奏の雨
「どうぞ、当店自慢のミルクココアです」
私の目の前にふわふわと湯気が立っている、ミルクココアが置かれた。
「……ありがとうございます…」
私は小さな声で、お礼を言う。
香奈さんに静子さんとプレゼントを渡しに行った。なんとかプレゼントは香奈さんの元へ渡ったのだが、同時に静子さんが跡形もなく消えてしまった。
私は衝撃的な光景を見て、しばらく動けなかった。
目の前で人が消えてしまった。
静子さんの体温も、輪郭も、服も全て跡形もなく消えた。
夢なのではないか?本気でそう疑った。
静子さんは、死んでいたのか、それとも今、死んだのか。
私は混乱して、気づいた時には走って、雨宿りに戻ってきていた。
私の様子を見て、雨彦さんはひどく心配してくれて、席まで紳士のようにエスコートしてくれた。
思いの外、何も聞かずにココアを出してくれた。
……そして、今に至る。
「……で、何があったんだよ」
カウンター席に座っている珠雨が脚と腕を組んで、遠慮なく私に聞いてきた。
私は黙り込んでしまった。雨彦さんも何も言わずに、ただじっと私を見つめている。
言ったところで、信じてもらえるだろうか。
当の私も半信半疑なのに。
でも、二人は私の言葉を待っているのか、何も言う気配がないので、私は恐る恐る口を開く。
「……静子さんが…消えた……」
しんと静寂が落ちる。その沈黙の時間が私はあまりにも長く感じて、私は伏せていた顔を少し上げてみる。
二人は、思いのほか驚いた様子はなかった。
珠雨は、地面を睨みつけて何か考えている様子で、雨彦さんは表情を変えずにただじっと少し俯き気味に一点を見つめていた。
「……あ、あの…」
私は二人の様子を不思議に思って、声をかけた。
すると、雨彦さんは困ったように笑った。
「……美雲ちゃん、静子さんのことは心配しないでいいよ」
私は二つ瞬きをする。
「なんで……」
「だから、このことは一旦考えないで大丈夫だからね」
雨彦さんは私の言葉を遮るように言った。
雨彦さんは、たまにこんな無言の言葉にできない圧をかけてくることがある。
笑顔は優しいが、これ以上踏み込むなと言っているように感じる。
そんな雨彦さんには、不思議と逆らえなかった。
逆らったら普通ではいられないような、そんなわけのわからない感覚がした。
珠雨もきっと同じだろう。雨彦さんはそんな不思議な力を持っている気がする。
また沈黙が落ちた時、扉が開いて一人の男の子が入ってきた。
中学生だろうか。近くの中学の制服を着ているので、きっとそうだろう。
「いらっしゃいませ」
雨彦さんはにこやかに言った。
すると、驚いたのか男の子の肩が跳ねた。それからどこか安心したような表情を浮かべた。
「いらっしゃい」
珠雨もいつの間にかキッチンの方にいた。
私も慌てて立ち上がる。
「い、いらっしゃいませ!」
「こちらへどうぞ」
雨彦さんは、窓際の席へ男の子を案内した。
「……ど、どうも」
そこで初めて聞いた男の子の声は、中学生らしい、まだ子供の面影が残った声をしていた。
男の子が椅子に座ると、黒髪がさらりと揺れた。
ずいぶんと整った顔立ちだ。でも、男の子の表情は暗くて、生気がない。
……何かあったのだろうか?
「ご注文は何になさいますか?」
雨宮さんがメニューを男の子に渡す。
「……じゃあ、この“ミニストロベリーオレ“お願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
雨彦さんがキッチンへ行こうとするより早く、珠雨が用意し始めていた。
「珠雨、ありがとう」
「ん」
あめたろうがひょこっと奥から顔を覗かせる。
「あ、ご飯がまだだったね。美雲ちゃんちょっと任せてもいいかな?」
「え、あ、了解です!」
雨彦さんは男の子ににこやかに一礼して、あめたろうを連れて奥に行った。
私はそれを見送ると、男の子に目を向けた。
男の子は、机をじっと見ている。何か、悩んでるように見えた。
私は無意識にその向かいの椅子にそっと座る。
「ねえ、君、名前はなんていうの?私、美雲!」
怖がらせないように優しく、明るく笑いかけた。
男の子はびっくりして、顔を上げた。
「…………奏、です」
少し間はあったが、答えてくれた。
「奏くん?よろしくね!」
奏くんは、ぺこっとする。
「……なんか悩んでる?」
「え……?」
「あ、勘違いだったらごめんね…!いや、なんか元気なさそうだし……」
奏くんはまた目を伏せた。やばい、失敗したかも。
少し沈黙。聞き方間違えたかな…というか、初めましての人に悩み聞かれたくなかったかな……。
静子さんのこともあり、私の中にそんな思考が生まれた。
「言いたくなかったらいいんでけど……」とぼそっと言った後、少しして、奏くんは口を開いた。
「………親と、喧嘩しちゃって」
年相応の悩みだ。親との喧嘩は確かに辛いだろう。
「そっか……よければ、どんな喧嘩とか、教えてくれない?ざっくりでいいから」
「……喧嘩の内容は、そんなに大したものじゃないです。ただ言い合いになって、イライラして、強く当たっちゃって……」
私はまた「そっか…」と相槌を打つ。
その時、奏くんの前に淡いピンク色のいちごミルクが置かれた。
甘い匂いが漂ってくる。
「ミニストロベリーオレでーす」
「あ、ありがとうございます……」
珠雨はお盆を持ったまま、近くの二人がけの席に座った。
「親と喧嘩、俺もよくしたわー」
珠雨の唐突な発言に、私も奏くんも同時に珠雨を見る。
珠雨は奏くんからの視線を確認すると、奏くんを見た。
「で、謝ったのかよ」
奏くんはその問いかけに目を伏せる。
「……まだ。謝ろうとしたけど、無理だったんです」
珠雨は眉を顰める。私も不思議に思って、奏くんを見る。
「なんで」
「……母さん、俺のこと見えてないみたいで」
私は、絶句した。
「……見えてない…そうか…」
珠雨は分かりきっていたことのように、反応した。
私は、珠雨のように冷静ではいられなかった。
静子さんと同じような状況。
「……それ、お母さんが気づかなかったとかじゃなくて……?」
そうであってほしかったが、そんな願いはすぐに打ち砕かれた。
「絶対あれは見えてなかったです。家に帰って、母さんの目の前に立って、言ったのに……」
奏くんは、拳を握りしめた。
「俺の方を見向きもしなかった……!いくら怒ってるからって、息子を無視するなって言ったんだ!でも、その声にも反応してくれなかった!!」
奏くんの声が、息がだんだん荒くなっていく。
「か、奏くん……落ち着いて……」
私はなんとかそういうが、奏くんは止まらない。
「落ち着けるわけないじゃないですか!俺は、どうしちゃったんですか?何か知ってるんですか?知ってるなら教えてくださいよ!!」
「それは……」
私は何も言えなくて、曖昧な、意味を為してない文字しか出たこない。
こんなに苦しそうな人が目の前にいるのに、うまく言葉をかけてあげられない。
手を伸ばしたくせに、ちゃんと掴みきれてない。
「……落ち着け」
珠雨の声が静かに、はっきり響いた。
「あんたも!!同じ経験したからって、知ったような態度とんなよ!!」
その言葉が店内に響く。奏くんは肩で息をしている。
少しの沈黙の後、珠雨がため息をついた。
「……今のままじゃ、親に謝るのは無理だな」
ピシャリと珠雨は言い切る。
「……は?」
「言っておくが、あんたがどれだけ頑張ったところで、今のままじゃ母親はあんたに気づかない」
ストレートな厳しい言葉。
「珠雨!」
私は流石に見てられなくて、止めに入ろうとしたが、奏くんがそれより早く席を立った。
そして、何も言わずに出て行ってしまった。
苦しそうで、泣きそうな横顔がチラッと見えて、私は胸が痛んだ。
その時、雨彦さんが奥から慌てて出てくる。
「ど、どうかしたんですか?」
私は雨彦さんに目も向けず、珠雨を真っ直ぐ見た。
「さっきのなんなの?なんであんなこと言ったの?奏くん、泣いてたじゃん!」
珠雨は黙ったまま、腕を組んでいる。
私は何も言わない珠雨に腹が立った。
「ねえ、なんで黙ってるの?手伝う気なかったの?ここ、悩みを聞いて、それを解決することもやってるんでしょ?なんであんな突き放すこと言うの?」
珠雨の舌打ちが聞こえたが、私の口は止まらなかった。
「私たちでなんとかできるよね?静子さんの時も、珠雨が提案してくれたじゃん。だからさ、きっと奏くんのことも……」
「さっきから綺麗事ばっかうるせー」
冷え切った、怒気を含んだ声が鼓膜を震わせる。
「そんな簡単なもんじゃねーんだよ……!どうせ後から見なきゃいけない現実を見せて何が悪い!それにあんた、奏くんの前じゃ何も言えてなかったじゃねーか!」
私は少し怯んだ。図星だ。
でも、私だって、頭の中でちゃんと考えていた。傷つけない言葉を。
それを否定された気がして、頭に血が上る。
「な、何が?簡単じゃないことなんてわかってるよ……!」
「わかってねーよ!!死んでるくせに、生きた人間みたいなこと言うな!!!」
「珠雨!!」
雨彦さんが珍しく、声を荒げた。
その声に、珠雨はハッとして我に返った。
「………死んでる?」
私は、その言葉を理解するのに時間がかかった。
私に言ったの?私のことを言ったの?
無意識に、手が震えた。
「あ、いや……」
珠雨は頭をガシガシと乱暴に掻いた。
……私は、死んでるの?
「……悪い、頭冷やしてくる」
珠雨はそう言って、出て行った。




