9-B-4
「お早うございます」
「おう、坊主」
シンタローがカウンター席に着いて礼儀正しく挨拶すると、店主が気さくに話しかけてきた。
前金で10日分の宿泊費を支払い済みということもあってか、随分と愛想が良い。
二人の話に耳を傾けてみると、私のことについて話しているようだった。
店主は私の正体が気になるらしく、厨房で料理を作りながら、シンタローにあれこれと質問を投げかけている。
「いやあ、相変わらず可愛らしい子ですなぁ」
私と同じようにシンタローを眺めていたマルコフが、どことなく恍惚とした口調で呟いた。
得体の知れない怖気を感じ、彼の顔を注視してぎょっとした。
紳士のようだった上辺の笑みは完全に崩壊していた。瞳を潤ませだらしなく眦を下げ、頬を紅潮させて荒い呼吸を繰り返す様は、明らかに正常ではなかった。
マルコフの目は、シンタローの尻尾に釘付けになっており、放っておいたら、このまま飛び掛ってしまうのではないかというほどに、目付きが危険極まりなかった。
私の視線に気付いたのか、マルコフは慌てて居住まいを正すと、わざとらしく咳払いをした。
「誤解しないで頂きたい。私は可愛らしい少年が大好物なだけです。決して、邪な目で弟さんを見ていたわけではありませんぞ」
慌てて弁解じみた事を口にするが、まったく言い訳になっていない。
ただ一つはっきりと分かったのは、この男がもっとも危険極まりない存在だということだけだ。
「方士だって? ほー、そりゃすごいな」
元々高くなかったマルコフへの評価を大幅に下方修正した丁度その時、シンタローと会話をしていた店主が声を上げた。
どうやら、シンタローから、私が方士だという説明を受けていたようだ。
「それなら、金回りが良いのも納得だ。しかも、えらい別嬪ときている。あんな姉さんとなら、旅も辛くないだろう」
方士だからといって、金回りが良いとは限らないのだが。まあ、別嬪という評価については、ありがたく受け取っておこうと思う。
金払いの良い上客の連れということもあってか、店主はシンタローに好意的に接してくれているようだ。
「そりゃあ、あんだけの美人なら、金を稼ぐ方法はいくらでもあるよなぁ~?」
そんな比較的和やかな雰囲気をぶち壊しにしたのは、先程から酒盛りをしていた柄の悪い男達だった。
赤ら顔にしまりの無い笑みを浮かべ、酔漢の一人が挑発じみた言葉をシンタローの背に投げかけた。
それに反応するように、寝起きで伏せ気味になっていたシンタローの耳と尻尾が、勢い良くピンと立った。
尻尾に至っては、大きく横に広がっている。感情が昂ぶっている証拠だ。
「いったい、今まで何人ぐらい咥え込んできたんだ? ひょっとして、坊主も姉ちゃんに筆下ろししてもらったのかぁ?」
「ギャハハハハハ!!」
同じテーブルで酒盛りしていた男達も、一斉に囃し立てたるように下品な笑い声を上げ始めた。
男達に背を向けて肩を震わせていたシンタローだったが、椅子を蹴倒すような勢いで席を立つと、男達に向き直った。
幼い顔に今までに見たことの無い怒りを滲ませ、大人の男相手にも臆することなくキッと睨み付ける。
怒った表情も可愛らしいですなぁ、とマルコフがほざいているが無視した。
「お? 一丁前に腹を立てたのか? 僕ちゃん、怒ったでちゅか~?」
睨み付けるシンタローに気付いたのか、男は気色の悪い裏声で煽り続けた。
「おい、ザイツ。子供をからかうんじゃねえ」
凄みのある声で、店主が割って入った。
店主の剣呑な視線に、男は傍目に見ても分るくらいに狼狽していた。見た目に反して、あまり肝は据わっていないらしい。
その後の店主と男(ザイツという名前らしい)のやり取りから、男はツケを溜め込んでいる常習らしいことが分った。
それに対してシンタローは、正規の客である私の連れだ。しかも、宿代は既に10日分も先払いを済ませている。店主がシンタローの肩を持つのは当然のことだ。
「坊主の話じゃ、姉ちゃんは方士なんだそうだ。だったら、金回りが良くてもおかしくはねえだろ」
「尚更おかしいだろうが! そんな大金持ちの方士サマが、なんで仕官もせずに歩き巫女なんてやってんだよ! 身体売って金稼いでるに決まってるだろうが!」」
そのまますごすごと引き下がっていれば良いものを、小心者につきもののくだらない自尊心が許さなかったのか、ザイツは怒りと羞恥がない混ぜになったような赤黒い顔で唾を飛ばした。
怒りに大きく尻尾を膨らませたシンタローは、ザイツら酔漢達を睨みつけながら、つかつかとそちらに近づいていく。
(よせ、シンタロー。くだらん挑発に乗るんじゃない)
私の願いもむなしく、シンタローは男達の真前まで来ると、ザイツの赤ら顔を上目遣いに睨みつけた。
私ですら始めて見る明確な殺意の篭った眼差しに、少し驚いてしまった。
その眼差しに怯んだのか、ザイツは僅かに視線を泳がせたが、相手が子供だと高を括ったのか、すぐに小馬鹿にするような笑みを浮かべ、シンタローを見下ろした。
「あ? 何だ、ガキ。文句あるのか」
「取り消せ」
酔って焦点の定まらないザイツの視線を真っ向から睨み返し、シンタローは言った。
大人に対する口の利き方ではない。
「……ンだとぉ?」
「姉さんを売春婦呼ばわりしたことを、取り消せって言ってるんだよ!」
あからさまに喧嘩腰なシンタローに、男は怒りに顔を歪ませた。
癇癪を起こしたザイツがシンタローに暴力を振るうのでは無いかと、気が気でならない。
いつでも止めに入れるように身構えたが、幸いなことにそうはならなかった。
いくら朝から酒を食らっている穀潰しでも、さすがに子供に暴力を振るうほど自制心が欠如してはいなかったらしい。
だがその一方で、言葉でシンタローを挑発することはやめなかった。
「売春婦の弟クンは、目上に対する口の利き方がなってねえようだなぁ?」
上から覗き込むようにして、ザイツはシンタローに酒臭い息を吹きかけた。
「だったら、年長者に相応しい言動を取れよ。歳食ってるだけで、尊敬されると思ったら大間違いだぞ」
臭い息に僅かに顔をしかめるが、シンタローは少しも怯まず言い返した。
これには、周囲で固唾を飲んで見守っていた客達のみならず、仲間の酔漢達も噴出す。
恥を掻かされた形になったザイツは、途端に余裕をなくして、顔面神経痛か何かのように頬を引きつらせていた。
「威勢が良いじゃねえか、ボウズ……」
額に青筋を浮かべ、血走った目でザイツは言った。
握り締めている拳を震わせ、必死に自制をしているようだが、そろそろ限界が近いようだ。
歯軋りをしながら憎々しげにシンタローを見下ろしていたザイツだったが、不意に厭らしく口の端を歪めた。
「じゃあ、いっちょ、方術ってやつを見せてくれや? 方士サマの弟なら、使えるんだろ。え?」
「使えるよ。まだ見習いだけど」
ザイツの挑発にシンタローは叫ぶように即答した。シンタローのほうも、完全に冷静さを失っている。
ザイツも仲間達も、そのシンタローの言葉を子供の強がりと思ったのだろう。
嘲弄交じりに大袈裟に囃し立てた。
「じゃあ、是非とも、見せてくれるかな~?」
「……見せたら、姉さんへの侮辱は取り消すか?」
「良いともよ。お前の姉さんが帰ってきたら、土下座でも何でもしてやろーじゃねえか」
「言ったな。ここにいる全員が証人だぞ」
そこで始めて、シンタローが笑みを浮かべた。
まずい、と思ったときにはもう遅かった。
その後繰り広げられた騒動に、私は文字通り頭を抱えてしまった。
ザイツをはじめとした酔漢共の挑発に激発したシンタローが、方術を使って男達をのしてしまったのだ。
その惨状たるや凄まじく、男達の使っていたテーブルや椅子は半壊し、濡れた床には割れた食器や料理が盛大にぶちまけられていた。
シンタローが使った方術は、初歩的な公式でしかなかったが、一般の人々にとって方術は、何だかよくわからないものというのが共通の認識だ。脅威を感じさせるには十分すぎたようで、ザイツと仲間の酔漢達は、酒と料理に塗れた身体を縮こませながら、怯えたようにシンタローを見上げていた。そこには、さっきまでの嘲るような態度は微塵も無い。
得意げにザイツらを見下ろすシンタローだったが、背後で怒りに肩を震わせている店主には気付いていなかった。
シンタローは店を荒らされて怒り心頭の店主にしこたま怒られ、散かしてしまった店内の清掃を命じられた。
さらに店主は、壊した備品の金額を私に請求すると宣言していた。
「お、弟が……お見苦しいところをお見せしてしまったようで……」
気恥ずかしい思いで、私はマルコフに囁くような小声で言った。
「いやいや。大変結構なことです。自分にとって大切なものを不当に侮辱されて、ヘラヘラ笑っているほうがおかしいというものです」
シンタローが、私のことを馬鹿にされて激昂したのは良く分っている。
しかし、だ。だからといって、こんな騒動を起こしても良い理由にはならない。
人の集まる場所というのは、多かれ少なかれ、そういうことがあるものだ。いちいち腹を立てていても仕方が無い。
しかも、酔漢共だけならまだしも、何の関係も無い店に損害まで与えてしまっている。
店主に平謝りをした後、項垂れて店の後片付けをするシンタローの様子が哀れではあったが、完全に自業自得だ。
むしろ、追い出されずに済んだだけマシといえよう。
ただ、その場に居合わせた客の殆どがあの連中を快く思っていなかったらしく、掃除をしているシンタローに好意的な励ましの声を掛ける客が多かったのが、せめてもの救いだった。
「しょんぼりしている姿も可愛らしいですなあ。伏せされた耳と項垂れる尻尾がそそります」
またぞろ妙な発言が聞こえた気がするが、これも無視した。
「さて、もう少し愛でていたいところではありますが、仕事が残っているのでお暇いたします」
やれやれ、ようやく帰ってくれるか。
内心で安堵しつつ、腰を浮かしかけたマルコフを、私は会釈で見送った。少し前屈みになってるようだが、どうしたのだろう。腰でも痛めたのだろうか。
店内は、シンタローが暴れたお陰で興奮が冷めやらない状態で、結界の外に出たマルコフには誰も気付くことは無かった。
「ふう……」
私は軽く溜息を吐き、椅子に凭れ掛かった。
そもそもの発端だった酔漢達も、店主の命令で掃除を手伝わされたせいか、店内の掃除は比較的短時間で終了した。
シンタローは、改めて店主に謝罪をした後、肩を落としたまま2階の自室へと引き上げていった。
「いやあ、珍しいモンを見たな。あれが方術か」
「手品じゃないのか?」
「あれのどこに種があるんだよ? 水とか火とか、何も無い所から現れたぞ?」
暫くの間、店内の客の会話に耳を傾けてみたが、シンタローの披露した方術の話で持ちきりだった。
他の客の発言を聞く限りでは、別段否定的な意見が聞かれなかったことに、私は胸を撫で下ろした。
あとでシンタローには、きっちりと言い聞かせなくてはならない。国によっては、街中で方術をみだりに使うと罰せられるところもあるのだ。
そうでなくとも、自ら騒動を起こして目立つような真似をするなどもっての他だ。
それにしても、出て行くのが少し気まずい。
もう少し、店内の様子が落ち着いてから出て行ったほうが良いだろうか。
どのタイミングで出て行けば良いかと、小一時間思案していると、シンタローが再び階下に降りて来た。
心なしか、少し慌てているように見えるが、何かあったのだろうか。
「なんだ、坊主。出掛けるのか?」
そんなシンタローに店主が声を掛けてきた。
シンタローが暴れたときは地獄の獄卒のような形相で怒り狂っていたのだが、今は平静のようだ。
「は、はい。ちょっと……」
若干言いにくそうに、シンタローは言葉を濁した。
「暗くなる前に帰って来いよ?」
店主は、特に不審に思うでもなくそれだけを言うと、自分の仕事に戻っていった。
シンタローは軽く頭を下げると、小走りに店の外に出て行った。
まったく、忙しの無い子だ。今度はいったいどうしたというのだろう。
いずれにしろ、このまま放っておくわけにはいかない。
私はシンタローを追いかけるため、周囲に張り巡らせていた人払いの結界を解いた。
その瞬間から、私の存在はその場に居る者達に認識されることになる。
「おお!?」
突然、現れた私の姿に、近くの席に居た客が驚き戸惑うような声を上げたが、私は何事も無かったかのように微笑返し、シンタローを追うべく宿の外に出た。