#10|青が混じる
水瀬に強く腕を掴まれたまま連れて行かれた先は、いつもと同じ空き教室。
入った瞬間に勢い良く壁に投げ出され、僕は背中だけでなく頭まで打ってしまった。
「痛っ」
「おい、てめえ」
後頭部を擦りながら座り込む僕に、水瀬は壁を強く押し付けて睨みを効かせた顔を近づけてきた。俗に言う、壁ドン状態。
「な、何」
反射的に恐怖で萎縮してしまい、思わず顔を背ける。
「文化祭のあれ、嫌じゃないのか」
「あれ?」
またガミガミ言われると構えていた身からすると予想外の発言だったため、僕はすぐにその言葉が理解出来なかった。
もしかして、クラスの出し物が『メイド喫茶』に決まったことを指しているのだろうか。
「さっきのことなら、正直メイド喫茶なんて気が向かないけど、みんながやりたいなら仕方ないだろ。そのくらい腹は括れるし、僕がメイドにならなければいい話だし」
メイド喫茶に決まったクラスメイトの反応から察するにメイド回避はほぼ不可能だろう、という言葉は飲み込んで、僕は諦めたように呟いた。
すると、そんな態度が気に障った水瀬は拳で壁を強く叩くと、教室内に振動が響き渡る。
「いつも、そんな感じなのか?」
先ほどより一層低い声が耳から直で伝わり、俯いた水瀬の表情が見えないおかげで、さらに僕の恐怖心を煽っている。
「そんな感じ、とは?」
震える口で何とか言葉を発した瞬間、怒りと呆れ、そして悲しみを含んで睨みつけている端正な顔が
目の前に現れた。
「そうやって、自分の気持ちは抑え込んで人に流されて生きんのかって聞いてんだよ!」
ここまで感情的に叫ぶ水瀬なんて、見たことがない。いつもガキ大将のように振舞っている奴の、訴える眼差しと目が合うと動揺してしまう。その言葉だって、正直僕にとっては図星だ。
その一方で、ここまで親しくない人に干渉される筋合いがあるのかと、何故か無性に腹が立ってきた。
「お前には関係ないだろ。たかがメイドがバレたくらいだろうが」
「は、おまっ……!?」
感情に任せて吐き捨ててると、水瀬は僕の反応に目を丸くさせて、壁から手を離していた。
すると、長いため息をつきながら頭をガシガシと掻くと、水瀬はこちらに指を差してくる。
「あーーーーー、もう! あのな、お前見てるとマジでムカつくんだよ! 人の善意は素直に受け取れや!」
意味が分からない。今までの会話の中に、善意を感じる瞬間なんてあっただろうか。勝手にムカつかれても、どうしたらいいんだよ。
「は? 何が善意だよ」
僕が好戦的に嚙みついて見せると、水瀬の怒りの線が切れる音がした。
「だーかーら!」
声を一段と大きくして、指していた指を僕の胸に突き刺す。
「——この俺が、お前なんかの心配をしてやってんだよ! 分かるだろうが!?」
「は、心配?」
水瀬の顔は、いつになく真っ赤になっていた。これは、照れているのか。それとも怒りによるものか。
その言葉の意味と顔色が全く結びつかず、僕は呆気に取られてしまっていた。
「そ、そーだ、お前馬鹿だから分かんねえのな!」
水瀬は急にガキ大将モードになり、僕をからかい始めていたが、全く耳に入らない。そんなこと以上に、彼が何を言いたかったのかが気になって仕方が無かった。
そういえば以前、こいつの発案で葉介と入夜の三人で、僕の部活へ来たことがあった。その時は、クラス全体に僕のアルバイトが拡散された時期だったか。葉介によると、水瀬が僕のことが心配で様子を見に来たと言っており、意外と気を遣つ奴なんだなとも思った気がする。
それでは、今は文化祭の出し物で『メイド喫茶』が丁度決まったところだ。その後、水瀬はそれで良かったのかと聞いてきた。
——「そうやって、自分の気持ちは抑え込んで人に流されて生きんのかって聞いてんだよ!」
——「この俺が、お前なんかの心配をしてやってんだよ! 分かるだろうが!?」
ああ、なるほど。そういうことか。
こいつ、僕が無理して『メイド喫茶』に決定したことで落ち込んでいないか不安で、気を遣って心配してくれているのか。あまりに不器用すぎるし、言葉足りなさすぎやしないか。
「……ふっ。あはははは! そういうこと! あっはは!」
「何だよ、急に笑いやがって。舐めてんのか、ああ!?」
そう理解した瞬間、吹き出してしまった。不器用なりに気を遣った結果が今の状況なことが面白くて、でも嬉しくて、笑いが止まらない。
水瀬が睨んできたところで、今では威嚇しているチワワくらいにしか見えなくなった。
「あー、ごめん。お前分かりづらいけど、優しいんだな」
「は……」
そう笑った瞬間、水瀬は言葉を失い、顔をみるみる火照らせていく。
「うっっっっっっっせえわ!!!!!」
首まで真っ赤にした水瀬の怒号が、教室中に響き渡った。
その時、空き教室のドアが勢い良く開く。
「慧都! 里玖! ここに居た!」
「あ、葉介」
ドアを抑えて息を切らした、八島葉介が立っていた。声を掛けてみると、葉介はよろよろと僕らに近付いてくる。
走って探しに来てくれたのだろうかと、胸がギュッとする。
「葉介って、お前ら……」
「ん? 慧都どうした?」
「いや、何でもない」
水瀬と言葉を交わすと、葉介は息を整えながら額の汗を軽く拭った。そんなとこまで爽やか、か。
「先生が文化祭に必要な係決め忘れてたらしいから、至急戻って来いだって」
「ああ。今行く」
事情を把握してすぐ、空き教室を出て行った二人の背中を僕は追いかけた。
「おい、里玖」
「え?」
廊下を歩く背中越しに水瀬から名前を呼ばれ、聞き間違いかと一瞬耳を疑った。この人、僕の名前を知っていたのか。
今度は何を言われるのだろうか、と少しだけ構える。
「俺のことも、名前で呼べや」
「あー、うん」
それだけか、と安心して適当に相槌した。急に名前呼びなんて、僕のことを見直したということなのだろうか。
「……呼べって」
「は? 今?」
声だけでも分かるほど、水瀬は不貞腐れている。
そんなに名前を呼んでほしいのか。やはり、不器用君のことは理解できないな。
「分かった、慧都」
「ふんっ」
仕方なく名前を言ってやると、水瀬は満足気に鼻を鳴らした。
少しだけ高い背中を無心で眺めていると、不意に水瀬の横顔が見える。その表情は少し口角が上がっており、ネイビーの髪に掛かった耳は真っ赤になっていた。
僕は少しだけ、子供っぽくて可愛らしいなと顔が緩んでいた気がする。