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目が覚めた俺が期待したことは、当然、夢オチだった。
しかし、そこは六畳一間の安アパートの自室ではなく、またしても冷たい石畳の上だった。
そして残念なことに、耳は獣耳のままだったし、腰には尻尾も生えていた。
「いて……つつつ……」
身体を起こそうとして、胃の辺りと後頭部に鈍い痛みを感じ顔を顰めた。
あれからどのぐらい時間が経ったかは分からないけど、状況はあまり変わっていない。
それどころか、むしろ悪くなっているような気がする。
(ここは、牢屋……というか、ケージか何かか……?)
俺が入れられているのは、どうやら大型犬なんかを入れる檻のようなものらしかった。
幸い、手足に付けられていた枷は外されていたが、酷く狭苦しい。
鉄格子に手を伸ばし、ゆすってみたが、もちろん、そんなことで易々と外れたりはしない。
ガシャガシャという無機質で耳障りな金属音を立てるだけだ。
鉄格子の向こう側は通路になっているようで、壁際に等間隔で並んでいる燭台には薄明かりが灯されている。
通路を隔てた向こう側には、俺の入っているケージと同じようなものが幾つも並んでいた。
光量が少なくてよく見えないが、そのひとつひとつのケージの中に誰かがいる。どうやら子供らしい。
今の俺と同じような年頃の子供もいれば、十台半ばぐらいに見える奴もいる。俺のように獣の耳と尻尾の子供も多かった。
年頃も性別もばらばらだったが、ただひとつ共通しているのは、どの子供も衣服はおろか、下着すら身に着けておらず、薄汚れて痩せ細っているという点だった。
俺の真向かいのケージに閉じ込められているのは、十代前半ぐらいに見える少年だった。
啜り上げるような嗚咽に混じり、何事かをぶつぶつと呟いている。
意味は理解できないけど、たぶん、自分の境遇を嘆いているような感じの事を言っているような気がする。
出来れば、何か話をしたいところだけど、生憎と言葉が分らない。
少年の嗚咽の声は、決して高くは無いが、この狭い空間ではよく反響していた。
それが気に障ったのか、通路の奥のほうから野太い男の怒鳴り声が聞こえてきた。
まるで、獣の雄叫びのような怒号に、俺は身体を緊張させた。
何事かを叫びながらやってきたのは、筋骨隆々のむさ苦しい禿頭の男だった。
男は、何事かを叫びながら、少年の入っているケージを蹴飛ばした。
うるさい、とか黙っていろ、とか、そんな感じの言葉を発しているようだった。
よほど腹に据えかねたのか、男は鍵を開けて少年を引き摺り出し、何度も何度も少年を殴りつけた。
「イ、イテーマ! イテーマ!」
少年は男から加えられる暴行に、悲鳴をあげ、頭を庇うように体を丸めて泣き叫んだ。
意味は分からないが、殴らないでとか止めてとか、そんなニュアンスの単語なんだろう。
ひとしきり暴行を加え終わった男は、今度はこちらに目を向けた。
鉄格子にしがみ付いて、その光景を呆けたように眺めていた俺は、男の凶悪な目つきに身体を竦ませた。
禿頭の男は、今度は俺のケージの鉄格子に蹴りを入れてきた。
「ひいっ!」
思わず鉄格子から手を離した俺は、ケージの隅のほうまで後ずさった。
男は、尚も怒号を浴びせながら、何度も何度も鉄格子を蹴りつけた後、俺を睨みつけながら去って行った。
幸いなことに、さっきの少年のような暴行は加えられなかったが、身体の震えが止まらない。
男の気配が遠ざかったのを確認した後、おそるおそる、鉄格子の傍までにじり寄った。
真向かいのケージを伺ってみると、少年が必死に口許を押さえ、泣いているのが見えた。
泣き声が男に聞こえたりしたら、また暴行が加えられるからだろう。
必死に嗚咽を抑えようとしている様が痛々しかった。
(いったい、ここはどこなんだ……俺はどうなったんだ)
一瞬、頭に浮かんだのは、北チョンに人知れず拉致されてしまったんじゃないかということだった。
でもそれだと、獣耳と尻尾の説明が付かない。
あれこれ考えてみたところで、何の答えも出なかった。
そんな事があってから、どのぐらいの日数が経過したのか、全く分からない。
何しろ、薄暗いケージの中に一日中閉じ込められて、一度も日の光の当たる場所には出ていないのだ。
1日2回与えられる食事のタイミングから、大体の時間を把握するしかない。
食事といっても、石みたいに硬いパンらしきものと水だけなのだが、それでも食わなければ飢えは凌げない。
食事以上に最悪だったのは、ケージの中にトイレが無いということだった。
ケージ内の床に一箇所、直接排泄溝に繋がっていると思われる穴があり、そこで足すのだ。
時々、もよおして来た時を見計らったように、禿頭の男が現れ、ニヤニヤと薄気味の悪い笑みを浮かべ、俺が用を足すのを眺めているときがあった。たぶん、そういう趣味なのだろう。
もちろん、自分の排泄する様を他人に見せるような趣味の無い俺は、必死に我慢するが、生理現象には勝てない。
何より、男の機嫌を損ねると、直ぐに暴力を振るわれた。
理不尽な理由で振るわれる謂れの無い暴力は、平和な日本で平凡な大学生だった俺を、従順な家畜に変えるには十分だった。
始めの頃は羞恥と屈辱以外の何物でもなかったが、人としての尊厳を根底まで破壊された後は、何の感情も湧いてこなかった。
それよりも、殴られたり蹴られたりして、痛い思いをするほうが嫌だった。
逆らわずにいれば、気紛れで暴力を振るわれることはあっても、たいていの場合は痛い目に逢わずに済む。
そんな何時終わるかも分からない家畜の日々を送っていた俺は、あるとき突然ケージから引き出された。
例の男に小突き回されて連れて行かれたのは、牢屋のような煉瓦造りの小部屋だった。
そこに押し込められた俺は、待ち構えていた何人かの男達に何度もバケツで水を被せられた。
殴る蹴るでは飽き足らず、暴行メニューに水攻めまで加わったのかと思った俺は、恐怖で蹲った。
そんな俺に構うことなく、男達は水を浴びせ続けた。
ひとしきりそれが終わると、今度はモップやブラシで何度も俺の身体を叩いたり擦ったりし始めた。
俺は頭を抱え、ひたすら「殴らないでください」と唱え続けた。
俺が唯一、話すことが出来る言葉で、普段なら、何度も唱えていればそのうち止めてくれるんだけど、その時はなぜか効果がなかった。
何度も身体を引き起こされ、顔といわず股間といわず、何度も何度も、モップやブラシで身体を擦られた。
ようやくそれが終わると、また何度か水を掛けられ、男達は俺をその場に残して立ち去って行った。
ケージには戻されず、この部屋に閉じ込められることになったみたいだ。
何か理由があるのか分からないが、ケージと比べれば広々としていたので、多少の開放感に少しだけ気が楽になった。