第三話 ペダル
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今日は茄子を収穫した。また隣町の八百屋まで売りに行き、またまた日が暮れていたので五郎さんに夕食をご馳走になった。
「明日は隣近所のばあさんがな、茄子を収穫するそうだ」
と、向かい合わせで食事をしている五郎さんが言った。僕は今日収穫した茄子で作った焼き茄子を頬張りながら、
「そうですか。茄子が流行っていますね。この焼き茄子、最高に美味しいですよ」
五郎さんは僕の相槌にも褒め言葉にも触れず、今日収穫した茄子と揚げで作った味噌汁を一口すすると、
「そのばあさんは、じいさんに去年先立たれてな。子供は遠くで暮らしているから、一人もんなんだよ」
この町は過疎化が進んでいるのだな。そう思いながら僕は筑前煮のにんじんを頬張った後こう言った。
「それはお気の毒に。寂しいでしょうね。この筑前煮も、最高に美味しいです。なんか懐かしい味と言うか……」すかさず五郎さんは「だろ? よし、じゃあ決まりだ。明日の収穫はお前も手伝え」
忘れそうになるが、僕は今旅人である。だからこれ以上留まることはできない。僕は筑前煮の蓮根を食べ、飲み込んでから言った。
「五郎さん。さんざんお世話になっておいて申し訳ないんですが、僕は旅の途中なんです。一箇所に留まるわけにはいきません。でも、この美味しい筑前煮のご恩は忘れません。旅が終わったら、お礼をしにまた伺いますよ」
五郎さんは筑前煮の鶏肉を箸で突き刺し、僕をじっと見つめてこう言った。
「この美味い筑前煮はな、そのばあさんが作っておすそ分けしてくれた物なんだ」
「手伝います」
僕は筑前煮のお礼を、さっそくすることになった。
五郎さんはいつもこんな調子で、僕はいつもこの通りで、結局二週間もお世話になってしまった。この辺りの作物は、みんな僕が収穫してしまったんじゃないか? というほど働いた。さて、自転車も修理できたし、そろそろ行かなくては。
僕は明日出立することを五郎さんに告げた。
「そうか。そういえばお前は旅の途中だったんだな」
僕も忘れそうになっていたけれど、五郎さんは完全に忘れていたんじゃないだろうか?
夕食後、五郎さんは一升瓶を出して晩酌してくれた。二人ともお喋りではないので、のんびりと、ぽつりぽつり話をした。
そろそろ寝ようということになり、僕がコップや食器を流しに運び、五郎さんはそれを洗った。コップや食器を運び終えてしまうと、あまり泡立ちのよくないくたびれたスポンジでコップをゴシゴシと洗っている五郎さんの
背中を眺めていた。きしむ床、薄暗い廊下、しみのある天井、太陽と埃の匂い、それらの持ち主の五郎さん。お互いの存在を確認しあっているように、全てが揃うとしっくりとなじみだした。きっと五郎さんは、たくさんのものを失いながら生きてきたのだろう。そしてここに辿り着いた。五郎さんにとって、ここが到着点なのかもしれない。だから全てがしっくりくるのではないか、そんな気がした。
旅立ちの朝、五郎さんが昨日の残りで簡単な朝食を作ってくれた。食べ終わると僕が食器を洗った。その間僕たちは、当たり障りのない会話をした。今日は天気予報によると一日中晴れているらしいとか、セミがうるさいとか。
まとめてあった荷物を担ぎ玄関を出た。納屋から自転車を出し荷物をくくりつけると、旅らしくなってきた。二週間前まで乗り慣れていた自転車は、懐かしさすら感じる。さて、とうとう五郎さんとお別れである。サンダルを履いて見送りに出てきてくれた五郎さんに、僕は深々と頭を下げた。
「お世話になりました」
「いやいや、こちらこそ楽をさせてもらったよ。旅の途中に長々と引き止めてしまって悪かったな」
「いえ。今度、お礼をしに改めて伺います」
「いんや、巣立った鳥は、巣には帰らんもんさ」
そう言うと五郎さんは照れくさそうに笑い、背を向けて家に入っていった。五郎さんの姿が見えなくなるまで見つめていると、最後に背を向けたまま左手を挙げて挨拶をしてくれた。さて、出発しよう。
二週間ぶりにまたがった自転車に、少し違和感を覚えた。ペダルを漕ぎ出す。軽快に、とはいかずなんだか重々しい。僕は一度だけ五郎さんの家を振り返った。目に焼き付けるように。そして僕は走り出す。
やがて自転車が体に馴染み始めると、五郎さんと出会った林道が見えてきた。僕はもう止まらない。僕だけの到着点に辿り着くまでは。見上げると空は、何十にも重なったような深い青色をしていた。