9-B-1
夜明けと共に私は目を覚ました。
隣りの寝台では、シンタローが安らかな寝息を立てている。最近は野宿続きでまんじりとも出来ずにいたせいか、とても良く眠っていた。
シンタローの寝姿に、私は自分の口許がほころぶのが分った。
寝相が悪いせいで、毛布はすべて床に落ちており、シンタローは身体を丸め、自分の尻尾を抱き枕のように抱え込んで眠っているのだ。
「まったく……これでは、風邪をひいてしまうじゃないか」
毛布を掛けなおしてやった後、しばしそのあどけない寝顔を堪能する。
ふと、思いついた事があり、シンタローの口許に自分の人指し指を差し出した。
すると、シンタローの口許が僅かに動き、差し出した私の指に吸い付いてきた。ちゅうちゅうと音を立てて私の指にむしゃぶりつく様子は、まるで、母親の乳首に吸い付く赤子のようだ。発見したのは偶然だったが、おかしいやら愛おしいやらで、今ではすっかり、起床直後の私の日課になっている。
自分にこんな奇妙な癖があるなんてことは、当然シンタロー自身気づいてはいないだろう。
10歳ともなれば、母親の乳が恋しい年頃でもないだろうが、この子の場合は、普通の子供とは事情が異なる。
物心ついたころからの奴隷生活で、そもそも、親の愛情というものとは、まったく無縁の生活を強いられてきたのだ。
そういったものへの願望や欲求が、無防備な睡眠下で、無意識の内に現れてしまっているのだと思う。
指に吸い付くシンタローを見やりつつ、私は今後のことについて考えた。
この子は私の予想以上に優秀だ。このぶんなら、応用式の構築法も、すぐに自分のものに出来るだろう。
応用式をある程度自分のものに出来たら、次は体術の訓練だ。
方士は、術式の発動前後に必ず隙が出来る。威力の大きい術式ほど、その隙は大きくなる。修練である程度短縮することは出来るが、完全に無くすことは出来ない。
咄嗟の不意打ちへの対処や、術を行使する前後の僅かな隙を補完するためにも体術は必要となるし、方術が行使できない状況下にあっても、無力化されずに済む。手数は多いに越したことは無い。
それに何より、いずれ私がシンタローの子供を身篭った時、妊娠時や出産・育児の間はどうしても無防備になる。その間、シンタローに私と子供を守ってもらう必要があるからだ。そんな時、方術一辺倒では少し心許ない。
そして、一通り身を守る術を覚え、心身共に成熟した暁には、満を持して子作りに入るのだ。
「満を持して……」
思わず考えを声に出して呟いてしまい、顔が熱くなるのが分った。
子作りということは、つまり、そういう行為ということなわけで。他の事とは違い、これについては、知識以上のものは持ち合わせていない。
いざというときに失敗しないように、これについてもきちんと練習しておく必要がある。あるのだが……
ま、まあ。これについてはまだまだ先のことだ。その時になってから考えても遅くは無いだろう。二人で少しずつ学んでいけばいい。
そんな埒の無いことを考えながら、私は無邪気に眠るシンタローの寝顔を眺めていた。
もうしばらくの間、その愛らしい寝顔を堪能していたいところではあったが、依頼人との待ち合わせがある。
少し名残惜しかったが、シンタローの口許から指を引き抜いた。
「まったく。面倒なことだ」
愚痴をこぼしつつ身支度を整えながら、私は昨日の依頼人の男とのやり取りを思い返した。
「隣り、宜しいですかな?」
豊かな顎鬚を蓄えたその男は、私達の食事が終わるタイミングを見計らったかのように声を掛けてきた。
「……どうぞ。空いていますよ」
他にも空いている席はあるだろうにと思いながらも、外交用の作り笑いと共に、男に席を勧めた。
どちらにしろ、もう自分達の食事は終わって、席を立つところだったのだから関係ない。
「やあ、すみません。それでは失礼して」
男は席について飲み物を注文すると、紳士然とした笑みを私に向けてきた。
「ロゥイの歩き巫女、ヒムカ・ハヅネさん、ですね?」
「ええ、左様です」
私と知って声を掛けてきたということは、おそらく仕事の依頼なのだろう。
だが、この国に滞在している間、私は仕事の依頼を受けるつもり無い。
なぜなら、この国を訪れた理由がシンタローに応用式の教育を行うためだからだ。
依頼などにかかずらっていては、差支えが出てしまう。
「そちらの子は……?」
断りの言葉を口にしようとした矢先に、男はシンタローに目を向け、僅かに首を傾げた。
「弟のシンタローです」
「ど、どうも。シンタローです」
やや緊張した面持ちだったが、それでも礼儀正しく、シンタローは男に向かって頭を下げた。
「弟……? あなたに弟が居るという噂は聞いた事がありませんが……」
「しかし、現にこうしてここにおります」
いちいち面倒くさい男だ。
内心で舌打ちしつつ、表面上はにこやかに答えた。
言外に、それ以上の質問に答える気は無いことを滲ませることも忘れない。
男もそれは理解したらしく、それ以上は追及してこなかった。察しの悪いほうではないらしい。
「ところで、どういった御用なのでしょうか」
「あ、ああ、そうそう。そうなのですよ」
先を促すと、男はハッとしたように何度も頷いてみせた。
「実はひとつ、仕事を頼みたいのですが……」
「姉さん。俺、部屋に戻ってるよ」
男が切り出すと、シンタローが気を使ってなのか、席を立とうとした。
「ええ、わかったわ」
端から仕事を受けるつもりなど無かったので、シンタローの気遣いは無用ではあったのだが、どうもこの胡散臭い男の前に、これ以上この子を晒すのが嫌だったので、自室に戻る事自体は止めなかった。
シンタローは男に軽く会釈をすると、尻尾を揺らしながら2階への階段を上がっていった。
「可愛らしい弟さんですな」
「申し訳ありませんが、依頼を受けることは出来かねます」
見え透いた世辞を無視し、私は単刀直入に言った。
内容を聞く前に断られるとは思っていなかったようで、男は狼狽したように目を見開いた。
「この国を訪れたのは、私用のためです。もとより、依頼を受けるつもりはありません」
そんな男の様子には一切構わず、淡々と謝絶の言葉を述べる。
残念ですがと断り、私は腰を浮かしかけた。
「ま、待ってください! 謝礼なら、十二分にお支払いします!」
紳士然とした外見に似合わない、まるで怒号のような大声に、私だけではなく、店主や他の客達も驚いたようにこちらに目を向けた。
「申し訳ありませんが、私にも事情というものがありまして……」
「そこを何とか……!」
出来るだけ済まなそうな顔をして、丁重にお断り申し上げるのだが、男は話だけでもと譲らない。しばらくの間、そうした押し問答が続く。次第に周囲の視線も気になりだした。
店主は厄介ごとは御免だとばかりに、あからさまに迷惑そうな顔をしているし、周囲の酔漢共は、何か勘違いしているのか、いやらしい笑みを張り付かせて、興味深そうにこちらを見ている。
歩き巫女の中には、娼婦のように身体を売って日々の糧を得ている者もいる。私と男のやり取りを、提示された金額に納得せず、値段を吊り上げようと渋っているようにでも見えたのだろう。
「……これだけ賑やかな国なら、仕事を求めている方士がいる事でしょう。他の方に頼んでみては如何ですか」
周囲の視線にやや辟易しつつ、私は諭すように男に言った。
「確かにその通りでしょう。ですが、それでもあなたにお願いしたい理由があるのですよ」
男も周囲の目に気づいてやや冷静さを取り戻したのか、若干恥じ入るように声を低くして言った。
「実は、少し前の出来事を偶然拝見いたしました」
そう言われて、少し考え込んでしまった。何のことを言っているのか、理解しかねたからだ。
「ここに宿を取る前に、移民の子供を助けましたな?」
移民という言葉がおそらくは禁句なのだろう。男の声は、囁くほどに小さかった。
男の言うとおり、この国に着いたばかりの時にそんな事があった。
もっとも、別段親切心からではなく、シンタローを連れていたからだ。
自分と同じぐらいの年頃の子供が、暴行を受けている様子を目の当たりにするなど、教育上あまり宜しくないと考えたからだ。
暴行を加えていた男達に言われるまで、その子供が移民だということも私は知らなかった。
「それを見て、ヒムカ殿が噂通りの弱者の味方だと確信したからです」
私が、弱者の味方……?
真剣な表情で真っ直ぐにこちらを見つめる男の視線に、私は少し戸惑いを覚えた。
自分自身の噂について、いちいち頓着したことは無いが、いつから私は弱者の味方などになっていたのだろう。
「私は別に、弱者の味方というわけではありませんが……」
「ご謙遜を。貧しい者からは依頼料を受け取らないと、もっぱらの噂ですぞ」
貧乏人からの依頼を格安で引き受けたことは多々あるが、それも別に親切心からではない。
金は持っている奴から搾り取るというのが私の趣味だからに過ぎない。
いわば、単なる私の気紛れなのだが、どうやらそれに尾鰭がついて広まっているようだ。
弱者の味方だなどと、一度たりとも公言したことも無ければ、気取ったことだってないのだが。
「どうか、話だけでも聞いて頂けないでしょうか。私達を助けていただきたいのです」
何とも答えあぐねいていると、男は縋るような言葉と共に、深々と頭を下げた。
依頼を受けるつもりは無かったが、ここで強硬に突き放しても、この男は引き下がりそうに無い。さっきのように注目を浴びるのは御免だ。
下手をすれば、宿を追い出される羽目にもなりかねない。
私はともかく、長旅で疲れているだろうシンタローに、負担を強いることにもなる。
「分りました。では、お話だけはお伺いします」
「おお、それでは……!」
打って変わって、男の顔に喜色が浮かんだ。
「早速ですが、お伺いさせていただけますでしょうか」
「そうですな。しかし……」
男は声のトーンを落として、軽く咳払いをした。
「すこし、注目を浴びてしまっているようですな……」
先ほどの一件で、店主をはじめ他の客達もこちらに聞き耳を立てているのが分った。
宿の中には、密談を行うための個室のようなものがあるが、利用するためには別料金を払う必要があるし、板切れでパーティションを区切っているだけで防音されているわけではないので、盗み聞きを完全に防ぐことは不可能だ。
「場所を移してそこでお話したいと思います。ヒムカ殿に我々の現状を理解していただくためにも」
「分りました。それで結構です」
男の言動は、胡散臭さを通り越して、あからさまに怪しかったが、これ以上騒ぎを起こすわけにもいかず、私は仕方なしに了承した。
本名か偽名か分らないが、男はマルコフと名乗り、明朝迎えに来るということで話は纏まった。
マルコフは店主に迷惑料のチップを渡すと立ち去っていった。
それが昨日、シンタローが部屋に戻った後の出来事だった。
「……はぁ」
昨日のすったもんだを思い返し、私はこめかみを押さえて溜息を吐いた。
気が進まないことこの上ないが、いつまでもこうしてるわけにも行かない。
私は頭を一つ振って気を取り直すと、シンタローに残す書き置きをしたためた。
書き終えた後、私は音を立てないように部屋を出て階下へと向かった。
「おはようございます」
「おう、嬢ちゃん。早いな」
カウンターの店主に挨拶すると、店主の男は気さくに挨拶を返してくれた。
昨日のことがあったので、あまり良く思われていないのではないかと考えていたが、杞憂だったようだ。
朝の仕込をする店主と、カウンター越しに軽い世間話を交わしつつ、私は軽めの朝食を摂った。
か弱い女が幼い子供を連れて旅をしているというのが気になるのか、あれこれと探るように会話を振ってきた。
当たり障りの無い返答で躱しつつ、私は依頼人の男――マルコフが現れるのを待った。
「お待たせしましたかな」
朝食を済ませ、待つことしばし。
やがて、昨日とまったく同じいでたちのマルコフが姿を現した。
私は大丈夫ですと答え、席を立った。
「すぐに戻ってくるつもりですが、弟をお願いします」
店主にそう言い残し、男に続いて店を出た。
「マルコフさん。念のためお断りしておきますが、お話をお伺いするだけです。依頼を受ける気はありません」
「ええ、ええ。分っておりますとも。さあ、参りましょうか」
マルコフは私の言葉に何度も頷き、先に立って歩き始めた。
家々から朝餉の支度の煙が立ち昇る中、私はマルコフに続いた。
「可愛らしい弟さんでしたな。私にも同じぐらいの年の子がいましてね。生意気な盛りですが、可愛いものです」
マルコフの振ってくる世間話に適当に話を合わせつつ、私は彼の後に続いた。
それにしても、いったいどこに連れて行くつもりなのだろう。
徐々に人気の無いほうへ向かって行っているように思える。
道幅は狭く薄暗い上に、路上にゴミが散乱し、そこかしこに、すえたような悪臭が立ち込めている。
そこそこ小奇麗だった表の大通りとは違い、目立たない裏路地は随分と薄汚れているようだ。
それに加えて、周囲の物陰からは、こちらを伺っているいくつもの視線を感じる。その殆どが、友好的とは程遠いものだった。
どうやら、治安のあまり宜しくない地区らしい。
「……まだ目的地には到着しないのでしょうか」
「ヒムカ殿は、この国をどう思いますか」
私の問いには答えてもらえず、質問に質問で返されてしまった。
どうなのかと聞かれても返答に困ってしまう。何しろ、昨日訪れたばかりで、この国のことなど良く分らない。数年前に訪ねたことはあるが、その時とは大分状況が違う。
「昨日着いたばかりなので、良く分りませんわ」
少し考えた後、私は当たり障りの無い返答をすることにした。
マルコフは歩みを止めないまま、私の答えに「そうですか」と、どこか失望したように言った。
いったい、何を期待していたのだろう。私は彼の背に向かって軽く肩をすくめた。
「ただ、少し複雑な事情がおありのようですね。移民の問題とか……」
「左様。この国では現在、移民に対する謂れの無い差別が問題となっています」
打って変わった強い口調でマルコフは言った。
……なんだか嫌な予感がしてきた。
「しかも、国民の多くはそれを止めるどころか、助長している有様です。全くもって嘆かわしい……!」
怒りのためなのか、マルコフの声はかすかに震えていた。
マルコフは、クーデターにより政権を奪取した軍部が、反移民の政策を次々と打ち出し、国民がそれを支持していることが許せないらしく、激しく糾弾し始めた。
私は適当に相槌を打ちながら聞き流していた。
この国にはこの国の事情があるのだろうが、私には興味も無ければ関係も無い話である。
私とシンタローに害が及ばなければ知ったことではない。
「ですが、ヒムカ殿が協力していただければ、再び差別の無い素晴らしい国を復活することが出来ます……!」
少し開けた場所に出た所で、マルコフは立ち止まり、私のほうを振り返った。
その顔には、こんな場所にはそぐわないような、気品に溢れた笑みが湛えられていた。
「一歩き巫女でしかない私に、お役に立てる事があるとは到底思えませんが」
言いながら周囲に視線を走らせると、物陰から薄汚れた身なりの老若男女がぞろぞろと姿を現した。
連中は、中央にいる私達を取り囲むようにして、一定の距離を置いて立ち止まった。
「……この方々は?」
「お気になさらず。彼らは私の友人達です」
私が問うと、マルコフは笑みをいっそう深くして言った。