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「シンタロー。明日には、この国を立とうと思う」
宿へ帰る道すがら、姉さんは言った。特に異論は無かったので、俺は黙って頷いた。
このままこの国に滞在を続けても、面倒なことに巻き込まれそうな感じがしたからだ。
移民もそうだけど、この国の政府の人間に目を付けられてしまったのが一番厄介だ。
このぶんじゃ、落ち着いて応用式の勉強なんて出来そうもない。
「済まんな。お前に応用式を教えるのは、もう少し先のことになりそうだ」
「ううん。それは気にしないでよ」
この国の現状なんて、知りようも無かったわけだし、姉さんの責任じゃない。
インターネットみたいな便利な情報収集ツールがあるならまだしも、こっちでリアルタイムの情報を入手する手段なんて、口コミぐらいしか無いんだから、仕方が無いよね。
「次はどこに行くの?」
「そうだなぁ……」
姉さんは腕組みをして、少し考え込むように中空を見上げた。
「とりあえず、明日早朝、駅馬車でこの国を出よう」
馬車を使うのか。徒歩ではないので少しは楽が出来そうだ。
もっとも、元の世界の観光用の馬車なんかと違って、乗り心地については快適とは言いがたい。座席は硬いしやたらと揺れるしで、乗客のことなんてまるで考慮されていない。金持ちが使うような特注馬車なら、少しはマシなのかもしれないけど。
馬車自体の造り以上に問題なのは道だ。主要な国や都市間は街道が整備されて入るものの、都市部から離れるにつれてレンガ造りだった街道が、とたんに荒地同然のでこぼこ道に変貌してしまう。
慣れるまでは頻繁に馬車酔いして大変だった。
「行き先は、フトマシーナ王国という比較的大きな国だ。そこで今後の事を考えよう」
姉さんによると、その国は今いるライミィのような都市国家ではなく、王様の居る王都を中心として太守と呼ばれる有力貴族の領主が領地を収める封建国家なのだという。
明日の早朝にこの国から出る駅馬車は、フトマシーナ王国のいくつかの太守領を経由して、王都まで向かうらしい。
「途中下車するもよし、そのまま王都まで向かうもよし。行き当たりばったりだが、その時々で判断するとしよう」
「わかった」
姉さんの言葉に俺は頷いた。
「おお、嬢ちゃん! ボウズと一緒だったか」
宿に戻って早々、店主の親父が俺達を見て声を上げた。
「あー、帰って来て早々で悪いんだがよ……」
「弟から全て聞いております。皆様に多大なご迷惑をお掛けして、申し訳ございませんでした」
言葉を濁す店主に、姉さんは腰を折って深々と頭を下げた。もちろん、俺も隣でそれに倣った。
「壊した備品に関しては、もちろん弁償いたします。お怪我をされた方がいれば、治療費を……」
「まあ、怪我っつてもカスリ傷程度だしなぁ」
店主は顎鬚をしごきながら、店内の一角に視線を向けた。
その視線を追いかけると、そこにはあのザイツと仲間の酔っ払い達がいた。
「おう、お前ら。治療費でも請求するか? ん?」
店主がそう声を掛けると、ザイツと仲間達は、物凄い勢いで首を横に振った。
「めめめ、滅相も無い!」
「そうそう! も、元はと言えば、俺達が原因だからな!」
「そ、その、済まなかったな、坊主! そっちの姉さんも!」
ザイツが頭を下げると、他の男達も追従するように続いた。
その表情が傍目に見ても引きつっているのは、俺が方術を使って暴れたせいだろう。
「……とまあ、そういうわけだ。奴らにとっては、良いクスリになったって事だ」
店主はそう言って豪快な笑い声を上げた。あまり細かいことには拘らない性格みたいだ。
まあ、店主としては、俺が暴れたせいで被った被害の補填が出来れば、それで良いのかも知れない。
ともあれ、俺がやらかしてしまった件については、いちおう示談が成立したということにはなった。
それで手打ちということにはなったんだけど、姉さんは俺が迷惑を掛けたお詫びということで、その場に居る客達全員と、それ以降入店する客に、ジョッキ一杯と料理一品を奢ることを店主に提案した。
タダ酒とタダ飯を拒むような物好きは居ない。姉さんの提案は客達には大いに歓迎されることとなった。
なったんだけれども。
なんで、こうなったんだろうなぁ、という思いで魚料理をつつきながら、目の前で繰り広げられている光景を見やった。
いっき、いっき! という無責任な音頭に煽られるようにして、厳つい冒険者風の金髪男が喉を鳴らしてジョッキに満たされた発泡酒を飲み干していく。
手から衝撃波を出す空軍少佐みたいな髪形をした男の太い腕には、無数の傷跡が走り、その男が幾つもの修羅場を潜り抜けてきただろう腕利きの冒険者であることは、素人目に見ても明らかだ。
「ぶはあっ」
そのまま一息に飲み干した後、男は空になったジョッキを勢いよくテーブルに叩き付けた。
野次馬達のおおーっという歓声に、男は得意げに泡のついた口の端を笑みの形に吊り上げた。いわゆるドヤ顔ってやつだ。
たったいま空にしたジョッキ以外にも、既に男の前には、いくつもの空になったジョッキが転がっていた。
数えてみるとその数は、男がいま飲み干したぶんも含めて、ちょうど30になる。
「どうだ、姉ちゃん? 俺はまだまだいけるぜ?」
顔を真っ赤にした冒険者風のその男は、酒臭い息と共に、テーブルを隔てた対面に腰を下ろす人物を見やった。その人物とは、誰あろう、俺の姉さんであるハヅネだった。
得意満面な男の視線に対して、姉さんは静かに微笑を返すと、目の前のジョッキを両手で持ち上げた。
酒場中が見守る中、姉さんはジョッキに口をつけると、両手で捧げ持つようにしてゆっくりと傾け、酒を嚥下していく。
「んっ、んっ、こくっ……」
アルコールのせいか、はたまた店内の熱気に当てられたからなのか、ほんのりと色づいた姉さんの白い喉が、そのたびにこくこくと動く。それがひどく扇情的で、否が応にも店内の男達の視線を釘付けにしていた。
ただでさえ露出の極端に少ない巫女装束の中で、唯一といっても良い肌が顕わになっている部分でもあるだけに、そういう目を集めてしまうというのもあるのかもしれない。
水のように一気に飲み干した男とは対照的に、ゆっくりと時間を掛けてジョッキの中身を空にしていった。
「はふぅ……」
軽く息を吐きながら、姉さんは口許についた泡を懐紙で丁寧に拭う。
「美味しゅうございました」
ほんのりと朱に染まった顔でたおやかに微笑む姉さんに、大きな歓声と割れんばかりの拍手が巻き起こった。
今ので、姉さんが飲み干したジョッキの数は31となった。
「や、やるじゃねえか、姉ちゃん……」
口では余裕ぶってはいるけど、男の眉は僅かにヒクついていた。
よくよく二人を見比べてみると、多少肌の色を赤いが平然としている姉さんと比べ、男の顔は赤を通り越してどす黒くなっており、目の焦点も少し合っていない。
威勢の良い態度や口調とは裏腹に、もう限界が近いみたいだ。
「おいおい、マジかよ。すげえな、あの巫女さん!」
「おい、ヘイムダル! しっかりしろよ! 俺はお前さんに賭けてるんだぞ!」
「う、う、うるせえな! これからが本領発揮よ!」
野次に向かって怒鳴り返すと、ヘイムダルとかいう冒険者風の男は、自分の前に運ばれてきた31杯目のジョッキを胡乱げに見下ろした。
再びいっきをけしかける歓声が巻き起こるが、ヘイムダルは難しい表情のまま動こうとしない。
姉さんはと言うと、葛藤するようなヘイムダルを、涼しげな笑みを絶やさず浮かべながら眺めている。
その笑顔は、さっさと飲めという無言の威圧のようにも見えた。
「しかし、すげえな。お前の姉ちゃん。あんだけ飲み干して平気な顔してるなんてよ」
呆れとも感心とも取れそうな口調で俺に言ったのは、あのザイツだった。
昼間は姉さんを侮辱した一件で対立してしまったんだけど、話してみると何のことは無い、どこにでもいる普通のおっさんだった。
「もしかして、酒匂の化身か何かなのか?」
酒匂とは、こちらの神道の八百万の神々の一柱、酒匂毘売命のことだ。この世界で始めて酒を生み出し、酒造方法を人々に伝えたとされる女神だ。八百万の神々の中でも大変な酒豪として知られ、「酒匂のようだ」とは、女の大酒呑みを揶揄するときのオブラートに包んだ言い方でもある。
「まあ、なんというか。元々酒には強い人だから……」
俺は曖昧な言い方で言葉を濁した。
最初のうちはマイペースに飲んでいた姉さんだったけど、次第に客達が挨拶に訪れるようになった。
純粋に奢ってくれた礼を述べる者もいたが、その殆どが、酔い潰れさせてあわよくば……なんて不埒な考えを持った下心丸出しの男達だった。
そんな下心を持った連中は「良い飲みっぷりだねえ」なんて、お決まりの台詞を口にしながら、「俺の奢りだ」なんてこれまたテンプレートな台詞と共に、姉さんに酒を勧めてきたわけだ。
そうこうしているうちに、姉さんVS酔客の飲み比べに発展してしまった。挙句、何人目で姉さんが潰れるかなんてトトカルチョまで始まってしまう始末だ。
そして、当たり前の事だけど、飲み比べの酒代は自前だ。
ちなみに、いま姉さんと飲み比べをしているヘイムダルという男は、14人目の挑戦者だ。それまでの挑戦者達は、せいぜい10杯前後でギブアップしていたのに比べれば、この男はかなり健闘しているほうだ。
しかし、ジョッキで30杯もの発泡酒を胃に流し込めば、さすがに限界が近いようで、目の前にある31杯目のジョッキを睨みつけたまま、微動だにしない。
「どうしました?」
ダメ押しのように、軽く小首を傾げて見せる姉さん。ヘイムダルの目には、姉さんに対する怯えの色が見てとれたが無理も無い。
これまでに飲み比べをした相手も含めると、姉さんの体内にはジョッキ100杯分を超える酒量が消えていることになるんだけど、姉さんの態度や言動には、それらしい兆候が微塵も感じられないからだ。
ちなみに、この店のジョッキは、1杯でだいたい500mlぐらいになる。それを通算で100杯以上飲み干しているのだから尋常じゃない。
「くそっ」
短く悪態をつくと、周囲からの無責任な野次に押されるようにして、ヘイムダルはジョッキを手に取った。
意を決したように一気に流し込もうとするが、すぐにその手が止まってしまった。
ジョッキを傾けた姿勢で静止してしまったヘイムダルに野次馬達の文句が殺到する。
よく見ると、手元が小刻みに震えており、顔色も傍目に見てヤバイぐらいに赤黒くなっている。
「うぐっ」
ヘイムダルは呻くと、ジョッキを放り投げ、野次馬達を突き飛ばすように掻き分けると、トイレに向かって突進していった。やっぱり、かなり無理をしていたらしい。
「おいおい、ヘイムダルでも駄目なのかよ」
野次馬達の間からは、失望の声が上がった。きっと彼に賭けていた連中だろう。
「他に挑戦者はいねえのか?」
お前行けよ、冗談じゃねえなどと、野次馬達は大騒ぎだった。
そんな喧騒など何処吹く風とばかりに姉さんは、もう1杯のジョッキをそ知らぬ顔で飲み干し、騒然としている野次馬達を更にドン引きさせていた。
「おっさんは挑戦しないの?」
「冗談じゃねえよ。あと、おっさん言うな」
まあ、そうだよな。あんな常識はずれなウワバミぶりを見せ付けられて、挑戦しようなんて気にはならないだろう。
それに加えて、そのぶんの飲み代は当然自腹だ。ツケを溜め込んでいるザイツのおっさんが参加できるはずも無い。
姉さんの酒豪ぶりを眺めながら、ザイツのおっさんから色々と話を聞いた。
それによると、前政権の頃、長く務めていた職場から突然解雇を言い渡されて、政権が交代した今でも次の仕事先が中々決まらずムシャクシャしていたと言った。ザイツとつるんでいた他の男達も似たようなものだったらしい。
「そこの雇い主がよう、移民を雇うことにしたからお前はもういらねえって言いやがったんだ」
姉さんに奢ってもらった酒を呷りながら、吐き捨てるようにクビになったときの話をしてくれた。
子供相手に愚痴るなんてちょっと情けないとは思いつつ、俺は黙ってその話を聞いてやった。
前政権時代は、何につけても移民が優遇され、移民を従業員として採用したところには、補助金が出ていたらしい。加えて移民は労働単価も安い。
当然企業はこぞって移民を採用し始め、ザイツをはじめとしたこの国の人々の多くが職を失った。
職を失ったことによって、自殺者や失踪者もかなりの数に上ったらしい。
ザイツのおっさんはというと、日雇い労働などで何とか食い繋いで、今まで生活していたらしいが、その日の食事にも困るような有様だった。そんな生活を続けていたのなら、性格が荒んでしまうのも無理もない。
姉さんを侮辱したことについては許容できないが、このおっさんの事が少し気の毒になった。
だけど同時に、その日の食事にも困るような有様のくせして、ツケで酒なんぞかっくらってんなよとは思った。口には出さなかったけどね。
ちなみに、移民を大量に雇用した企業はどうなったのかというと。その殆どが、倒産の憂き目を見ていた。
移民は労働単価が安く、しかも国からは助成金まで出ていた。企業としては万々歳だったはずなのだが、移民がとにかく使い物にならなかった。
何かに付けて仕事をサボり、それを咎めると差別だ人権侵害だと騒ぎ立て、業を煮やした企業が解雇をちらつかせると、徒党を組んで役員の自宅に押しかけて脅迫したり、時には直接的な暴力を振るったりと、散々だったらしい。まあ、自業自得だ。
政権が変わってからは、そういった移民絡みの歪みは解消されつつあるようだけれど、だからといってすぐに仕事が見つかるわけでもない。そこは辛抱強く職探しをするしかないと思う。
「おっさんも苦労してるんだね」
「だから、おっさん呼ばわりするな」
いやいや、30代は立派なおっさんだよ。認めたくない気持ちは分るけどね。
ザイツのおっさんとそんな話をしているうちに、どうやら飲み比べはお開きになったみたいだ。
新たに挑戦しようなんて物好きはさすがに居なかったらしい。
「シンタロー。そろそろ戻りましょうか」
賭け金の分配で騒いでいる連中を尻目に、姉さんは俺のほうに歩み寄ってきた。
あれだけ飲んだにもかかわらず、足取りも言動も普段と変わりはない。
俺と姉さんはザイツや店主に軽く挨拶をすると、二階の自室へと引き上げていった。