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そんな出来事があってから、5日ぐらい経過した頃。
御者の肩越しに前方の景色を眺めていた俺の目に、切り立った谷間が見えてきた。
馬車の一団は、その谷間を縫うようにして伸びている隘路を縦列になって進むらしい。
大丈夫なんだろうか、あんな狭い場所を通って。前後から襲われたりしたら、一溜まりも無いだろう。崖の上から、弓なんかを射掛けられる可能性だってある。
「まるで、襲ってくれと言わんばかりの地形だな」
姉さんも俺と同じ考えだったみたいで、渋い顔でそう呟いた。
そうこうしていると、突然馬車が停車した。
もしや、山賊の襲撃かと緊張したが、どうやら違うみたいだった。
先頭集団のあたりで何か揉めているらしい。
同乗している乗客達も、何が起きたのかと不安そうに顔を見合わせている。
時間にして10分くらい経った頃、馬車の車列は、再びゆっくりと進み始めた。
いったい、何だったんだろうか。
「野盗の襲撃とかじゃなかったみたいだね」
「そうだな」
姉さんは苦笑を浮かべ、相槌を打った。
それから、更に半日ほど隘路を進んで行くと、盆地のような開けた場所に出た。
今日はこの場所で一夜を過ごすらしい。
馬車から降りて周囲を見回してみると、周囲全てが擂鉢状の斜面に囲まれていて、俺達がキャンプをしているのは、ちょうど擂鉢の底の部分のようになっているあたりだった。
こんなところにキャンプを張ったら、格好の的になるのが目に見えている。
だけど、隊商や乗客の表情は明るく、一部を除いてそんな心配をしている人は居ない。
この隘路を抜ければ一両日中にフトマシーナ王国に入り、快適とはいえない馬車の旅がようやく終わるからだろう。
「襲ってくるとしたら、今夜だ。心の準備はしておけ」
周囲に夜の帳が降り始めた頃。馬車の外で、手頃な岩に腰掛けて水を飲んでいると、数少ない一部の人の1人であるヘイムダルが、俺達の傍に来るなり渋い顔で告げた。
「雇い主に迂回したほうが良いと掛け合ったんだが、無駄だった」
野盗の襲撃を警戒したヘイムダルは、例え日数が掛かっても、安全な道を迂回すべきだと主張したが、あまり日持ちしない交易品を積んでいることや、今までの道程が安全だったこともあって、受け入れられなかったと語った。
隘路に入る直前、馬車が停止したのは、彼が進路を変更するように説得していたからなのだろう。
ちなみに、この道を迂回した場合、目的地への到着は1週間ほど余計に日数が掛かるらしい。
「この前も言ったが、護衛の連中はあてにならん。自分の身は自分で守れよ」
「ご忠告、痛み入ります。ところで」
軽く頭を下げて礼を述べた後、姉さんは続けた。
「もし、ヘイムダルさんが野盗だったとしたら、どのように襲撃しますか?」
「俺が賊だったら、か? そうだな……」
ヘイムダルは、少し考えるような仕草を見せた後、崖の頂上付近に視点を定めながら、ゆっくりと口を開いた。
「俺が賊だったら、皆が寝静まった後に、まず崖の上から矢で護衛や御者を始末する。積荷の強奪が目的だから、火矢なんかは使わないが、毒矢ぐらいなら使うかもしれんな」
「なるほど」
「そして、相手が混乱しているうちに、道の前後から挟撃するってとこかな」
姉さんは、ヘイムダルの回答に、そうですかと頷いた。
俺が漠然と考えていたことと、だいたい同じだった。
逆に考えれば、俺程度の素人でも想定できるほど、襲撃にうってつけの場所だってことなんだろう。
「相手がそのような戦術を取った場合、防ぎきる自信はありますか?」
取りようによっては、失礼かもしれない質問だ。
何しろ、ヘイムダルの実力を疑っているようにも取られかねないからだ。
「ねえなぁ。俺一人だけ生き残る自身はあるが」
ヘイムダルはあっさりと本音を吐露した。
「ああ、そうだ。あんた、方術で結界を張ったり出来ないか? ここいら一体を覆い隠すような」
「残念ですが、不可能です」
期待の眼差しを向けるヘイムダルに、姉さんは静かに頭を振った。
「あんたでも無理か?」
「ええ。結界の方術はありますが、色々と制約があります」
方術の中には、結界を張ってその内側の存在を隠蔽するタイプのものも存在する。
しかし、この手の方術は儀式系方術と呼ばれ、術式の短縮が出来ず、規模に応じて七面倒な事前準備が必要になる。
具体的には、結界に応じた方陣を描いたり、結界の境界線に紙垂を設置したりとかだ。
姉さんと徒歩で旅をしていたとき、野宿のたびに姉さんは結界を張っていたが、対象が俺達二人だけだったので、準備にそれほど時間と手間は掛からなかっただけだ。
だけど、これだけの大所帯になるとさすがに準備をしている時間は無いし、結界型の方術は、隠蔽範囲の拡大に反比例して効果が減衰する性質がある。
それに加えて、結界の中に居る間は、極力物音を立ててはいけない。
これだけの人数にそれを徹底させるのは難しいし、近くを野盗にウロウロされて、パニックを起こさず平静で居られる人はあまりいないだろう。
姉さんからそんな説明を受け、ヘイムダルはそうか、と落胆した。
「代わりと言っては何ですが、私の式に周囲を警戒させましょう」
姉さんは立ち上がると、すっと右手を水平に伸ばした。
「飛鷹。隼鷹(ジュンヨウ」
その声に応えるように、伸ばされた姉さんの腕に、二羽の美しい鷹が姿を現した。
姉さんの使役する式神―飛鷹と隼鷹だ。
方士の使う式神には2通りのものがある。1つは式符などに自分の霊力を吹き込み、予め設定された術式の通りに動く簡易プログラム的なものと、力を持った精霊や妖怪を契約によって使役するものだ。
前者の場合、霊力が尽きたり術式が終了すると、元の紙切れに戻ってしまうが、後者の場合は、術者との契約が継続している限り、使役し続けることが出来る。
主となる方士にそれなりの力量が無ければ、大人しく従わせることができない難易度の高いもので、ファンタジーで良く見かける使い魔的なものと考えるのが、一番わかりやすいかもしれない。
2体の見た目は殆ど同じだが、扇状に広がる尾羽の一部がコバルトブルーになってているのが飛鷹、ターコイズブルーになっているのが隼鷹だ。
「おお、すげえ! これが方士の使う式神なのか!」
式神を見るのは初めてなのか、ヘイムダルの口調は、子供のように熱を帯びていた。
「この子らに上空から監視させます。異変を察知したら、警告を発するようにしましょう。行け!」
姉さんが命じると、2羽の式神は小さく「ぴい」と鳴くと、通常の鳥とは比較にならない速度で、宵闇の空に消えていった。
「……すげえな。もう見えなくなった」
「それと……」
姉さんは立ち上がり、馬車隊が通ってきた盆地の入り口のほうに目を向けた。
「入り口と出口に当たる隘路の前後に、ちょっとしたものを仕掛けておきましょう」
「ちょっとしたもの? 罠か何かか?」
「罠と呼べるほど、大したものではありませんが……」
姉さんが言うには、ある一定の距離まで近づくと発動して轟音と閃光を発生させる、時限式の方術なのだそうだ。
なにぶん、即席で術式を構築するため、殺傷能力は皆無で、こけおどし程度のものでしかないとのことだ。
「即席でそんなものが作れるのか。方士ってのは、つくづくすげえな」
ヘイムダルは顎を擦りながら、しきりに感心していた。
もちろん、全ての方士にそんなことが出来るわけはない。
姉さんほどの実力の持ち主でなければ、即興で手軽に構築できるものではないのだ。
その後、襲撃時のお互いの立ち回りを確認し、ヘイムダルは自分の持ち場に戻っていった。
今日は不寝番に立つらしい。
「さて。それでは早速、術式を仕掛けるとしようか」
「はい、姉さん」