9-A
そして、次の日。
久しぶりにまともな寝床で眠ったお陰か、夜中に目を覚ますことも無く、ぐっすりと眠ることが出来た。俺の目が覚めたのは、結構日が高くなってからだった。
起きた時、既に姉さんの姿は無く、机の上に依頼の内容を聞きに行く旨の書き置きが残されていた。断ったら直ぐに戻ってくるから、あまり外を出歩かないようにとも書いてあった。
さてと。
たっぷり睡眠も取った事だし、今日こそは姉さんのくれた応用式を解読してみようと思う。
だけどその前に、まずは腹ごしらえだ。食事代は、宿代と一緒に10日分まとめて支払いは済ませているので、頼めば用意してもらえる。
1階の食堂に降りてみると、朝の少し遅めの時間帯のためか客はまばらだったが、テーブルを一つ占領し、こんな日の高いうちから、良い気分で酒盛りをしている数人の男達がいた。見るからに柄の悪そうな連中だ。
余計な因縁を付けられたくは無いので、目を合わせないようにしつつカウンター席に着いた。
「おう、坊主。お前の姉さん、随分と朝早くに出掛けて行ったぞ。昨日ウチに来た身なりの良い男と一緒だったみたいだが」
「知ってます。仕事の話を聞きに行ったんでと思います」
昨日の依頼人が迎えに来たんだろう。何か変なことが起こらなければ良いんだけどな。
「巫女さんの仕事ってえと、祈祷かなんかかい?」
カウンター越しに、店主が興味津々といった面持ちで話しかけてきた。
美人の巫女さん(しかも獣耳と尻尾常設)ということもあってか、姉さんの事に興味があるらしかった。
「んー、どうだろ。方士でもあるので、そっち方面の依頼かもしれないです」
もっとも、今回は内容に関わらず断るつもりみたいだけど。
「方士だって? そりゃすごいな」
店主がグラスを拭く手を止め、驚いたように目を見開いた。
「それなら、金回りが良いのも納得だ。しかも、えらい別嬪ときている。あんな姉さんとなら、旅も辛くないだろう」
熊みたいな図体の店主は、厳つい顔に屈託の無い笑みを浮かべ、機嫌良さそうに色々と話しかけてきた。元々気さくな人柄なんだろう。もしかしたら、姉さんが既に10日分の宿代を支払い済みの上客だから、俺に愛想よく接しているのかもしれない。
「そりゃあ、あんだけの美人なら、金を稼ぐ方法はいくらでもあるよなぁ~?」
耳障りな野卑た声に、俺はむっとして振り返った。
赤ら顔の30代ぐらいの男が、酒瓶を片手にニヤニヤと小馬鹿にしたような笑みを浮かべてこっちを見ていた。朝から酒を飲んでいた連中の一人だ。同じテーブルについている他の男達も、同種の厭らしい笑みを浮かべている。
「いったい、今まで何人ぐらい咥え込んできたんだ? ひょっとして、坊主も姉ちゃんに筆下ろししてもらったのかぁ?」
下種の勘繰り以外の何物でもない男達のふざけた口舌に、急速に頭に血が上るのを感じた。
確かに、歩き巫女の中には、巫女とは名ばかりの売春紛いの行為で糧を得ている者もいる。だが、姉さんはもちろんそんな紛い物の名ばかりの巫女じゃない。
巫女としても方士としても一流だし、何より、俺を救ってくれた恩人だ。
大切な人を侮辱されて頭に来た俺は、しまりの無いニヤついた男の顔を、真っ向から睨み付けた。
「お? 一丁前に腹を立てたのか? 僕ちゃん、怒ったでちゅか~?」
「おい、ザイツ。子供をからかうんじゃねえ」
なおも挑発をやめない男に、店主がかなりドスの効いた声で凄んだ。ザイツとかいうその男は一瞬鼻白んだが、直ぐにまた先程のにやけ面に戻った。
「へ、へっ。なんだよ、親父。随分とそのガキの肩を持つじゃねえか」
「当たり前だ、穀潰し。この坊主の姉ちゃんは、10日分宿代を先払いしてるんだ。ツケを溜め込んでるお前とは扱いが違って当然だろうが」
店主の吐き捨てるような言葉に、周囲で見守っていた野次馬がどっと笑った。
恥をかかされる形になったザイツは、酒で赤らんでいる顔を更に怒りで赤黒く染めた。
「それに、その坊主の話じゃ、姉ちゃんは方士なんだそうだ。だったら、金回りが良くてもおかしくはねえだろ」
この世界の一般的な認識として、方士=金持ちという図式が成り立っている。
方術という超常の力を操る希少性の高さから、権力者や金持ちに召し抱えられることが多いからだ。
それに加え、どんな難題でも方術で解決してしまうようなイメージもあり、食い扶持には全く困らないと思われがちだ。
俺の元の世界で言えば、公務員は安定しているとか、医者や弁護士なら無条件に金持ちだとか思いこむようなものだ。
もちろん、実際には、方士だからといって金持ちというわけじゃない。在野の方士だって結構いるし、方士になってはみたものの、仕官先が見つからず、冒険者や何でも屋みたいなことをやって食いつないでいる者も少なくない。
「尚更おかしいだろうが! そんな大金持ちの方士サマが、なんで仕官もせずに歩き巫女なんてやってんだよ! 身体売って金稼いでるに決まってるだろうが!」」
ザイツは、血走った目で唾を飛ばしながら怒鳴り散らした。この糞野郎の中では、歩き巫女は全て売春婦だとでも思っているんだろう。この手の先入観に凝り固まった頭の悪い奴は、何処の世界にでもいるらしい。
だけど、そんなことはどうでもいい。許せないのは、たかが酔っ払いごときが、不当に姉さんを侮辱したことだ。絶対に許せない。
俺は席を立つと、ザイツを含めた男達が屯しているテーブルに向かった。
「あ? 何だ、ガキ。文句あるのか」
ザイツは、酒に酔った澱んだ目で俺をねめつけてきた。
「取り消せ」
ザイツの視線を真っ向から睨み返し、俺は言った。
「……ンだとぉ?」
「姉さんを売春婦呼ばわりしたことを、取り消せって言ってるんだよ」
子供にタメ口を利かれたのが気に障ったのか、ザイツの顔が憎憎しげに歪んだ。
「売春婦の弟クンは、目上に対する口の利き方がなってねえようだなぁ?」
「だったら、年長者に相応しい言動を取れよ。歳食ってるだけで、尊敬されると思ったら大間違いだぞ」
売り言葉に買い言葉とばかりに、俺は言い放った。
「威勢が良いじゃねえか、ボウズ」
眉の辺りに青筋を浮かべ、ザイツは搾り出すように言った。それでも、子供に無闇に暴力を振るったりしないだけの自制心はあるらしかった。
「じゃあ、いっちょ、方術ってやつを見せてくれや? 方士サマの弟なら、使えるんだろ。え?」
「使えるよ。まだ見習いだけど」
俺の返答を聞き、ザイツをはじめ、仲間の男達はいっせいに囃し立てた。子供の強がりだとでも思っているのかもしれない。
「じゃあ、是非とも、見せてくれるかな~?」
ザイツは挑発するように俺に顔を近づけ、酒臭い息で言った。
「見せたら、姉さんへの侮辱は取り消すか?」
「良いともよ。お前の姉さんが帰ってきたら、土下座でも何でもしてやろーじゃねえか」
「言ったな。ここにいる全員が証人だぞ」
そう言い置くと、俺は男に向かって、術式を展開した。
「速日」
男の身体が弾かれたようにすっ飛び、背後のテーブルに着いていた連中も巻き込んで、床に叩きつけられた。酒瓶や食器が割れる甲高い音が響き渡り、食堂内が一瞬にして静まり返った。
俺が使ったのは、風を起こすだけの簡単な公式だ。
本来は、ちょっと強めの風を起こす程度の術式だけど、威力や指向性を調整することで、俺がやったみたいに、人間一人をふっ飛ばすぐらいの事は可能だ。
姉さんぐらい霊力の強い一流の方士ならば、数人まとめて地面から十数メートルぐらいの高さに放り投げて叩きつけるぐらいの凶悪なことだって出来る。
ザイツをはじめ、巻き込まれて床に転がった男達は、何が起きたのか分からず呆けている。
酒と料理に塗れて戸惑っている様子は、中々間抜けで笑えた。
「どう? 取り消してくれる?」
尋ねるが、返答が無い。困ったなぁ。どうやら、このぐらいでは足りないみたいだ。
仕方が無いので、俺は別の方術を見せて差し上げることにした。
「水速」
「うぼわああっ!?」
「つ、冷てええ!」
次に展開したのも、基礎的な公式の一つで、少量の水を出現させる公式だ。さっきの『速日』同様、威力を調節してバケツ数杯分ぐらいの水を脳天からぶちまけてやった。
この方術も、使う者が使えば、水圧で吹き飛ばしたり押し潰したりなんてことが可能だ。
そういえば、昨日追跡した姉さんの応用式って、『速日』と『水速』の二つを合わせたものだったな。
「まだ足りないかなぁ?」
ずぶ濡れになっているザイツを始めとした男達に、俺は改めて問いかけた。
「わわわ、わかった! 俺達が悪かった! 取り消す! お前の姉ちゃんには謝る! だから……!」
「そっかー。まだ足りないのかー」
わざとらしく聞こえないフリをして、俺は三つ目の術式を展開した。
「火照」
俺が最も得意な炎を出す公式だ。発現したスイカ程度の大きさの炎の塊を、無造作にザイツ達に向かって放り投げる。
炎の塊が一番近くに居たザイツを直撃し、飛び散った炎が男達を包み込んだ。
「ぎゃあああああ!」
火達磨になる末路を想像したのか、男達の悲鳴が響き渡った。周りで見守っていた野次馬達からも悲鳴が上がる。
やがて、術の実効時間が切れて炎が跡形も無く消え去った。
「ぎゃああああ……あ?」
叫んでいた男達は、ようやく自分達が火傷一つ負っていないことに気付いたらしい。しきりに自分の身体をあちこち確認している。火傷どころか、さっきまでずぶ濡れだったにもかかわらず、服も身体も完全に乾いていた事に驚いているみたいだ。
俺が最後に放った火照は、脅しも兼ねて、服や身体を乾かすために使ったもので、見た目の派手さの割りに、威力自体は大したことはない。
「今度はどうかな?」
ザイツの前にしゃがみ込み、姉さん譲りの営業スマイルで聞いてみた。
するとザイツは、気の毒なぐらいに真っ青になり、ブンブンと何度も首を縦に振った。
「す、済まなかった、坊主。取り消す、取り消すよ!」
どうやら、今度こそ分かってくれたみたいだ。
「姉さんにも、謝ってくれる?」
「ももも、もちろん! 土下座でもなんでもする!」
怯えきった顔で、ザイツを始めとした男達は何度も頷いた。
「おい、坊主……」
満足げにドヤ顔で見下ろす俺の背後から、怒りを押し殺すような店主の声が聞こえた。
「あー、やっちゃった。姉さんに叱られる……」
自室に戻った俺は、ベッドに倒れこむと頭を抱えた。
頭に血が上って、酔っ払い共に仕置きをしたところまでは良かった。良かったんだけど、お陰で男達が使っていたテーブルや椅子、食器といったものがめちゃめちゃになってしまった。おまけに床は一面水浸しと来たもんだ。
俺は店主に平謝りをし、さっきまで店内の掃除や後片付けを手伝っていたのだった。おかげで、午前中はまったく宿題に手をつけることは出来なかった。
ちなみに、壊した店の備品は、別途請求されるらしい。いくらになるか分からないが、結構な金額になりそうだ。
何だか気が滅入ってしまい、宿題に手をつける気も起きない。
暫くの間、天井を見上げたままボーっとしていると、窓のほうから何か硬いものがぶつかるような音が聞こえた。
何だろうと思い窓に目を向けていると、下の方から小石のようなものが投げつけられていることに気付いた。その小石が窓ガラスに当たって立てている音だった。
ベッドから起き上がり、窓ガラス越しに、階下のほうを見下ろす。俺達が借りている部屋の窓は、大通りではなく裏路地に面している。そこに、は、見覚えのある人物がいた。
「あの子は……」
思わず声に出して呟いた。
そこにいたのは、昨日姉さんが助けた移民の女の子だった。彼女は、昨日と同じく無表情に、じっとこちらを見上げていた。
何か、こちらに伝えたいことがあるんだろうか。
俺は、急いで部屋を出ると、階下に駆け下りていった。
「なんだ、坊主。出掛けるのか?」
1階に降りると、店主が声をかけてきた。
店を滅茶苦茶にしたときは、物凄い形相で怒り狂っていたが、今は幾分収まっているようだった。
「は、はい。ちょっと……」
「暗くなる前に帰って来いよ?」
特にそれ以上何も言われることは無かったので、俺は会釈をして宿の外に出た。