第二話 ハヤシライス
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車の中は何も無かった。タバコも、飲み物も、ゴミさえ落ちてはいなかった。ただ埃っぽくて、外と匂いは変わらなかった。白髪頭で色黒のこぢんまりとしたおじいさんは、ぽつりぽつりと話をした。名前は五郎さんということ、一人暮らしをしていること、これからとうもろこしを収穫しに行き、隣町の八百屋さんに売りに行くこと、でも最近痛めた腰が痛くて荷台に上げられないこと。
その日僕は、生まれて初めてとうもろこしを収穫した。そして全てを終える頃にはすっかり日が暮れていた。店から出てきた五郎さんは、
「今日はもう遅い。うちに泊まってけ。大したもんは食わせられないが、お礼に夕飯を作ってやるから」
昨日までの僕なら絶対に断っていただろう。一人旅を自分だけの力で完結させるために。しかし今日の僕は違っていた。馴れない作業からくる極度の疲労に、思考は停止していたのだ。断っておくが、テント生活に疲れ布団が恋しかったわけでも、食事に釣られたわけでも、ましてやあわよくばお風呂に入りたいだなんて思ってはいない。断じてない。ただ、五郎さんの好意を無碍に断るのもどうかなぁとか、もっと五郎さんと話してみたいなぁとか、そのほかにも色々あってぇ、
「すみません。お言葉に甘えさせてもらいまぁす!」ってことにしたのだ。
五郎さんは僕の言葉を聞くと、了解の合図なのか下を向き左手を軽く上げた。二人でくたびれた白い軽トラックに乗り込み、町から三十分ほど離れた五郎さんの家へ向かった。
五郎さんの家は、田んぼの真ん中にぽつんとたたずんでいた。家の前の道は狭いながらも舗装されている。ひび割れてはいるけれど……。家は土色をした壁なのかと思ったが、よく見たら埃っぽい白い壁だった。屋根はくたびれたような青色で、まずまずな広さの平屋だった。
となりには錆びれた赤い屋根の納屋が並んでいる。
五郎さんは納屋の前に軽トラックを停車させ、エンジンを切った。
「着いたぞ。ボロ屋だがな、寝泊りぐらいはできる」
そう言うと五郎さんは鍵を抜き、車を降りた。それを見て僕も車から降りた。五郎さんは車に鍵も掛けずそのまま家へ入って行ってしまったので、僕はあわてて荷台にある荷物を引き摺り下ろし、着いて家へ入って行った。
玄関を入ると五郎さんの姿は無かった。電気を点けてくれてはいるが薄暗く、先には黒ずんだ廊下が続いていた。左右には部屋があるらしく襖が閉まっている。廊下の奥の部屋からは明かりが漏れていた。
「お邪魔しまぁす……」
誰も聞いていないのは分かっていても無断で上がる気になれず、小声で誰にとも無く断りを入れてみた。玄関には五郎さんの物とおもわれるくたびれたサンダルが一つと、今まで履いていた長靴がバラバラに脱ぎ捨ててある。僕は遠慮がちに隅へスニーカーを脱いだ。玄関を上がると、永い眠りから覚めたかのように床がきしんだ。壁も床も埃っぽく、外と車の中と家の中は、みんな同じ匂いがした。
明かりの漏れる木の戸を開けると、真ん中にテーブルと椅子が四つ置かれたキッチンだった。五郎さんは料理に取り掛かっているらしく、背中を向けたまま
「荷物は隣の部屋に置くといい。すぐに風呂の準備ができるから、先に風呂に入れるよう準備しとけよ」
「すみません。ありがとうございます」
僕の言葉を聞くと五郎さんは背中を向けたまま、にんじんを持った左手を挙げた。
「明日は茄子の収穫だから、手伝ってけ」
と、向かい合わせに座り食事をしていると、ふと思い出したかのように五郎さんは言った。
僕は旅の途中だ。これ以上五郎さんに甘えるわけにはいかない。
「手伝いたいんですが、旅の途中ですから」
「日本は小さい島だ。そんなに急いでどこに行くんだ?」
僕は思わず笑ってしまった。西へ西へ旅してきたけれど、そうか、島国だったんだ。どんなに走り回ろうが、所詮島の中なのだな。この五郎さんの一言で、僕の明日は決まった。
隣の部屋に敷かれた布団へもぐりこむと、布団は埃っぽい太陽の匂いがした。仰向けになり、しみがあちこちに付いている天井を眺めた。素朴で美味しい食事に満たされた腹、熱めの風呂でほてった顔、馴れないとうもろこしの収穫で疲れた体。どれも変わりなく僕のものであり、僕の感覚だった。だが頭だけは、何かを無理やりたくさん詰め込まれたように重くなっていた。まぶたは眠くて開かないというのに、頭の中に詰め込まれた何かは僕を容易に寝かせてはくれない。頭に詰めこまれた何かはしっかりと僕の意識を掴んでいたのだ。彼女の記憶が甦る。
小さな印刷会社の事務は彼女一人だったため、僕より帰りが遅い日もあった。食事は先に帰った方が作ることになっていたので、帰るときは携帯電話のメールで連絡しあった。その日は彼女が先に帰宅し食事を作ってくれていたのだが、僕が家の最寄り駅に着いたとき、彼女から携帯電話に電話があった。
「もしもし。どした?」
僕が電話をとると、電話の向こうで何かを炒める音が聞こえてきた。
「あ、ごめん、あのね、ハヤシライスの、ルーを、買ってきて!」
電話を片手に炒め物をしているらしい。
「分かった、ハヤシライスのルーだね。夕食が何か、楽しみだよ」
「そうね。野菜を炒めて、煮込んで、ハヤシライスのルーを入れたら何ができるかしら?
楽しみにしていてね」
僕は帰り道にあるスーパーへ寄った。スーパーはあと三十分で閉店の時刻となるらしく、客はまばらだった。入り口を入るとすぐにケーキコーナーがある。閉店間近のケーキコーナーは、今日の分をさばくために全品が五十円引きとなっていた。たまにはケーキを買って帰るのもいいな。五分ほど迷って、チーズケーキとチョコレートケーキを一つずつ買うことにした。
「ただいまぁ」
「お帰りなさぁい」
僕を玄関まで迎えに来てくれた彼女に、ケーキの箱を見せた。
「わぁ! ケーキ? 今日は記念日なんかじゃないし、どうしたの?」
「安かったから買ってみた」
「嬉しい! ケーキ大好き! でも、特別な日以外に買うとケーキの価値が下がりそうでなかなか買えないのよね。だからこそ、突然貰ったりすると嬉しいの! 中を見てもいい?」彼女は僕の予想以上に、突然のケーキを喜んでくれた。
「もちろん」
彼女はケーキを受け取ると嬉しそうに、でもケーキを壊さないようすり足で急いでキッチンへと向かった。
「チョコレートケーキ! こっちはチーズケーキ?」
「当たり。好きなほうを一つだけ、ひぃとぉつぅだぁけぇ、選んでいいからね」
「ふふふ、もう! 二つも食べたりしないわよ! さて、ケーキは食後の楽しみにして、食事にしましょう。で、ハヤシライスのルーは?」
「えっ!? えーっと。ケーキの箱の中に入ってなかった?」
「チョコレートケーキとチーズケーキしか入ってなかったわよ。まさか買い忘れ……」
「あっ! じゃあその黒い方がハヤシライスのルーじゃないかな」
「へぇ。私にはチョコレートケーキにしか見えないけど?」
ぼくは焦りを隠しながらひきつった笑みを浮かべ、
「新商品。かな?」と言ってみた。が、
「へぇ……」と、彼女は冷めた目で僕を見つめた。だよね。騙せるわけはないよね……。僕は玄関の方へ後ずさりしながら言った。
「冗談です、すみません……」
彼女はいじめっ子のスイッチがオン。
「で、ルーは?」
「え〜と、今、買ってきます」
いじめっ子トップギア。
「三分以内に帰ってきてね」
「無理です! 往復するだけで五分は……」
いじめっ子フルスロットル。
「ただいま五秒経過……」
時計を見ると、今ちょうど閉店する時間だった。まずい。まずすぎる。僕は玄関を飛び出した。
「ただいまぁ……」
「買ってきた?」
「僕はハヤシライスより、コンソメを入れて野菜スープにしたほうががいいと思う。だってさ、ほら、ケーキのカロリーが高いからさ、ここは低カロリーの野菜スープにした方が体にいいと思うんだ。例えばポトフなんてどうかな」
彼女は笑いをこらえた表情で言った。
「買えなかった、のね?」
「すみません……」
結局僕たちは野菜スープを食べた。とてもたくさんの野菜スープを。
彼女は笑って許してくれた。その代わり一年くらい笑われ続けたっけ。あの時焦っていた僕の顔は、彼女いわくとても面白かったらしい。
僕は翌朝、五郎さんに起こされた。いつの間にか眠っていたのだ。