1-3『白夢担当・イリス』②
咆哮。
その一声で、辺りの空気が凍りついたように静まった。
白夢獣は、淡い白光をまとう四つ脚の獣。
その体表からふわり、ふわりと舞うのは――雪のように冷たく、美しい粒子だった。
降り積もるでもなく、風に散るでもなく、ただ世界から浮いていくように。
まるで“叶えられなかった願い”が、少しずつ抜け落ちていくかのように。
「……なんか、寒いっていうより、切ないな」
ユムが呟いた。
だがその切なさは、無差別な感情ではなかった。
この獣の奥に、確かな“名もなき想い”が宿っている。
「――夢査眼、展開」
ユムの右目が、青く揺れた。
視界に入った白夢獣の姿が、輪郭を曖昧にし、脳裏へ記憶が流れ込む。
病室。ベッドの上の姉。
言いたかった言葉を、どうしても言えなかった少女の記憶。
手を伸ばせなかった日の、悔しさ。
「……“だいすき”って、言いたかったんだよな」
言葉にした瞬間、白夢獣がわずかに身じろぐ。
雪の粒子がふっと揺れて、足元に夢の痕跡を描いた。
「でも、怖かった。伝えたら、もう会えなくなる気がして。だから……飲み込んだまま、黙ってた」
イリスが小さく頷く。
「白夢は、過去に残された想いの“余白”に宿る。優しさも、後悔も、ぜんぶ混ざって――寄り添えるか、どうか」
ユムはゆっくりと前へ歩いた。
雪の粒子が舞い上がり、冷たい空気が肌をかすめる。
「おれは、キミの全部を知ってるわけじゃない。夢査眼が視せてくれたのは、ほんの断片だ」
けれど、とユムは続ける。
「それでも、おれにはわかる。キミは“今も伝えたがってる”。届かなかったその気持ちを」
白夢獣がうなる。だがその瞳には、怒りではなく――揺らぎ。
震える声が、風に乗って届く。
「……こわかったの。言って……拒まれたらって。もう、なにも届かない気がして……」
「うん、それでいい。今、言えたじゃん」
ユムは、そっと手を差し出した。
「その言葉がキミ自身だよ。“伝わらなかった過去”じゃなく、“今ここにある想い”なんだ」
白夢獣が一歩、ユムに近づく。
その身からこぼれる雪の粒子が、光を帯びて舞い――
まるで、“安堵”の吐息のように、空に解けていった。
獣の身体が、淡く崩れていく。
そして、ユムの手のひらにふわりと落ちたのは――小さな、白い結晶。
「……白夢結晶」
ほんのわずか、温もりを帯びていた。
それはたぶん、少女が最後まで言えなかった一言のぬくもり。
イリスが肩を並べる。
「あなたの目に映ったのは、“後悔のまま眠れなかった優しさ”。それに向き合えた。十分よ」
「……まだ正直、自信はないけど……でも、向き合うって、こういうことなのかもしれないな」
ユムが結晶を見つめるその横で、雪のような粒子が静かに空に溶けていった。