#2|きっかけは突然に(後編)
聖に騙されてから三日間、僕はメイドとして働くための研修を受けていた。
初日は聖の代理として、店内に居た女性メイドである篠原さんから『MAD*IN』のコンセプトや店の流れ、清掃の仕方などを丁寧に教えてもらった。篠原さんは本当に優しく、聖の部下だとは全く思えない程に安心感のある人だった。
問題なのは、その後の二日間だ。直接聖から指導を受けたのが、それは本当にひどかったのだ。
挨拶やおまじないの練習、作法の練習などは十分に指導してもらったのは良かった。
しかし、あの金髪野郎が飽きてしまうと、メイド服を着た状態で一人でコンビニへ連れて行かされたり、ふざけたメイクの土台にされた挙句、他のメイドに見せびらかすといった遊びに利用されていたのだ。まるで、聖専用の玩具みたいだ。
そんな中でも、ケチャップで描いたオムライスの絵は、他のメイドからも褒められたのは嬉しかった。
そんなこともあり、今日僕は初めて店に立つことになった。実際、黒髪ロングのウィッグを付けてメイクをしてもらうと本当の女の子みたいで、体が浮くような気分になる。
いざ店の端に立つと、これから接客をするという実感が湧き、普段人とほとんど話さないことも相まって手が震えてしまう。
手を擦りながら客を待っていると、聖が隣に来て、僕の手を優しく握った。
「大丈夫だって。里玖ちゃん、可愛いから」
「ウィッグ付けてるからでしょ」
慰められたのがくすぐったくて、照れ隠しをするように言葉を吐き捨てる。そんな様子を見て、聖は優しく笑っていた。
「ほら、あそこのテーブルのお客さん注文だって。里玖ちゃん行ってこい」
「うん」
聖に背中を叩かれ、ドクドクと鳴る心臓と共に席へ向かった。
僕を呼んだのは、三十代前半くらいの男性二人客だった。
「ご、ご注文お伺いします!」
初っ端から、声が上擦った。恥ずかしすぎる。
「この萌え萌えオムライスって、里玖ちゃんが本当に絵を描いたりしてくれるんですか?」
「はい」
早速名前を呼ばれて背筋がゾクッとしたが、名札を付けていたことを忘れていた。もしかして、この注文を名指しでするのか。
「じゃあこの萌え萌えオムライス二つと、ドリンクがコーラ二つで」
初めての注文にしては荷が重すぎないか。こんなもんが普通なのか。張り付けていた笑顔が、一瞬にして崩れそうになる。
「かしこまりましたあ……」
僕は逃げるように席から去り、急いでキッチンの方へ戻った。
「お待たせしました。こちらのオムライスに、今から愛情をこめて、ケチャップで絵をかかせていただきます!」
僕の言葉に、二人の男性客は「おおー」と期待を含んだ声を上げる。まだメイドに対する恥ずかしさは残るが、もう腹を括るしかない。
「可愛くなーれ、可愛くなーれ」
これは正気になってはだめだ。俺はメイド、俺はメイド……。無心になり、僕なりに可愛げのある猫の絵を描く。
「よし。完成しました!」
「おー! 里玖ちゃん、絵上手いね!」
二人は感嘆した声を漏らしながら、笑顔で拍手をしてくれた。あまり褒められることも無いため、胸がくすぐったくなる。
「ありがとうございます。それでは、完成の前にさらに美味しくなれるように、おまじないをかけていきます。おまじないは知っていますか?」
「萌え萌えのやつっしょ?」
「そうです。それではお二人も一緒にやりましょう」
両手でハートを作り胸の前に出すと、僕に合わせて二人もハートを作っていた。
「せーの、美味しくなーれ美味しくなーれ、萌え萌えキューーーーン!」
三人で声を合わせると、一周回ってなかなか楽しい。多分、自然と僕の口角も上がっていた気がする。
「ありがとうございます。それでは、お召し上がりください! 失礼します」
緊張が楽しさで上書きされ、軽くなった足で店の端に戻ると、腕を組みながら金髪店長が立っていた。
「どう?」
「なんか緊張したけど、一周回って恥を乗り越えたら楽しい」
笑顔で聖の方を見ると、誇らしげに鼻で笑った。
「だろ? 次、また呼ばれてるぞ。行ってこい」
僕は再び背中を押され、客席へと足を運んだ。
その後も何人かと接客したが、想像していた以上に忙しかった。しかし、それ以上に意外と楽しいという気持ちの方が上回っていた。
一旦店が落ち着き、珍しく気分が上がりながら空いたテーブルを拭いていると、ドアの開く音がする。
「おかえりなさいませ、ご主人さ……ま……」
ドアの方を見た瞬間、息が止まった。
なぜなら、僕が苦手とする『陽キャ集団』の一人、『水瀬慧都』が立っていたからだ。
嫌でも見たネイビーのアップバングヘアと一見優しそうな目の下の黒子が目に入り、一気に冷や汗が噴き出す。どうして、こんな場所に陽側の人間が居るんだ。
席への案内は違うメイドがしてくれたが、注文は絶対回避しなければならない。その事だけが脳内を駆け巡っていた。
それからすぐに、店内に呼び出しチャイムが響き渡る。考えたくもないが、それは水瀬がいる席からだった。
誰か行ってくれないだろうかと周囲を見渡すが、最悪なことに僕しか手の空いている人が居ない。焦りと動揺で布巾に手汗が滲む。
けれど、仕方がない。もう別人になりきろうと気合を入れて、席へ向かった。
「ご主人様、ご注文をお伺いします」
席へ向かうと、水瀬の他にもう一人友人がいたことに今更気付いた。ウキウキした様子の友人を見るに、きっと水瀬は付き添いなのだろう。
「えっと、僕はこれとこれと、慧都はどうする?」
「俺はコーラだけでいいや」
友人が注文を頼んでいる反対側で、水瀬がずっと僕を見てくる。そのせいで、全く注文内容が頭に入って来ない。もしかしてバレてしまったのかと全身に緊張が走るが、必死に平然を装う。
「えっと、オムライス一つとドリンクはコーラとカフェオレ一つずつですね。少々お待ちください」
「なあ」
ようやく解放されるとおもった矢先、突然水瀬に腕を掴まれた。
「どうしましたか?」
なるべく笑顔を張り付けたが、僕はもう怖くて泣きそうだった。早く戻りたいんだよ、帰らせてくれ。
「お前、同じクラスの来宮だろ。来宮里玖」
水瀬のからかうような表情を見た瞬間、一気に全身の血が冷える。
——僕のバイト人生、終わった。
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