20
一難去ってまた一難。
奥さんの様子がおかしいらしい。
「妻が、妻が、突然苦しみだして……」
姉さんが馬車の中に取って返すと、他の乗客に支えられた奥さんが、お腹を押さえて苦しそうにしている。
眉を顰め額に脂汗を滲ませて、荒い息を吐くその様子は、明らかに尋常じゃない。
「みなさん。馬車の外に出てください。お産が始まったようです」
奥さんの様子を見ていた姉さんは、緊張した面持ちで言った。
「そ、そんな。予定日はまだ先のはずなのに……」
旦那さんが呆然と呟く。もしかしたら、山賊に襲われるというショックでお産が早まってしまったのかもしれない。
「シンタロー。お湯を沸かしなさい。他の方々は、馬車の外に」
そう言って姉さんは、千早を脱ぎ捨てると俺のほうに放り投げてきた。
同じ馬車に乗っていた乗客達は、ただならぬ雰囲気に、慌てて馬車から降りていった。
姉さんだけが奥さんと一緒に馬車に残り、励ますように声掛けをしている。
俺も姉さんの指示に従い、お湯を沸かす準備をする。
金ダライを荷物の中から取り出すと、方術でその中に水を満たした。
「水速」
間近で見る方術が珍しいのか、ヘイムダルや旦那さんをはじめ、周りで見守っていた人達からおおっというどよめきが起きる。
あとは、こいつを沸かすだけだが、辺りに枯れ枝など燃えるものが見当たらない。
「焚き木の代わりなら、ここにあるぞ」
すぐに事情を察してくれたヘイムダルが、ふん縛って転がされている野盗の一人を蹴飛ばした。
蹴飛ばされた野盗は、自分が燃やされるとでも思ったのか、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら悲鳴を上げていた。
野盗なんてやってる割には肝が小さい。
「やかましい」
ヘイムダルが剣の鞘で優しく頭を撫でてやったところ、野盗は意識を失った。
俺はそいつに近づくと、ナイフで服を切り裂いた。
適当な大きさに切った布を、石で作った土台に布を丸めて放り込み、その上に水を張った金ダライをセットした。
「火照」
火を放つと、再び歓声が上がったが無視した。
「これでよし、と」
あとは、加減を見ながら、お湯が沸くのを待つだけだ。
「シ、シンタローくん。君ののお姉さんに任せて大丈夫なのかい……?」
「もちろんです」
青い顔で尋ねてきた旦那さんに、俺は自信たっぷりに頷いて見せた。
正直、姉さんに産婆の真似事が出来るかどうかなんてわからない。
だけど、こうなってしまった以上、信じて任せるしかない。
姉さんなら、きっと大丈夫。根拠なんて何も無いが、きっとそうに違いない。
自信満々の俺の様子に、旦那さんは少し安心したように見えた。
若干罪悪感を覚えながら、俺は沸いた湯を馬車のところへ持っていった。
「姉さん。お湯沸かしたよ」
声を掛けると、幌から姉さんが姿を現した。
俺は姉さんに湯の張ったたらいを差し出す。
それを受け取ると、姉さんはすぐに馬車の中に引っ込んだ。
幌の中からは、励ます姉さんの声と、苦しげな奥さんの吐息が漏れ聞こえてきている。
奥さんの苦しそうな声を上げるたびに、俺はビクッと首を竦めた。
他の馬車の乗客達……特に男性陣は、俺と似たようなものだった。
旦那さんの至っては、今にも倒れてしまいそうなくらいに、青冷めている。
傭兵や冒険者として、結構な修羅場をくぐっているはずのヘイムダルも、奥さんの悲鳴が聞こえるたびに、きつそうに顔を顰めていた。
「おい! いったい、何をやっているんだ!」
耳障りな濁声とともに、太った派手な男がこちらにやってきた。
「山賊は始末したのだろう! だったら、さっさと出発しないか!」
空気を全く読めていないその怒鳴り声に、周囲の客が眉を顰めた。
そんな周囲の視線などものともせず、肩を怒らせながらこちらに近寄ってきたのは、姉さんに不埒な事を言いやがった屑豚だった。
その何歩か後ろでは、馬車隊のオーナーがおろおろとしている。
「悪いな、旦那。今、乗客の一人が産気づいたところなんだ。少し静かにしてもらえるか?」
ヘイムダルがそいつの前に立ちはだかって宥めた。
「そ、それがなんだというのだ! それとも貴様、ワシの取引の損失を補償するとでも言うのか!?」
目前に現れた大柄な男に、豚は一瞬鼻白むが、すぐに醜く顔を歪めて喚き散らした。
「貴様らも貴様らだ! 他人のせいで迷惑を被っておるのに、何を偽善者ぶっているのだ!」
豚の言うことには一理あるが、だからといって、見捨てるわけには行かない。
こういうときに可能な限り助け合うのは、旅人同士の不文律でもある。
もっとも俺の場合は、そんなことに関わらず、姉さんの考えや行動が全ての判断基準だ。
姉さんの行動は、全てにおいて優先されなければならない。
姉さんは今、旅の身空で知り合っただけの人を助けようとしている。
それを邪魔しようとしているこいつが、悪であることだけは間違いない。
いい加減、鬱陶しくなって来た俺は、誰彼構わず怒鳴り散らす豚を黙らせてやることにした。
「水速」
俺は方術で豚の顔の周りを水で覆った。
「がっ!? がぼっ! がぼっ、がぼぼぼば……!!」
大口を開けて怒鳴り散らしている最中だった豚は、大量の水を飲み込んでしまい、激しくむせ返った。
それが、さらに水を飲み込むことになってしまい、陸上で溺れた豚は、顔の前で無闇に手を動かしながら暴れた。
やがて地面にひっくり返って七転八倒し始める。
おかげで、仕立てはよいが、センスの欠片もない衣装は、砂埃塗れになってしまっていた。
ムカつく奴ではあるけれど、これ以上やったら窒息死してしまう。
俺はパチンと指を鳴らし、式を解除した。
「ぐほっ、げええええっ! げほっ、ごほっ、ぶほっ……!!」
口から水を吐き出しながら、豚は盛大に噎せ返った。
そのまま大人しくしていれば良いものを、ずぶぬれの豚は、俺のほうにガンを飛ばしてきやがった。
「き、貴様……! こんなことをして、ただで済むと……ごぼぼぼぼぼっ!?」
なので、また同じことを繰り返してやった。
「……お前も容赦ねえなぁ」
「姉さんの邪魔をするほうが悪い」
溜息混じりのヘイムダルに素っ気無く答えた後、頃合を見計らって、式を解除してやった。
さすがに二回も同じことを繰り返されれば学習するようで、豚は大人しくなった。
豚の乱入でひと悶着あったものの、それ以降は特に邪魔が入ることは無かった。
やがて、周囲に赤ん坊の泣き声が響き渡った。
どうやら、生まれたらしい。
固唾を呑んで馬車のほうを見守っていると、幌の中から、額に玉のような汗を浮かべた姉さんが降りて来た。
うなじのあたりはほんのりと色付いていて、なんというか、清楚な色っぽさがある。
「旦那さん、お入りください」
視線で旦那さんを探すと、馬車へ入るよう指示した。
「あ、あ、あのっ、妻は……」
半泣き状態の旦那さんに、姉さんは柔らかな笑みで応じた。
「ご安心ください。元気な男の子です」
旦那さんの表情が泣き笑いに変わり、周囲からも安堵の溜息が漏れた。
「早産だったせいか、少し未熟児ですが……」
説明しながら姉さんは、旦那さんを馬車の中に招き入れた。
入れ替わる形で、姉さんは馬車の外に出た。
夫婦水入らずにしてやろうという気遣いなんだろう。
「姉さん。お疲れ様」
駆け寄った俺は、濡れた手拭を差し出す。
「ありがとう」
受け取った姉さんは、疲れを感じさせない笑顔で微笑んだ。
渡した手拭で、額や首筋の汗を拭う仕草が、妙に色っぽくて、ドキドキしてしまった。
それにしても、姉さんは何でも出来る人なんだな、と改めて感心してしまった。
「皆様、ご協力有難うございました。無事、生まれました」
見守っていた周囲の人々から、静かな歓声が上がった。
手を合わせて拝んでいるお年寄りなんかもいた。
「いやはや、大したもんだな。多芸にもほどがあるだろ」
俺の心情を、ヘイムダルのおっさんが代弁してくれた。
「師匠にあらゆることを仕込まれましたので」
姉さんの師匠って何者だったんだろう。
人間の夫婦だって聞いているけど、それ以上のことは詳しく教えてもらっていない。
いったい、どんな人達だったのか、物凄く気になる。
姉さんが師と仰ぐほどの人達なのだから、只者ではなかったのだろう。
機会があれば、詳しく聞いてみたいと思った。