ここにいる
『もうすぐつくー』
たった七文字のメールに、ここまで心が踊ったことはなかった。
駅の改札前に立ち、少女はケータイを一心に覗き込んでいる。
肩まで伸ばした髪は淡い栗色。自腹を切って、初めて色素を抜いてきた。グロスも少しだけ高いものを買ってみた。今日だけのために、一ヶ月分のお小遣いはほとんどなくなっていた。
せわしなく電話のボタンを押す。柱によりかかっているが、両肩は動きを止めようとしない。少し口紅を塗りすぎた口元は、花のようにふわあっと開いたと思ったら、つぼみのように固くすぼめる。忙しく変わり続ける多感な表情は、あどけない感情をまとめて塗りたくったような、複雑な色合いを描いている。
ありふれた、異性とのはじめてのデート。
相手が「インターネット上で出会った人」ということを除けば、花も羨む思春期の一ページそのものだ。
ケータイを閉じて胸元に引き寄せる。
高い天井を見上げ、深いため息をつく。
少女が彼を知ったきっかけは、とあるマイナーなバンドに関する会話。なにげなく語っていたら、その人が話の中に入ってきた。
不思議と気が合った。そのバンドだけじゃなく、いろんなことで、ささいな日常に関することでも、言葉を重ねていた。ドラマチックな出来事はなにもない。気がついたら彼と話す日常があって、気がついたら彼のことを考えていて、気がついたらその思いは重かった。
メールアドレスを交換したのはつい先週のこと。その時の自分は、ここまでなるとは考えすらしていなかった。
ちょっとだけ、早めなのかな。
そう思う自分に下心がなかったと言うのは、嘘になるのだけれども。
なだれ込んでくる足音に全身が反応を示す。
階段を降りて、さまざまな人たちがこちら側へ向かってくる。
あの中に、いるのかな。
改札の向こう側を眺める。
胸に渦巻く気持ちが、期待一色じゃないことに、最初は不安をおぼえていた。
『改札でたすぐそこにいるよー』
メールの返信の一つ一つを、これほど心待ちにしたことはなかった。
窓の向こうをもどかしそうに眺めながら、少年はケータイをズボンにポケットにしまう。
耳が少し隠れるくらいに伸びた髪は、ところどころ人工的な跳ね方をしていて、不自然なくらいに光を反射している。整髪剤を使ったのは初めてだった。
一度しまった電話を再び取り出して開く。電車のアナウンスを聞きつつも、届いたメールを前にして、硬直しながらも、時折小さな笑みを漏らす。ボタンを押そうとする親指はなかなか到達せず、来たり戻ったりをくり返し、数字の上で踊っている。
彼女も言っていたが、異性とデートなんてはじめて。
ましてや、「インターネット上で出会った人」と会うなんて、どこかの舞台から飛び降りる気分だ。
結局、一回もボタンを押さずに再びケータイをポケットへ押し込む。
まもなく目的地に到着する、という車内のアナウンスを聞き、背筋を伸ばしてしまう。
最初は、同じ趣味の人、としか考えていなかった。異性だと知っても、特に変わらないだろうと思っていた。瞬間で惚れてなんていない。気がついたら彼女と話す日常があって、気がついたら彼女のことを考えていて、気がついたらその思いは重かった。
メールアドレスを交換して一週間。言い出すのに、どれだけの勇気を投げ打ったかおぼえていない。
まちがって、いないよな。
下心はあったものの、ここまで早い展開になることは考えてもみなかった。
流れ込んでくる騒音に体が跳ね起きる。
もまれながらも、様々な人であふれ出しそうな構内に足を踏み出す。
どこに、いるんだろう。
下見をしていなかった不安だと、最初は思っていた。
『駅広くて迷った。ちょっとだけ時間かかるかも』
彼からの連絡がくる間に、少女の胸はびりびりとちぎれそうになっていた。
彼の顔を知らない。それはさして問題じゃないと思っていた。
人、人、男、男、男、おとこ、オトコ。
どれが彼なのか、分からなかった。
同年代ということは知っている。だけどそれ以外はほとんど知らない。彼女が知っている「彼」は、インターネット上の名前と、そこで使っているアイコン――本人となにも結び付かない画像だけだった。
そこまで考えて、一つの悪い予想が立ってしまう。
本当に、同年代なのかな?
顔が見えないネット上で、嘘をつくのはあまりにも簡単だ。今まで嘘をついたことがなかった彼女だって、何回か嘘を言っている。
あの人も、嘘をついていたら。
彼が自分と同年代という保証は、自分の中にしかない。
何度目かわからない足音の波。
顔を上げるだけで、首をしめつけられているよう。
視界に、ふと入ってしまった、オトコ。
頭はバーコード。上下は灰色。不格好なメガネ。膨れ上がった腹。
この中年が、「彼」ではないと、言い切れる?
とっさに右手で口をおさえる。
想像もしたくなかったものが、溶岩のように押し寄せてきて、せきとめられない。
『ごめ ちょっと気分悪くなった。動くね』
改札を出た直後に届いたいびつな返信が、押し上げてくる不安を加速させる。
顔を知らない彼女を探すなら、着いたと連絡して、どこにいるとか、どんな格好なのかを聞き出せばいいと思っていた。気分が悪いならぜひ休んでほしい。戻ってくるまで待てばいい。
同年代ということも分かっている。心配することなどないはずなのに。
何度も何度も首を横にふるう。
手でつかめるなら、髪の毛の何本か抜けてもいいくらいに、その疑念をひきはがしたい。
もどかしさは不安を増幅させるだけだった。
本当に、彼女はいるのか。
彼女は家にいて、自分の道化っぷりを楽しんでいる、というのなら、まだ許せるとすら思える。
もし、彼女が実在しないとしたら。
少年の中の「彼女」は、インターネット上で発していることばと、飼い猫と思われる写真を用いたアイコンだけで作られている。
それらのパーツが、嘘偽りないものだと言い切れるのだろうか?
自分が今まで「彼女」だと思って見てきたもの全てが架空だとすれば、今まで一体なにとふれあっていたのか?
いま、一体なにを追い求めている。
数えきれない人が交錯する中で、どこにもいない存在を探しているかもしれない自分。
目の前に人はいない。
本当に別の場所へ移動しただけなのか。はじめからここに立つ少女などいないのか。
足元を、捨てられたチラシが吹き流されていく。
三十分くらいの間、少女と少年の間には一通もメールがやり取りされなかった。
『大丈夫?』
沈黙を破ったのは少年だった。
さらに五分ほどの空白。
『駅前のマックにいる』
それからしばらく連絡は途絶える。
口紅がほとんど落ちていることにようやく気がつく。
そんなに顔を洗っていたつもりは、少女にはなかった。
内から湧いてきた強烈な不快感のせいで、なにをしていたか、そもそもおぼえていない。
店内の陽気なBGMとやかましい話し声が混ざり、縮こまって座っていれば、この体が簡単につぶれて紛れ込めてしまいそうだと思った。オレンジジュースには一口も手を付けていない。
もう帰ろうか。
時間を確認しようとケータイを開く。
新着メール、一件。
『ついたよ』
一瞬、その四文字が読めなくなった。
ハンバーガーを頼んだのが自分だったことを忘れていた。最初に目についた、百円のものだ。
混雑の中で席につく苦労を味わって、しばらくは呆然と包み紙を眺めていた。
あたりを見回す。少年と同年代の少女はたくさんいる。
左から高校生たちのやかましい話し声が耳にたたきつけられ、右から喫煙スペースの鼻につく臭いが押し寄せてくる。
なんでここにいるんだろう。
ハンバーガーに右手を伸ばそうとすると、電話が震えた。
とっさに持ち替えた手に、背骨に、心臓に、足に、振動が伝わっていく。
『ごめん なんか こわくなった』
スペースが使われる彼女の文を、見たことがなかった。
少しだけ震えがおさまる。文面の形になのか、それとも内容なのか、どちらに安心しているのかは分からない。
だけど、彼女は。
『大丈夫だよ』
たった五文字を打つ時間が、重く、濃く流れていく。
『ほんとに、ごめんね』
ボタンを押しながら、顔を伏せる。
誰にも見えないように、でも悟られないように。まぶたを強く閉じて、送信したことばを頭の中で何回も何回も唱え続ける。
なんにも見えない。だけどまだ見ぬ彼の姿を必死に見ようとする。見ようとしても、にじんでしまう。それでも、見ようとした。
握りしめたケータイがうるさく電子音を鳴らす。
『僕も、こわいから』
そんな言葉を、彼は私にかけてくれる。
疑いはまだある。怯えだってまだ残っている。だけど、彼だって。
顔を見せないことに、自分たちは慣れてしまっていた。今まで信頼してきた相手なのに、こんなにも顔を見せることがこわい。
想像とはちがうことへの恐怖。
実在していないことへの恐怖。
「自分の中の相手」を守りたい。
だけど――それは本当に、「好き」なのか?
『ここに、いるんだよね』
少女は、少年へと問いかけた。
『僕は、ここにいるよ』
少年は、ゆっくりと答えた。
『ここに、いるんだよね』
少年は、少女へと問いかけた。
『私は、ここにいるよ』
少女は、ゆっくりと答えた。
バカバカしいぐらいにロマンチスト。普段の、インターネット上ではありえないやりとり。ボタンを押しながら、少しだけ笑みがこぼれたほどだ。
だけど、自然と受け入れられた。
『ねぇ、写メ交換しよ?』
ハンバーガーの包み紙を丸めながら、少年は、いつもの彼女を見たような気がした。
『顔?』
たった二文字。返ってくる軽さを、少女は何年ぶりにも感じたような気がした。
『手、あたりにしない?』
入力する指遣いが軽快だと思えるようになった。だけど、いつもの軽さとはちがう。それはきっと向こうだって。
『じゃあさ、手のひらに名前書こう』
突飛な返し方も、いつもなら当たり前。そんな雰囲気が、今ではとても暖かい。
ペンを取り出し、大きく名前を書いていく。
申し合わせたわけでもなく、いつものネット上の名前と、本当の名前。
メールを閉じて、カメラを起動する。
相手に伝える最初の自分が、小さなフレームへと収められていく。
もうひとつの撮影音が、どこかで鳴った。
もう恋愛モノなんて書かない