鳴が上がり、巻き込まれた観客の何人かが宙を舞った。
跳ね飛ばされた奴と、落下地点にいて巻き込まれた奴らの悲鳴と罵声が錯綜する。
競の会場は、とつぜんの混乱の渦に叩き込まれていた。
化け物から逃げようとする連中がテントの入り口に一斉に殺到し、そこで押し合い圧し合いの揉み合い状態になっていた。
そんなわけの分からない光景を他人事のように眺めていると、とつぜん髪を鷲掴みにされた。
掴んでいたのは、俺を手篭めにしようとしていた豚だった。
耳障りな声で何事か喚きながら、俺を引き摺るように立たせようとする。
こっちに来いとか、立てとか、そんな事を言っているんだろう。
頭皮が引っ張られる苦痛に悲鳴を上げそうになったとき、何かがひしゃげる鈍い音と共に、豚の力が緩んだ。
勢い余って尻餅を着く俺の前には、覆いかぶさるようにしてしゃがみ込み、俺の顔を覗きこんでいる女性がいた。
「な、殴らないで!」
殆ど条件反射でそう口にしてしまう自分が心底情けない。
女性は一瞬、驚いた表情になったが、直ぐに優しく微笑むと、俺を胸に抱き締めた。
顔に押付けられる柔らかな感触に、顔が熱くなった。
俺を抱き締めたまま女性は、耳元で何かを囁いている。
意味は理解できないけど、なぜだか、不思議と心が落ち着く。
彼女の発する「音」ひとつひとつが、心の中に例えようもない安堵感となって染み込んでくる。
この人になら、何もかも曝け出しても、例え殺されても良い。そんな気分にすらなっていた。
そんな俺の至福の時を邪魔したのは、例の豚だった。
血の滲んだ頬を押さえ、彼女に向かって何事か口汚く罵っていた。
彼女は俺を抱き抱えたまま立ち上がり、豚を一瞥した。
その視線の冷たさは、俺に向けられていた優しい眼差しとは正反対の、まさにゴミを見る目だった。
奇声を上げながら掴みかかって来る豚をサイドステップで軽やかに躱すと、カウンター気味に豚の股座に容赦なく蹴りを入れた。
豚がこの世のものとは思えない凄まじい悲鳴をあげ崩れ落ちた。
いくら俺を手篭めにしようとした変態とはいえ、同じ男としてさすがに少し不憫になった。
感情の篭らない目で悶絶する豚を見下ろしつつ、股間に無慈悲に追い討ちを入れる彼女に、若干の恐怖を覚えた。
豚が完全に沈黙したことを確認すると、彼女は再び優しい眼差しに戻り、俺の耳元に何かを囁きかけてきた。耳朶を擽る彼女の吐息が、なんとも言えず心地よい。
俺を抱えた彼女は、子供とは言え人一人抱えているとは思えない身軽さで、暗闇の中を疾駆した。
時折彼女を制止しようとする者(おそらく奴隷商人の仲間だろう)がいたが、難なく躱されるか、急所に一撃を喰らって豚と同じ末路を辿った。
彼女は、まるで八艘跳びのように群集を踏み台にして、颯爽とテントの外に飛び出した。
その後のことは良く覚えていない。
三度彼女に耳元で何かを囁かれた後、強烈な眠気に襲われて意識を失ってしまったからだ。
しかし、不安や恐怖は一切感じず、意識を侵食する心地よい睡魔に身を委ね、俺は眠りに落ちていった。