第1話 空のない街
「寒くない?」
朝飯を運んでいた女が、鍋からスープをよそいながら言った。
答えたのは、毛布を膝まで巻いた老人だった。
「年寄りはいつだって寒い」
「昨日は言ってなかったじゃん」
「昨日より年寄りになった」
食堂に小さな笑いが起きた。
彼だけは笑わなかった。
椅子を離れ、壁に掌を当てていた。塗装の剥げたコンクリートは朝なら冷たい。それ自体は珍しくない。ただ、今日は指先から逃げていく熱がいつもより早かった。
掌を少しずらす。やはり冷たい。
「おい。何してんだ?」
食器を返しに来た男が足を止めた。
「静かに」
「朝っぱらから壁に話しかけてる奴に言われたくねえよ」
彼は返事をせず、今度は耳を寄せた。
壁の向こうを、低い振動が通っていく。ごう、と一度。短い間を置いて、もう一度。
いつもなら、そのあとに小さな金属音が混じる。
来ない。
もう一周期待った。やはり、来なかった。
「工具、取ってくる」
「飯は?」
「あと」
食べかけの皿を残して立つと、背中から「またかよ」と声が飛んだ。聞かなかったことにした。
三番線居住区の朝は、彼が食事を終えるのを待ってはくれない。
昔はここを電車が走っていたらしい。本物の列車がこの地下を走るところを、彼は見たことがない。線路だった窪みには床が張られ、食堂と市場が並び、ホームの端には洗濯物が吊られている。古い案内板には行き先の代わりに、今日の配給量と診療所の受付時間が手書きされていた。
工具箱を提げて歩いていると、上着を着たまま子供が二人、彼の脇を駆け抜けた。
「走るな!」
市場のどこかから怒鳴り声が飛ぶ。
二人は素直に歩いた。三秒ほど。
また走り出した片方が、角を曲がる前に盛大なくしゃみをした。
彼は足を止めず、壁際の点検口へ向かった。やっぱり寒い。
留め具を二つ外したところで、背後から重い足音が近づいてきた。
「お前さあ。また勝手に始めたろ」
振り返ると、友人がもう一つの工具箱を持って立っていた。
「壊れてる」
「見りゃ分かる。そうじゃなくて、人を呼べって話だよ。おばちゃんに『あいつまた潜ったぞ』って言われて来たんだからな」
「呼んだら来たのと同じだろ」
「全然違う」
友人は呆れながらも工具箱を床へ置き、開いた点検口を覗き込んだ。
「どこだ?」
「二系統目。たぶん奥。弁の音がしない」
「たぶんで人を呼ぶなよ」
そう言いながら友人も壁へ耳を当てた。軽口が消える。二度の低い振動を聞き終えてから、眉を寄せた。
「……ほんとだ」
「だろ」
「嬉しそうにすんな。寒いのはこっちも同じなんだぞ」
二人で点検口を開けきった。普段なら顔へ触れるはずのぬるい空気が、今日は出てこない。
友人が先に片足を入れたので、彼は肩を掴んだ。
「俺が行く」
「狭いぞ。昨日も肩ぶつけてただろ」
「あれは工具が引っかかった」
「肩だよ。見てたからな」
彼は友人を脇へ押しやり、暗い穴へ身体を滑らせた。
内部は、人ひとりがどうにか通れる幅しかない。頭を下げる場所も、右肩を引かないと抜けられない曲がり角も、身体の方が覚えている。照明を向けなくても、左手を伸ばせば太い配管があり、その反対側には細い管が三本走っていた。
上の一本だけは触るな、と昔から言われている。
理由は知らない。必要がないから、聞いたこともなかった。
「まだか?」
後ろから友人の声が響いた。
「まだ。近いから押すな」
「押してねえよ。ケツしか見えねえだけだ」
「見るな」
「他に見るもんねえんだよ」
彼は太い管を指の背で叩いた。
こん、と乾いた音が走り、少し先から鈍く返ってくる。もう一度叩き、返り方を聞いた。
「そこ、押さえて」
「どこだよ」
友人の手が肩越しに伸びてくる。彼はその手首を掴み、接続部の脇へ置いた。
「ここ。動いたら言って」
「最初からそうしろ」
文句を言いながら、友人の指はきちんと管を押さえた。
古い接続部を少し緩める。流れはある。詰まってもいない。ただ、熱が足りない。
彼は上流側の弁を顎で示した。
「右へ少し。ゆっくり」
金属が軋み、流れの音が変わった。冷えていた管の表面へ、じわりと温度が戻ってくる。
「来たな」
「まだ」
掌を当てたまま待つ。
次の瞬間、通路のずっと向こうで甲高い警告音が鳴った。
二人の手が同時に止まった。
「……別のとこ死んだぞ」
「分かってる。戻す」
「だから勝手に触るなって言ってんだよ」
「今それ言う?」
「今だから言ってんだよ」
弁を元へ戻すと、警告音は消えた。同時に、掌へ戻りかけていた暖かさも引いていった。
彼は狭い通路の中で息を吐いた。友人も、今度は急かさない。
耳を澄ませる。
低い振動が二度。その奥に、ごく小さな震えが混じっていた。流れそのものではない。何かが、流れに合わせて揺れている。
照明を下へ向けると、後から足された細い管が、古い配管へ無理に沿わせるよう固定されていた。
「こっち持って。さっきの場所じゃない」
「先に言えよ」
友人に細い管を支えさせ、彼は古い留め具をほんの少し緩めた。管が自重で沈み、下から赤茶けた欠片が一つ落ちた。
「なんだ?」
「錆。たぶん、ここが噛んでた」
「たぶん禁止な」
「じゃあ見てろ」
留め具を戻し、今度は弁を一気に開かず、流れの音を聞きながら少しずつ回した。
ごう、と低い振動。
そのあとに、かすかな金属音が鳴る。
間を置いて、もう一度。
いつもの音だった。
管の表面がゆっくり温まり、遠くの警告音は鳴らない。
「直ったな」
「もう二周期」
「お前の『念のため』、いつも長いんだよ」
そう言いながら、友人も先には出なかった。
二人でしゃがみ込み、狭い暗がりの中で、同じ音をもう二度聞いた。
居住区へ戻るころには、市場の空気が少し変わっていた。上着を脱いだ人が増え、食堂の入口では朝の女が腕を組んで待っている。
「やっと来た。あんたのスープ、もう冷めたよ」
「温めればいい」
「誰のせいだと思ってんの」
「暖房」
「あんたの朝飯の話!」
友人が横で吹き出した。
さっきの老人は毛布を椅子の背へ移していた。走っていた子供の一人は上着を腰に巻き、また市場を駆け抜けていく。
「走るな!」
同じ怒鳴り声が飛ぶ。
子供は一度歩き、角を曲がる前にまた走った。
「平和だな」
友人が言った。
「何が」
「暖房が直ったら、怒られる内容まで元に戻った」
彼は点検口の方を振り返った。壁の奥から、聞き慣れた振動が届いている。
「夕方、もう一回見る」
「終わり。今は飯」
背中を押され、食堂へ戻された。
朝の皿はそのまま残っていたが、女は冷えたスープを取り上げ、新しいものと交換した。
「これでいいのに」
「こっちがよくない。冷たいもん出したって言われる」
「誰に?」
「私に」
「自分じゃん」
「そうだよ。だから黙って食べな」
湯気が上がっていた。
ようやく椅子へ座り、一口すする。舌が熱さに驚く。その向こうで、壁の中の配管がいつもの順番で鳴っていた。
朝と同じ場所なのに、老人は毛布を外し、子供は上着を脱いでいる。誰も暖房が直ったことを祝いはしない。直っているのが普通だからだ。
二口目を運ぼうとしたところで、食堂の入口から若い男が駆け込んできた。
「診療所から! 誰か、運ぶの手伝ってくれ! 薬が届いた!」
食堂のあちこちで顔が上がる。
「地上便か?」
「そう! 今来た!」
彼の手が止まった。
地上。
周囲では椅子が引かれ、何人かが立ち上がっている。その生活音の中で、その言葉だけが少し遅れて耳に残った。
向かいの友人が、嫌そうな顔をした。
「お前、まさか今すぐ行くとか言わねえよな」
彼は立ちかけた腰を戻した。
「……食ってから行く」
「ほんとか?」
「ほんと。薬は逃げないだろ」
友人はまだ疑っていたが、彼はスプーンを取り直した。
頭上には、いつもの低い天井がある。その向こうに土があり、さらに上に、見たことのない地上がある。
そこから来た薬を、彼はまだ見たことがない。
壁の中で暖房が鳴る。
彼は熱いスープを飲みながら、食べ終わったらどの箱から運ぶべきかを、もう考え始めていた。




