パンク
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十年勤めた会社に長期休暇を申請し、僕は自転車で旅に出た。
旅は大学生の頃からの夢だった。でも当時は時間があっても金は無く、夢のまま終わらせるしかないと思っていた。今旅に出るきっかけとなったのは、五年間同棲していた彼女が突然家を出て行ったことだった。
僕たちは運命的な出会いだったわけじゃなく、情熱的に愛し合ったわけでもないし、絶世の美男美女でもない。ありふれた出会いに、マンネリ化したデート、そして平凡な顔立ち。だけどそれで幸せだった。と、感じていたのはどうやら僕だけだったようだ。彼女は出て行き、僕は取り残された。
旅に出てもう少しで三週間。現時刻、午前七時三十五分。僕は真夏の日差しを遮ってくれる、小さい田舎の林道脇で腰を下ろしていた。休憩ではなく、この旅で三回目のパンク修理中だ。日差しは遮られているとはいえ、真夏の太陽はやはり暑い。汗が幾筋ともなって流れ落ちる。修理する手を止め、林道脇の草むらに仰向けに寝転んだ。
自転車のパンクといえば、突然家を出て行った彼女もパンクをしたことがあったっけ。
「ただいまぁ……」
不機嫌そうに鍵を開けて入ってくる彼女に僕は「お帰り。どうした? なんかあったの?」と聞いた。彼女は鍵も閉めず靴も脱ぎ捨て、傍らに佇んで彼女の言葉を待つ僕の存在なんか気にしない様子で、乱暴に家に上がった。ダイニングキッチンを素通りし、リビングにある二人掛けのソファにドスンと投げやりに腰を下ろす。天を仰ぎ、おおげさに大きなため息をついた。
「仕事が終わって自転車に乗ったの。なんかやたらにペダルが重い気がして調べてみたら、後輪がパンクしていたのよ」
「それは気の毒だったね。じゃあ、歩いて帰ってきたの? たぶん歩くと三十分くらいかかるよね」と話しながら僕は彼女の横に座った。
「気の毒なんて言葉じゃ足りないわ。だってパンクの原因は、釘が刺さっていたのよ!」
「刺さったのに気が付かなかったか、誰かのいたずらか」と僕が言い終わらないうちに彼女は僕の言葉を遮り「絶対いたずら!」と言った。
「なぜそう思うの?」
「近くに私立の小学校があるの。私の通う小さな印刷会社は、その小学校の通学路上にあってね、きっと勉強に疲れた小学生がやったに違いないわ」
時々彼女は物事を頭ごなしに決め付けるということを僕は知っている。
「近くに小学校があるっていうだけで犯人にされてしまうのは、少し気の毒なような気がするな」
「いいえ、初めてじゃないわ。前にも職場の人の自転車に釘が刺さっていたことがあったのよ」
これ以上彼女に何か言っても逆撫でするだけだ。なぜなら彼女は、僕の話なんか聞いてはいないし、むしろ耳障りらしい。時々彼女はヒステリックな怒り方をする。だけどそんな時の対処法を僕は知っている。
彼女はまだ聞き取れないような声で何か言っていた。聞き取れないがたぶん、なんで自分の自転車を狙ったのか納得がいかないとかそういったことだ。
ソファの横には背の低い台が置いてあり、下には電話帳が、上には電話が置いてあった。彼女は電話帳を手に取り、自転車屋を調べ始めた。
僕は大学生の頃、趣味が自転車だった。バイトで貯めた金で、競輪選手が乗るようなドロップハンドルの自転車に乗っていた。あの頃はよく自転車を分解しては好きなパーツを組み込んだものだった。
「僕が直すよ」それを聞いて彼女は一瞬電話帳をめくる手を止め僕の顔を見上げた。
「ダメ」それだけ言うとまた電話帳をめくり始めた。
「信用できない? これでも僕は」また彼女が僕の言葉を遮る。しかし今までのように威圧的な遮り方ではなく、諭すような遮り方で僕を見つめながら話し始めた。
「違うの。例えば、ね、あなたが私の自転車を直すとするじゃない? 信用はしているし、あなたが自転車に詳しいことも知っているわ。でも万が一上手く修理できていなくて、それで私がケガをするようなことがあっても私はあなたを責めることはできないの。だってあなたはよかれと思ってやってくれたんだもの。でも自転車屋さんに頼んで同じ過ちをした場合、私は自転車屋さんを訴えられるでしょ」
「なるほど。つまりぼくという無能な人間には直してほしくないんだね」
一瞬間があり、彼女は笑い出した。
「ほんとだ、そう聞こえるわね。でも、ごめんなさい、悪気があったわけじゃないの。その、ただ恐いのよ」
「またパンクするのが?」
「そうね。またパンクして職場から三十分の道のりを歩くのが」そう言い終わると彼女は笑った。彼女の笑顔を見て僕も笑った。
彼女は笑うと機嫌が元に戻るのだ。これが、最善の対処法だということを僕は知っている。そして僕はやっぱり信用されていないみたいでちょっと傷ついたけど、彼女が笑顔に戻ったのだからよしとするか。
結局、あの後彼女は自転車屋さんにパンクを修理してもらいに行ったんだったなぁ。
暑さは相変わらずだったが、僕はまだ寝転んでいた。するとかすかな音が聞こえてきた。どうやら今来た道から車が来るらしい。音は次第に大きくなる。僕は長旅で疲れていたし、旅に出て初めて彼女を思い出し少し気が滅入っていたので起き上がる気になれず、そのまま寝転んでいた。車はくたびれた白い軽トラックで、ガタガタと揺れながら土煙を上げて僕の前を走り去っていった。が、五メートルほど過ぎたあたりで停車した。自転車で旅をしていて、時々疲れては道端にへたりこんだり、今回のようにパンクして道端に座ったりしていると、心配して声を掛けてくれる親切な人がいる。きっとこのくたびれた軽トラックの運転手も、そんな優しい人の一人だろう。
車のドアが開き、中から白髪頭で色黒のこぢんまりとしたおじいさんが降りてきた。頭は角刈りで、くたびれて少し土色をしているTシャツに、土が付いた紺色のニッカズボンと、乾いた泥だらけで白っぽくなっているがおそらく黒かったであろう長靴を履いている。
「おい、生きてるか?」
やっぱり心配してくれている。僕は声を掛けられた時、「大丈夫です。休んでいるだけですから」と言っている。親切はとても嬉しいが、せっかく一人旅なのだから誰の手も借りずに自分だけの力で旅がしたかったからだ。
たいていこれを聞いた人は去って行く。だからこの白髪頭で色黒のこぢんまりとしたおじいさんも去って行くだろう。
白髪頭で色黒のこぢんまりとしたおじいさんは言った。
「なら、ちょっと荷物運ぶの手伝ってくれ」
僕は一瞬何を言われたか分からなかった。しかし白髪頭で色黒のこぢんまりとしたおじいさんは、僕の荷物である自転車と、振り分け式のバッグ二つ、スポーツバッグ一つを荷台に積み始めたので、なんとなく流れで助手席に乗ってしまった。