ホームズの魔法事件簿~エレボールの炎~
この一件は後に「トールキンの怪奇現象」として世間の耳目を集め、歴史的には黒魔術の信仰を促進させた事件として記録されることとなった。しかしながら、その真実を完全に理解していたのは、私と親友シャーロック・ホームズ、そしてもう一人の人物だけであった。その人物が昨年末にこの世を去ったことを受けて、私はここにその事件の全貌を記す決意を固めた。
私たちがこの不可解な事件に遭遇したのは、シャーロック・ホームズとの出会いから数年が経過していた時で、それまでにも黒紅龍の眼や不死鳥の尾羽など、奇奇怪怪な事件を数多く扱ってきた。間違いなく、それらは我々の想像力を超える重大な事件であったが、この「エレボールの炎」と名付けられた事件ほど、私たちの認識を根底から覆したものはなかった。一見すると矛盾しているように見えるが、その本質は驚くほどに一致していることを示す、この事件はまさに性善説と性悪説が相反するものではなく、本質的に同義であるとされると説明しうるように、私たちの既存の見解を完全に塗り替えるものであった。
夏が過ぎ去り、乾いた風が黄金色の銀杏の葉を舞い散らす木枯らしの季節。私は、午前の診療を終えた後、いくつかの食材を調達すべく、診療所からほど近い市場へと足を運んでいた。ここ倫敦は、まさに「種族のるつぼ」であり、多様な民族が資本主義の熱気に浮かされながら商いに精を出している。左手では、死叫妖精が怪しげな札を蛇人間に売りつけており、その隣では半人半鳥がアカペラを披露し、その歌声に魅了された者が彼女の前に置かれた空き缶にチップを投げ入れていた。私が樹木妖精のハンプソン婦人が営む八百屋に向かおうとした時、一人の初老の物乞いがじっとこちらを見つめているのに気付いた。警戒心を強める中、彼は着実に距離を縮め、ついにはわずか4フィートのところで立ち止まった。その瞬間、彼の顔に刻まれていた深い皺が消え、陰鬱だった瞳には明るい輝きが宿る。まさかの展開に息を呑む。その物乞いが、なんと私の友人、シャーロック・ホームズ本人だったのだ。
「ホームズか?どうしてこんな物乞いの姿に?」
「やあ、ワトソン君。この市場で繰り広げられる、国の根幹を揺るがしかねない事件の芽を探っているんだ。言い得て妙だが、市場は生き物のようなもの。真実を掴むには綿密な観察が不可欠だが、市場は観察者の存在を感じ取り、それに反応してしまう。探偵である私が市場を観察しようとすると、市場自体が私の存在を前提に挙動を変え、真の姿を見せない。だから、ただの物乞いに扮して市場に溶け込むことで、本当の情報を手に入れるんだ。それにより、さまざまな事実が浮かび上がる。例えば、あの淫魔と岩人のカップルを見てみろ。見かけによらず、岩人は浮気をしているのが分かる。また、あの悪戯鬼はこの3日で会社を潰し、自己破産してしまったようだ。そして、私が今この市場で観察している主要な対象が、まさにここに...」
ホームズの視線の先には、かすかに風に揺れる薄汚れた衣を身に纏った、小さな姿があった。その衣は縫い目が解け、無数の穴が開いており、彼女の生活の厳しさを物語っているかのようだった。彼女は、そのぼろ布のような羽織を頭から覆うようにしている。その傍らには、二人のがっしりとした醜鉤鼻が立ち、彼らはなにやら彼女に声をかけていた。少女は醜鉤鼻たちから一つのリンゴを受け取り、それを口に運ぼうとしている。
「お嬢さん。そのリンゴは口にしない方が身のためでしょう」
ホームズがそう警告すると、二人の醜鉤鼻とその傍らにいた少女の間に身を置く。彼の突然の割り込みに、少女は目を丸くしてリンゴを口にする手を止めた。2人の醜鉤鼻はせっかくのご馳走を前に我慢させられた猛獣のように、ホームズに向かって敵意を向ける。
「おいおい、この小汚ねぇ物乞いはどっから湧いてきたってんだ! こっちは親切心でやっているっていうのに、何だっていうんだ。あぁん!?」
「そうだぜ、一文無しでくたばりそうな、いたいけな少女に、無償でりんごをプレゼントしてやろうってんだから、俺たちは親切な人に違いねぇ。そうだろ、兄弟」
ホームズは彼らの罵声を意に介さず、少女からりんごを取り上げる。
「不純で満ちた実、今、斜塔で落ちた真実を伝えよ」
ホームズが詠唱すると、リンゴは黄色い閃光を放ち、その光が彼の手に吸い寄せられる。やがて、閃光はすべてホームズの掌に消えていった。
「単純だが巧妙な麻痺魔術のようだ。お前たちが今話題のガニー兄弟、連続児童誘拐の容疑者だろう。その麻の袋の中身を見せれば、言い逃れはできまい」
ホームズの冷静な指摘に、2人の悪党は顔を見合わせた。
「ばれちまったなら」
「やっちまうしかないよな!」
2人の巨漢が私たちに襲いかかろうとしたその瞬間―
「キザンパ」
ホームズが呪文を唱えると、黄色い閃光がジョンソン兄弟に炸裂し、彼らは意識を失い地に倒れた。
「お嬢さん、よく聞いておきなさい。この街では、無料よりも恐ろしいものはない。この世は対価なしに何も得られない。何の代償も求められない場合、その代償はあなた自身、あるいはあなたの一部かもしれない。それを忘れてはいけない。妖精戦争の影を背負う子どもたちがいることは知っていたが、君もその一人だね? 君と似た境遇で、互いに助け合いこの街で生きる賢き者たちがいる。イーストエンド、ホワイトチャペルを拠点にしているウィギンスという少年を訪ねてみるといい。これはそこへの道中と当面の生活を支えるための少しの金だ。賢く使うように。そして、もう一つ、番犬がまもなく姿を現す。彼らは君の証言を必要とする一方で、君の身の上を考慮すると、ここから早く立ち去るのが賢明だね」
ホームズが少女にソブリン金貨を渡すと、彼女は深く被っていたフードを取り、その素顔を現した。彼女の熱く涙に濡れた緑の瞳は、真剣なまなざしでこちらを見つめている。鮮やかな緑の髪から覗く尖った耳を持つ彼女は、深々とお辞儀をして、お礼の言葉を述べた後、すぐに反対方向へと走り去っていった。ホームズの見立て通り、わずか1分後にはピーター・ジョンストン下級執行人が現場に到着した。
「ホームズさん、こいつらが例の連続児童誘拐事件の犯人でしょうか?」
「私の推理では間違いなくそうであるが、それを結論付けるのは君たち禁魔の番人の仕事に違いない。そこにある麻の袋に入ったりんごについて魔術鑑定を済ませれば、彼らが魔術法典に背く魔術使用をしていることは明らかだし、それを使い何を企んでいるのを吐かせれば、私の推理と同じ結論に至るだろう。約束通り陳述書は私のオフィスに送ってくれよ」
ピーター・ジョンストン下級執行人が2人の醜鉤鼻を拘束し、逮捕するのを一瞥すると、ホームズと私は、現場に集まった群衆をかき分け、足早にその場を去った。
「おい、ホームズ。あの2人が連続誘拐犯だと聞いたが、それはどういうことだ? そして、2人を気絶させたあの黄色い閃光とりんごからの光とは、いったい何なんだ?」
「ジョンストンが言っていた通り、彼らは現在倫敦を騒がせている連続児童誘拐犯だよ。僕の推理が正しければ、彼らは単に実行犯で、裏で糸を引く黒幕がどこかにいるはずだ。ただし、その黒幕の手がかりはまだ掴めていないんだ。もちろん、陳述書は細かくチェックするつもりだが、この尋問から重要な情報を得られるとは思っていない。そして、君の残りの2つの質問に対して、僕は共通した1つの答えを持ち合わせている。黄色い閃光もりんごから発せられた光も、それは魔法の光に他ならない」
「魔法だと!?!」
「そうだ、君も知っての通り、それは魔法だ。一見何の面白みもないように見えるが、りんごに用いられる麻痺魔術を他の対象にも応用し、その形を変えて射出する方法を考案したんだ。やったことは単純で、君も知っての通り、魔術は魔法の表面的な形態、すなわち汎用化されたものだ。しかし、このライブラリを解読し、そこに組み込まれたプログラムを辿れば、魔法の本質的な理論が明らかになるんだ。また、それを再構築しなおせば、先ほどのような応用が可能になる」
魔術革命以降、現代は全ての人が魔術を使える時代となった。しかし、同時に魔法は過去のものとなり、世代が進むにつれて、より陳腐化された魔術だけが生き残るようになったと言っても過言ではないだろう。確かに、著名な歴史家オデュッセウス・アルビオンの『大魔道史』には、魔術革命以前に魔法使いが存在したと示唆する記述がある。しかし現代では、これらは単なる寓話や神話に過ぎないというのが一般的な見解だ。本来なら私もその見解を受け入れるところだが、目の前で目撃している、常識では説明がつかない奇妙な術を使う人物が「魔法」という言葉を使うため、この一般的な見解に疑問を持たざるを得なくなっている。
「本当に、君は私の常識を次々と覆してしまうね。魔法など信じがたいし、理解もできないけれど、君という特別な存在がそう言うのなら受け入れるしかないようだ。」
「僕は特別な人間ではないよ。魔法が特別な人にしか理解できないというわけでもない。問題は、どう信じられているものに疑問を持ち、どう疑われているものを信じるかだ。その心がけさえあれば、僕は誰でも魔法を理解できると信じている。ところでワトソン君、事の重大さこそ今しがた見届けた事件ほどのものではないが、非常に謎めいた手紙が私の下へ届いた。その手紙の主とこの後会う予定なのだが、興味があるなら一緒に来ないかい?」
「君がそう言うなら、興味深いことこの上ないね。ぜひ同行させてもらうよ」
「ありがとう。君がいないと、狩人が銃を持たずに狩りをするようなものだ。君がいれば、困難に立ち向かう力が何倍にもなる。予想では、今回の依頼は遠出が必要で、急を要するものだ。依頼人は午後2時に事務所に到着するが、午後3時キングスクロス駅発のエレボール行きの最終列車に乗る必要があるため、依頼人が到着するまでのあと残り30分の間に準備を整える必要がある。支度には大したものは必要ないと思うが、念のために君の魔弾丸は持ってきた方がいいかもしれない。それでは、14時に私の事務所で会おう」
ホームズとの別れから帰宅後、私は妻に一連の出来事を説明し、急いで支度を整えた。その後、二輪辻馬車を捕まえ、ホームズの住むベイカーストリート221Bに到着したのは午後2時10分前だった。ドアをノックすると、ハドソン夫人が迎えてくれた。挨拶を交わした後、二階へと続く階段を上がり、ホームズの事務所のドアをノックした。中から了解の声が聞こえて部屋に入ると、ホームズはソファに腰掛け、テーブルに広げられた淡青色の便箋と10ポンドの小切手を眺めていた。
「親愛なるシャーロック・ホームズ様
本日午後2時、貴事務所にお伺いします。
同封の小切手は、依頼の前金としてお受け取りください。
敬具
マリリン・ココ」
「確かに奇妙な手紙だね。これが先ほど話してくれた依頼に関連しているのかな?ただ、こんな短い内容から急を要する依頼であり、エレボールへの遠出が必要な理由をどうやって推理するんだい? 私には、この依頼人がかなり裕福な様子だということしかわからないよ。送り元の住所さえないんだからね」
「ワトソン君、答えは簡単だよ。それは君がこの手紙をじっくり観察していないからさ。あるいは、理解できないと初めから決めつけているからかもしれない。この手紙に関連する些細な事実を重ね合わせれば、意図されたメッセージが明らかになる。例えば、この手紙は、超特急梟便で送られてきているのが、梟局のスタンプからわかるだろう。スタンプを細かく確認すると、この手紙は10時54分に発送されていたことがわかる。この手紙が着いたのは本日12時5分、そして今日の天気は快晴で風速1メートル以下の快適な日だ。超特急梟便の時速はおおよそ90kmから110kmで途中の遮蔽物は無視できることから、1時間11分の間に106kmから130kmを進んだ計算になる」
ホームズはテーブルに地図を広げ、キングス・クロス駅を中心にコンパスで2つの円を描き始めました。
「この地図をじっくりと見てみると、大きな円と小さな円の間にある駅は全部で20個あることがわかる。でも、ここで重要なのは単に数を数えることではない。もう一度、手紙に添えられた梟局のスタンプを詳しく見てみるとしよう。実は、梟局のスタンプには地方ごとに独特の特徴がある。例えば、この手紙には梟の背景に月桂樹が描かれている。月桂樹はトールキン地方特有の植物で、そこにしか生えていない。つまり、これによって可能性の範囲はずいぶんと絞られるわけだ」
ホームズが地図上のトールキン地方に当たる部分に指を置くと、その地方にある駅は8つに数えられた。
「さて、8つの駅の中から、アポイントメントの時間の午後2時に、10時54分以降に出発して間に合う駅を探すとするならば、エレボールとリヴェンデルの2つの駅だけが該当する」
ホームズは、エレボールとリヴェンデルの駅の上に、それぞれ印をつける。
「これらの駅は、それぞれが独自の民族によって名を馳せた街だ。そして、最後にこの封蝋をよく見てみよう。この家紋には槌が使われている。槌は、古来よりドワーフたちの勤勉と技術の象徴とされているんだ。これらの事実を総合すると、この手紙の主は、トールキン地方のドワーフたちが住むエレボールから来たと推理できるんだよ」
そう言いながら、ホームズはエレボールの駅に大きな丸を描く。
ホームズが繰り広げる推理の工程は、耳にすれば何とも素晴らしく単純明快なものであり、終わりの結果を知るに及んでみれば、それはさながら容易きことかのように思われるのだ。しかし、私がいくら時間をかけて、今目の前にあるこの便箋を熟視し、思索に耽っていたとしても、ホームズが導き出したこの結論には決して辿り着けなかっただろう。彼の推理の見事さに改めて感服している最中、事務所の扉にノックの音が響いた。ホームズは「どうぞ」と静かに答えた。
扉を押し開けたのは、背は5フィートに満たない小柄ながら、顔立ちははっきりとしており、何よりその目には断固たる意志が宿っている女性であった。彼女の姿を一層際立たせていたのは、この辺りではまず目にすることのない独特の幾何学模様をあしらったドレスを纏っていたことだった。女性は事務所内に人の気配を感じ、一抹の安堵をその面持ちに浮かべたが、予期せぬことに、そこに二人の紳士が居合わせていることに、僅かながらの戸惑いを隠せない様子であった。どちらに向けて語りかけるべきか、彼女は一瞬、思案に暮れるようであった。
「手紙をお送りになったマリリン・ココさんですね。私がそのシャーロック・ホームズです。そして、私の隣にいるのはワトソン博士です。彼は私の最も信頼する友人であり、お話しいただく内容は彼も同様に承知することになりますので、ご同席に関しましては何のご心配もないことをご理解いただきたくお願いいたします。それでは、お話しいただけますでしょうか、ご依頼について」
「お手紙をご一読いただき、感謝申し上げますわ。突如として事態が発生し、私自身も大いに動揺しておりましたので、依頼の詳細を記す時間も惜しむほどで、面談の時刻のみをお知らせする失礼をお許しいただきたくお願い申し上げます。事の次第は、私自身もまだ信じられないことなのですが、今朝、父がこの世を去り、その容疑者として我が家の料理人が逮捕される運びとなりました。この件につきまして、ご助言を賜りたく参上した次第です」
「今回の件について、まずはお悔やみ申し上げます。まず最初に確認になりますが、その料理人はあなたの恋人でお間違いないでしょうか?」
女性は目を見開き、驚愕に満ちた眼差しをホームズに向けた。
「あなた様はなぜ、そのことがわかるのでしょうか?」
「あなたのその素敵なドレスについている赤いシミを見れば、わかる簡単な推理です。トマトソースは血と異なり、時間が経過しても酸化せず赤さを保ちます。そして、あなたの家に料理人がいることから、あなたのそのシミはあなたの料理中についたものでもなければ、ついた服の場所を考えるに、食事中でもないことがわかります。答えは簡単で、トマトソースをつけた誰かと抱き合ったこと。それによってついたシミということが容易に想像できるということです。また、ついでながら、あなたの手紙からあなたは今しがたエレボールから来た事、そしてその服を見て、あなたがかの有名なブランド『ヴィトール・ココ』のご令嬢ということが核心に変わりました」
女性はホームズの言葉を耳にし、彼の力ならばこの事件に終止符を打てるだろうという希望を見出したのか、これまでの重圧から解放されるかのように、彼の胸で涙に暮れた。ヴィトール・ココ、それは革鞄を起源とする高級ブランドであり、この倫敦においてもその店舗は繁盛し、富裕層の間では絶大な人気を誇っている。このマリリン・ココ嬢がその令嬢であるとすれば、この悲報の父とは他ならぬヴィトール・ココ氏本人ということになる。しばらく泣いた後、私が渡したハンカチで涙を拭うと、ホームズは依頼人をソファまで案内したタイミングで、ちょうどハドソン婦人が紅茶を運んできた。
「さて、ココさん。事件の詳細なお話をお聞かせ願えますでしょうか」
「はい、事件が起きたのは、今朝の9時過ぎになります。私は、恋人... 料理人のロビンと自宅の中庭で少し世間話をした後、ロビンはキッチンへ。私はダイニングルームへと移動をしました。ダイニングには私の他に、父と副社長のウォズさん、メイド長のメアリーがおりました。父、ウォズさん、私が着席をし、メイド長のメアリーが給仕するため部屋を出ようとしたところ、突如、父が炎に包まれたのです。その衝撃的な光景に、私はただ呆然と立ち尽くすしかできませんでした。父が悲鳴を上げる中、ウォズさんが自らの魔術を用いて水を作り出し、消火を試みたのですが、残念ながらその努力も空しく、父は耐え難いほどの悲惨な状態に陥ってしまいました。事の重大さに気づいた執事と料理人が部屋に駆け付けると、執事がすぐさま禁魔の番人を呼び、事情聴取と取り調べを受けました。現場にいた父以外の5名のうち、炎を出せる魔術は料理人のロビンしかいなかったため、彼が逮捕されると同時に、私たちは解放されたのですが、彼がそんなことをするはずがないと思った私は、あなた様に依頼の手紙を送ったという次第です。以前にあなた様にご助言をいただいたアーモンド・ムーアは私が通う女学校の先輩で、あなたの名声はかねてより伺っておりましたので」
「なるほど、非常に奇奇怪怪な事件であることがわかり、私も安心しました。依頼料については、前金の10ポンドで十分です。今の話を聞いていくつか明らかにしたい点があり、それを伺いたいですが、午後3時発のエレボール行に乗る必要があるので、続きは列車の上で聞くことにしましょう」
「承知しました。一等車のコンパートメントを取っているので、そちらでお話しできればと思います」
ミス・ココが事務所前に停めていた四輪閉鎖型馬車に我々は乗り込み、キングスクロス駅に到着した。そこで、エレボール行き一等車両の個室コンパートメントに私たちは身を委ねた。
「さて、現場検証や聞き取り調査は現地について行うことにして、その前に重要なのはそれらに当たっての仮説構築です。これをするために、いくつか先ほどのいただいた話を深ぼらせてください。まず、あなたとロビンさんの関係は公の事実であったのかを確認させてください」
「これは申し上げにくいのですが、私とロビンは父上に内緒でお付き合いをしておりました。父上は私を社交界にデビューさせたかったようですが、ここまでのらりくらりと父の誘いを断ってきたのも、彼との関係があったからです」
「内緒にしているということは、邸宅の中ではどのように密会をしていたのでしょうか? 透明マントの類の魔具は使用したりしているのでしょうか? 決して彼を疑っているわけではなく、事実を並べることが彼の救いにもつながると思うので、正直にお答えください」
「はい、ロビンには私の家に代々伝わる透明マントを渡し、私が庭にいる時にみんなにばれないように来てもらったりしていました」
「今までの事実を総合すると炎熱魔術を使えて、透明マントまで所持しているとなると、番犬が彼を疑うのも無理もないように思えます。ですが、あなたは彼の無実を信じて疑わない。あなたが今回の事件の犯人が恋人のロビン氏ではないと思える理由を伺えますか?」
「はい、確かに現場にいたメンバーのうち彼しか炎を使う魔術を持っていません。でもわたくし、過去に一度彼からお話を聞いているのです。炎を使う魔術は、近衛兵や禁魔の番人など今の職業よりももっと割の良い仕事があるはずだと。そしたら彼は、『自分の魔術は、炎は出せるが、その飛距離は変えられず出力も料理に使う程度のものしかできない。だから、料理人になった』と。あの時の彼の言葉や目に嘘があったとは、私には到底思えないんです。馬鹿に見えるかもしれませんが、ただそれだけの理由なんです」
「いえ、誰もあなたの意見を馬鹿だなんて思っていませんよ。恋人を信じるには十分な理由になっていると思います。続いてですが、ロビンさん以外に現場にいた方について、彼らの特徴や魔術について教えていただけますか?」
「はい、まずメイド長のメアリーですが、40過ぎの女性です。働き者で、普通の人の10人分くらいの仕事をしてくれています。彼女の下についているメイドは基本的に父が採用するのですが、恥ずかしながら父の採用はメイドの仕事そのものよりも容姿が重要だったりと、それを管理するのに苦労はしているようですが、よく働いてくれています。魔術はヒーターを温めるというものです」
「ほう、ヒーターを温めるのですね。興味深い。つらいことを思い出させて、大変申し訳ないのですが、ココさんから見て真正面にいたお父上が、いきなり燃え始めたということで間違いないですか?その前兆などは特になかったということでしょうか?」
「はい、そうなります。徐々に燃え始めたというよりは、父そのものがマッチの先のように突然、炎を上げ始めたといったものだと記憶しています」
「なるほど、ありがとうございます。遮ってしまい恐縮ですが、他の方々についてもう少し詳しく教えてください」
「はい、副社長のウォズさんは、ドワーフのパタナーです。父の会社、ヴィトール・ココは、デザイナーの父とパタナーのウォズさんと2人で創業した会社で、そこから二人三脚で頑張り、今日のような有名企業へと一代で持っていったのです。そういえば、明日は2人が今の会社の前身となる工房を作ってから50周年という節目の日だったそうです。それくらい長い間、2人は手を取り合って服飾業界を盛り上げてきたのです。また、ウォズさんは私の師匠でもあり、人格者で、父の一番の理解者でもあります。その日は朝から父と重要な話があるとして、朝食にも同席していました。魔術は、先ほどお話した通り、水を噴射する魔術です」
「ウォズさんが師匠ということは、あなたも服飾関係のお仕事をしているのですか?」
「いえ、私は実際の仕事にはほど遠くて、売りに出すような商品は作ったためしはなく、例えば、私が今着ている服といった知り合いや自分で着るような服を作ったりしています」
「これはココさんが自ら作った服なのですね。素晴らしい出来だ。是非商品化してほしい」
「もちろん、ウォズさんに様々な助言をもらって作ったものになります。この幾何模様もウォズさんのアイディアなんです。ですが、ウォズさんは、私にはもう何も教えることはないと仰ってくれています。私はまだまだウォズさんから学びたいと思っているのですが」
「非常に興味深い話ですね。実に興味深い」
「最後に、執事のピーターについてですが、彼は人狼で、満月の日にはオオカミに変身してしまうため、月に幾日かのお休みをするようになっています。非常にきれい好きで潔癖症なので、父が使う執務室などは、常に綺麗に書類が整理されています。魔術は、ライトに明かりを灯す光魔術で、家の光源の調整は彼が担当しています」
「なるほど。事件現場にいた人物について大体の理解はできました。最後にいくつか質問をさせてください。恋人のロビンさんと、執事のピーターさんが、お父上が燃えて消火された直後に部屋に入ってきたんですね。その時、お二人はそれぞれ何か持っていたり、直前まで何をしていたかがわかったりしますか?」
「料理人のロビンは料理を配膳しにきていたので、作った朝食を持って来ていたと思います。ピーターは特に何も... 普段はかけない分厚い眼鏡をしていたとは思います」
「ロビンさんが配膳してきたのは確実に朝食といえそうですか?」
「朝食自体は廊下に置かれたまま、ロビンが駆け付け、その後ご飯を食べるという雰囲気にもならず、禁魔の番人が来るまでにロビンが片付けてしまっていたので、この目で確かめてはいないのですが... でもベーコンエッグとミネストローネの匂いがしたので、彼が持ってきていたのはそれで間違いないと思っています」
「わかりました。最後に、その事件の直前、直後で何か変わったことはありましたか?」
「うーん、特にはなかったと思います。先ほど申し上げたピーターが眼鏡をしていたこと以外には... しいて言うならば、父とウォズさんが直前まで激しい激論をしていたみたいですが、彼らはよく事業について話し合いをするし、父の意見に対して唯一イエスマンにならないのがウォズさんの役割だと父も話していたので、ある種日常茶飯事ではありますが、特にその時は激しい議論になっていたと思います」
話が一段落すると、ここまでの疲労が一気に噴出したのか、ミス・ココはゆっくりとまどろみ、やがて静かに眠りに落ちた。
「ホームズ、君はこの依頼をどう見ているんだい? 彼女の話を受けて、それでもまだ料理人のロビン氏が冤罪だと思うのかい? 被害者の死因やその場にいた他の魔術特性を考慮に入れると、どうもこの料理人以外にいないように思えてしまうのだが」
「確かに、君の言う通り、状況証拠を並べていくと、彼以外があり得ないとなる気持ちはわかるし、だからこそ禁魔の番人は彼を逮捕したのであろう。だがしかし、僕にはこの事件の犯人が彼かどうかはまだ五分五分だと思っている。彼はココさんと別れた後、間違いなくキッチンへ向かっている。そして朝食を作り配膳をしに来ていた。ここまではココさんの話から本当だと思ってよいだろう。だとすると、被害者が燃え始めたタイミングでは部屋はおろか、廊下にすら出ていない可能性が高い。もちろん彼の魔術が時間と空間を超越するのであれば、話は別であるが、そんなことができるのであれば、彼は今頃女王の七賢者にでもなっているさ」
「君の話の前提は、彼がミス・ココと別れてからキッチンへ行き料理をしているというものだ。もしかしたら、わかれたフリをして透明マントを使用して、現場にいた可能性だってあるじゃないか」
「いや、その可能性はない」
「なぜなんだい?」
「匂いだ」
「匂い?」
「そう匂いだ。ココさんがベーコンエッグとミネストローネの匂いを感じていることから、その可能性は非常に低いと言わざるを得ないのだよ。物質は熱せられるとその魔素が活発化し空気中に飛散しやすくなる。逆に冷えると魔素の動きは弱まり、匂いも弱くなる。例えば、パン屋で嗅いだことのあるあの香ばしい匂いは、焼きたてだからにほかならない。ディスプレイに並んだものを購入し、ウキウキ気分で帰宅後食べようと思ったら、あの匂いはいずこへという経験は誰しもがあるであろう。つまり、作りたてのものが現場近くにあったということは、ココさんの話から分かる事実であり、そこから推理されるのは、彼は本当にキッチンで朝食を作り配膳をしに来ていたということになる。もちろん、共犯者の可能性やその他の魔具や魔術の組み合わせにより、この事実は覆すことは可能であるであるが、今我々が手元にある事実をもとに考えるとするならば、この結論が妥当だということだ」
「では、一体全体誰が犯人だというのだい?」
「それは現時点ではわからない。もちろん犯人にまつわる仮説は100は用意しているが、そのどれも決定打にかけるものであるため、現場検証と事情聴取をしないことにはどうしようもない。しかしながら、ロビン氏をこの時点で犯人と決めつけるのにはやや無理があるが、先ほど述べた通りその他の突拍子もない可能性も考慮して、五分五分といっているだよ」
ホームズとの談話がひとしきり終わり、しばらくしてエレボールへと近づく次の駅が見えてきた。そろそろ降りる時間だと、ミス・ココを優しく肩で揺り起こすことにした。
「大変失礼いたしました。朝からの不安が一旦晴れた途端、疲れがどっと押し寄せてしまったようです。」
「どうかご安心を。心労が重なったことと存じます。そろそろエレボールに到着いたしますので、恐縮ですが、お起こしする必要がございました」
ミス・ココは自らが約2時間も眠っていたことに少し驚いた様子を見せていたが、列車が駅に到着したため、その驚きをかき消すように荷物を手早くまとめ、急いで列車から降りた。
時刻は午後6時を少し過ぎ、駅のホームからは、W字型の星座が空に明るく輝いているのが見て取れた。駅前では軽量四輪馬車が手配され、私たちは事件の舞台となる、ミス・ココの家、そしてその名高い起業家、ヴィトール・ココの屋敷へと進路を取った。
駅から大通りを進み、やや土ぼこりの立つ道を進むと、小高い丘の上にひときわ目立つ豪邸が視界に入ってきた。庭園は手入れが行き届いており、敷地面積はおおよそ数十エーカーに及ぶだろう。街を見下ろす丘の頂に建つその屋敷は、白い外壁に赤い屋根を備え、左右対称の様式はまさに伝統的な建築美を感じさせる。馬車が邸宅の入口に到着すると、6フィートを軽く超える大柄な体躯を持ち、細やかに手入れされた髭が潔癖さと完璧さを象徴するかのような、1人の執事が我々一行を威厳ある態度で迎えた。
「お嬢様、このような時にどこへいらっしゃったのですか? 番犬たちもあなたの行方に心配して、余計な騒ぎをしておりました。そして、お連れのこの紳士方は、どのような方々でしょうか?」
「詮索も何も、ロビンが逮捕されている今、私がどのように行動をするかについて、番犬たちに何らの指図を受ける筋合いはありません。そしてこちらの方たちですが、かの有名な名探偵シャーロック・ホームズとワトソン博士です。お二方に来客用の部屋を案内してちょうだい。あと、私はこのまま部屋で休んでしまいたいので、お風呂の準備もお願い。ということで、ホームズさん、ワトソンさん。大変申し訳ないのですが、長旅で疲れてしまい私は少し休みたいと思いますので、この後のことは執事のピーターを頼ってください。では、失礼いたします」
ミス・ココは簡潔に挨拶を交わした後、先に邸宅の中へと足を進め、やがて視界から消えていった。
「お嬢様のご依頼を受け、こちらに参りました。私はシャーロック・ホームズ、しがない私立探偵に過ぎません。貴方が執事のピーター氏でしょう。どうか、よろしくお願いします」
ホームズが握手を求めた際、ピーター氏は一瞬疑念の色を浮かべた表情を見せ、ホームズの差し出した手を受けることなく、その場を立ち去り歩みを進めた。玄関を通り抜け、エントランスホールに足を踏み入れると、左手の階段を上り、来客者用のエリアへと向かった。この壮大な邸宅の規模に相応しく、来客者用の部屋は6室もあり、私たちはその中の奥から二番目にある部屋へと案内された。
「突然の来客のため、何も準備ができておらず大変恐縮ですが、是非おくつろぎください。まずは紅茶でもいかかがでしょうか?」
「いえ、お構いなく。あくまでも調査で来ましたので、我々について何も考えず、普段通りの行動をとってくれることが、我々にとっての最良となります。一点だけ。私、光魔術についてあまり知見がなく、もしよろしければ、あなたの魔術について一つご披露いただくことは可能でしょうか?」
ピーター氏は少し戸惑いを見せつつも、渋々と近くにあった半ば消えかけているライトを手元に引き寄せる。
「増やせ、働け、まだできるはず。光れ、輝け、イルミネーション」
ピーター氏が手にしていた、ほのかに光るライトがまるで息を吹き返したかのように、眩い光を放ち始めた。
「素晴らしい! なんと神々しい光なのだろうか。まるで我々の祖先が初めて稲妻や落雷で火災した木々を発見したときのような、そんな衝撃を受けずにはいられませんよ。これまで邸宅にあったライトを見てきましたが、どれもこれも一級魔術師が作成した魔具のように煌々と光っている。あなたは、執事になる前はどのような職種についていたのですか?」
「そんな大したものではありませんよ。制御可能項削減による魔術上昇です。私はこの光魔術についての使用は、この邸宅に限定されているという主従契約をご主人様と結んでいます。そのため、魔術出力といったそれ以外の制御可能項について、邸宅で行う場合に限り、それが二倍、三倍まで操作が可能になっているのです。ご主人様は従業員にはほぼ必ず制御可能項削減を伴う主従契約を結ぶことで、魔術や修練向上を行っています。そのうちの一つが私の光魔術になります」
ピーター氏は、ホームズの質問には直接的には答えず、最終的に「ごゆっくりお過ごしください」とだけ述べて、私たちが案内された部屋から静かに退室した。
ピーター氏が部屋を出るや否や、ホームズは先ほどピーター氏が明るくした、ほのかに光るライトを取り外した。それから、様々な角度で入念に観察し、さまざまな方向に回転させながら、何かを独り言のようにつぶやき始めた。その独白が終わると、ホームズはライトを元の位置に慎重に戻した。
次に、我々は部屋のドアを開けて廊下を通り、階段を降りてエントランスホールに向かった。そこから、執務室の傍らにある、今回の事件現場であるダイニングルームへと進んだ。事件現場には仮設の隔離魔術が施されていたが、ホームズは軽々とその結界を解き放ち、部屋へと足を踏み入れた。私も彼に続き、静かに部屋の中へと入っていった。禁魔の番人たちの働きのおかげか、部屋全体には時空間保存魔術が施され、事件発生時の光景がそのまま保持されていた。8人が座れる長いテーブルの最上席にあたる椅子のみが欠けており、その周囲には焦げた床の痕跡と、火を消した際の水の跡が残されていた。水跡は中心が色濃く残り、途中からはグラデーションのように水跡が徐々に乾いている様子が見受けられた。ホームズは拡大鏡を取り出し、被害者が燃えたと推測される場所を丹念に調べ始めた。以前、彼はその拡大鏡について詳細に説明してくれたことがある。ホームズの言によれば、この拡大鏡は彼の魔術が注ぎ込まれた魔具であり、それを用いることで、現場に残された魔術の痕跡、いわゆる魔術痕を可視化し、分析することができるのだという。
「何か重要な痕跡はあったかい?」
「いや、もし重要な痕跡があれば、番犬たちも放っておかないであろう。それくらい何も痕跡がないのだ。ここにある痕跡は水魔術の痕跡だけで、他の魔術の痕跡は一切ない。私がこれまで対峙してきた歴戦の黒魔導士であっても、自分の魔術痕は重複魔術で解読を不可能にすることはあっても、痕跡そのものを全て消すことはない。もちろん理論的には可能なのだが、それをもし実現できるものがいるとすれば、それは神か、古代の大魔法使いアリストテレスくらいのものだと思っている。しかし、今目の前で起きていることがまさにその神業そのものだとするのであれば、僕自身の認識を改める必要があるか、何か重要な見落としをしているかのどちらかになる。それくらいあり得ないことが起きていると言ってもよい」
「つまり、今回の事件はお手上げということかい? 今回の調査では何も得られそうにないということかな?」
「もちろん、僕はそういう意味で言っているのではないよ。今回の調査が未知で終わったことで、逆説的に一つ大きな真実に近づけることにもなったよ」
「その真実とはなんだい?」
「それは料理人のロビン氏が限りなく白に近づいたということだよ」
「どういうことだい?」
「それは簡単な答えで、彼が逮捕されているからだ。本当に彼が犯人で、痕跡を一切なくするような大魔法使いであれば、彼は今頃どこか南の島でバカンスを楽しんでいることであろう。それくらいの実力がないとつじつまが合わないんだ。なので、この後僕たちはキッチンへと向かうことになるが、おそらくそのキッチンには、ココさんが言っていたベーコンエッグとミネストローネの残飯がどこかに捨てられているはずだよ」
ホームズがそう言うと、殺害現場となったダイニングルームを後にし、廊下へと出て右へ曲がり、キッチンに向かった。キッチンに到着すると、誰かが冷蔵庫を開けて食材を取り出している様子が見て取れた。近づいてよく見ると、5フィートほどの小柄な40代の女性が、一人では到底消費しきれない量の肉やワインを取り出しており、盛大な食事の準備をしているようだった。
「ごきげんよう、マダム。私、シャーロック・ホームズと申します。お嬢様より今回起きた事件についての調査を依頼されております。見るところによると、あなたはメイド長のメアリーさんとお見受けしますが、ただいまお食事中でございますか?」
メイド長メアリーは、既に何本かのワインを空けていたらしく、目はうっすら赤く染まり、虚ろな視線をなんとかホームズに合わせる。
「あの人はおっちんじまったんだ、畜生。若い女ばかり囲うからバチが当たったのさ。私だって昔は目をかけてもらっていたがな。あの女がいなくなって、私がと思った矢先には、やつには既に多数の愛人がいたんだ。それも飛び切り若くて身長が低い女たちだよ。そいつらを愛人として関係を持つだけに至らず、メイドとして雇うってんだから、私にとっちゃ職場は地獄そのものだったよ。あーあんな男は死んじまって、清々したってんだ... うぉーん」
メイド長のメアリーが激しく涙を流し始めたので、私たちはその突然の情緒の爆発に唖然として、ただその様子を見守るしかなかった。
「あなたはヴィトールさんを愛していらしたのですね。だから、そんなつらい環境でも彼の支えになろうとした。彼は最後まであなたの愛情深さに甘えてしまったのかもしれませんね。だからこそあなたを一番そばに置き、死のその瞬間一番近くにいたのはあなただったのですから。あなたは邸宅をあなたの熱魔術で暖めるだけでなく、彼の心も同時に暖めていたのだと思いますよ。どうか彼の手向けもかねて、私にその魔術を見せてくれないでしょうか?」
「あんた、いい人だね。おうよ、私の魔術を見せてやるよ。といっても、私の魔術はヒーターの中の空気を暖めるものなので、この場でどうにかとかはできないんだよ。ちょっと待ってな」
メイド長メアリーは立ち上がるや、よろめきながらもおぼつかない足取りでキッチンの端に設置されているヒーターへと向かい、その前で手をかざした。
「ヒート、いいこと、私の言うこと聞くこと。部屋はぽっかり、私はにっこり。さぁ、空気を温めて循環させなさい。ロンテギ!」
メアリーが手をかざすと、赤く柔らかな暖色の光がぼんやりと発せられ、やがてその光に包まれた部屋は徐々に暖かさを増していった。
「ありがとうございます。おかげさまで私の心も暖かくなりました。貴婦人もあまり飲みすぎには注意してください。また、そちらに出ている薬草と水を少しばかり飲むといい酔い覚ましになると思いますよ」
メアリーが薬草と薬を服用した後、突如としてその場に伏せ、やがて深い寝息と共にいびきをかき始め、あっという間に眠りについてしまった。
「おい、何をしたんだい?」
「肝臓に効く薬草を差し上げただけだよ。とはいっても、副作用に少しばかり眠気を感じるが、相当酔っていたようだね。そんなことより、キッチンに来た目的を果たさなくては」
私とホームズがキッチンのゴミ箱を探り始めると、目的のものはすぐに見つかった。ホームズの言う通り、ベーコンエッグとミネストローネが捨てられた痕跡が明らかだった。それを確認した瞬間、この部屋についての捜査は既に必要ないと判断したのか、私たちは再び廊下に出た。その時、執務室から出てきた執事のピーター氏が、自らの寝室へ向かうところだった。彼が寝室へ向かうのを確認した後、ホームズは執務室の扉に近づき、ブレザーから鍵を取り出して、それを扉の鍵穴に挿入した。ガチャリという音と共に扉の施錠が解除されるのがわかった。
「それも君の魔具かい?」
「そうだとも。予め僕の魔法が込められていて、一般人が使う施錠魔術であれば、大抵のものはこの鍵一本で開錠が可能になっている。そんなことより誰か来ないうちに早く扉を閉めてくれないかい?」
部屋の中央奥にはテーブルと机が配され、その周囲には書類や書籍を納める棚が整然と置かれていた。左手にある棚を注意深く覗くと、不動産の権利証明書や従業員、委託先との契約書、支払い明細などが、契約の種類や対象ごとに、日付順に整理されている。細かく観察すると、執事やメイド長、副社長などの名前が索引に丹念に記載されていることが判明した。ホームズは彼らの名前が記された契約書に目を通している様子だったので、私は視線を右側の棚へ移した。そこには、ブランドの歴史を物語るコレクションが年代ごとに綴じられたファイルが並んでいた。ミス・ココの言葉どおり、50年前、小さな工房で勤しむ若き日のヴィトール・ココ氏と、おそらくウォズ氏であろう人物が、共に革鞄を手作りしている様子の写真が挟まれていた。その後のページをめくると、財布やキーケースなど、多様な革製品が紹介されており、それぞれが左右非対称でありながらも絶妙なバランスを保つ逸品へと昇華されていた。さらにページを進めるにつれ、作品は次第に格式高い洗練を見せ、安定したデザインが目立つようになる。一番新しいページには、私も目にしたことのあるブランドロゴが大胆に施された小物からドレスまで、幅広いジャンルの製品が揃っており、その進化と拡大の歴史が見て取れた。
ブランドの歴史に目を通し終え、私は他に何か注目すべき点がないかと本棚を見回した。その際、棚の一角に通常よりも厚みのある仕切りが設けられているのに気づいた。そこには、おそらく執事が参照する書籍や、邸宅内での従業員の労働を管理するための書類などが収められているようだった。その収納された書類群の中でも、『ケンタウロスのアラビアン・ナイト』と題された小説シリーズが特に目を引くほどの幅を占めていた。興味を惹かれた私は、そのシリーズの一冊を手に取り、ページをパラパラとめくっている最中、ホームズが突如私の傍らに姿を現した。
「なるほど。とんだ変態人狼だ」
「どういうことだい? ホームズ」
「これはいわゆる、いたずら本というやつだよ。中身は成人向けのものであるがね。ほら、お嬢様の話であった、執事のピーターが事件現場に慌てて到着したとき、彼はいつもしていない眼鏡をしていたといっていただろ。それはおそらく僕が持っている拡大鏡のような、といってもそれよりもだいぶ低俗なものだと思うが、魔術の痕跡を可視化する魔具に違いない。それを通してこの本を見るとだよ」
ホームズが拡大鏡を、私が手にしていた『ケンタウロスとアラビアン・ナイト』のページに向けると、外廊下から足音が近づいてくるのが聞こえた。どうやら来訪者はこの部屋に向かっているようだ。私は一瞬のうちに本を棚に戻し、ホームズに導かれるまま部屋の隅へと静かに身を隠した。
「ワトソン君。息を止めて物音を出さないように! 屈折、反射、我々が見ているものは結局光。苦節、感謝、我々を隠すのもまた光」
ホームズがささやかな呪文をつぶやくと、瞬時に扉の鍵が解かれ、ドアが静かに開いた。そこには執事のピーター氏が立っており、彼の眼差しは部屋を急ぎ足で探索し、最後には我々が隠れる隅へと鋭く注がれていた。
彼との視線が交錯した瞬間、時間が凍りついたように感じられた。現実世界ではほんの数秒、あるいは数十秒の出来事であったかもしれないが、その瞬間は私にとって永遠にも等しく、心の中で次々と言い訳を練る間もなく、時は流れていた。しかし、ピーター氏は我々に声をかけるでも、怒声を上げるでもなく、驚くべきことに、本棚にあった『ケンタウロスとアラビアン・ナイト』の第8巻を手に取ると、ただ静かに扉を閉め、廊下に足音を響かせながら姿を消していった。
「いったいどうして、彼はあのままいってしまったんだ? 私は彼と目が合っていたぞ!」
「落ち着きたまえ、ワトソン君。彼が先ほど見せてくれた光魔術を少し応用してみたまでに過ぎないよ。さぁこの部屋での調査は終わったことだし、さっさと次の調査へ移ろうじゃないか」
「君に言われるまでもなく早くこの部屋を後にしたい気持ちでいっぱいだよ」
胸の鼓動が高鳴る中、慎重に執務室のドアを開け、廊下に誰もいないことを確認した後、エントランスホールの左側にある階段を静かに上り、来客用のエリアへと足を進めた。ホームズが自室へ戻るのかと思い彼の後を追うと、予想に反して彼は我々が案内された部屋ではなく、その隣の一番奥にある部屋の扉を3回ノックした。「どうぞ」という声の後、部屋に足を踏み入れると、そこには4フィートほどの小柄ながらも肩幅の広い、ずっしりとした存在感を放つ人物がいた。顔に刻まれた深い皺は、彼が初老であることを物語り、またその様子からは、この人物が凡庸な存在ではないことも感じ取れた。この調査で出会った人々の中で特に際立った存在感を放つこの人物、それは副社長ウォズ氏に他ならない。
「夜分遅くに失礼いたします。私、私立探偵のシャーロック・ホームズというものです。今回のヴィトール・ココさんの事件を受けて、娘のマリリンさんよりご依頼をいただき、参上した次第でございます」
「お噂はかねがね伺っております。それに私も今回の事件についてはどうも腑に落ちない点が多く、いかに対処すべきかと案じておりましたところです」
「ほう、それは大変興味深いですね。私もこの事件の奇奇怪怪な面々には既に深く心を動かされています。ウォズさんの見解も、ぜひ伺わせていただきたいものです」
「あなた様のようなご高名な探偵の前で意見を述べることは大変恐縮ですが、答えはとても単純で、我が旧友の死因を考えた時、容疑者として逮捕された料理人のロビンの魔術ではそれは到底不可能だということです。彼が入ってきたのは、わが友ヴィトールが燃え始めたあとです。壁などを介してピンポイントに彼だけを燃やすといった芸当が彼にできるとはとても思えないという、ある種皮肉めいた私の考察により彼は事件の犯人ではないのではないかという至極単純な憶測です」
「なるほど。僭越ながら、私の推理と大筋は一致しておりますね。では、恐縮ですが、あなたは誰がこの事件の犯人だと思いますか?」
「それは非常に難しい問題です。そもそもあの現場にいたメンバーについて、私は何十年も前から、マリリンに関しては生まれたその日から知っているのです。彼、彼女らがヴィトールに対して、よからぬ感情を持っていたとしても、決して人殺しに手を染めるような悪人はいないと私は確信してしまっているのです。なので、私は誰それが怪しいという発言については、それを反証するための材料の提示や憶測を多数提案することはできても、私自身が直接誰それが犯人ではないかと断定する立場を取るのは非常に困難だということです」
「あなたが、非常に理知的で心の優しい方ということはわかりました。これは一見捜査に関係ないように思えても実は大事なピースであったりするんですよ。ところで、調査の一環として、現場にいた方々の魔術を拝見させていただいているのですが、ウォズさんの水魔術もお見せいただくことは可能でしょうか?」
「はい、もちろんです。ではお見せしますね。結合の理に従い、かの魔素よ。交わりたまえ、ハイドニンバス」
トクトクと音がして、その方向に視線を向けると、テーブルの上に置かれたコップが、一瞬で水で満たされ、ぴたりと一杯になるところで止まった。その光景に驚嘆し、ホームズの方を見ると、彼もこの不思議な現象に目を見張り、何かを考え込むように沈黙していた。
「水道関連の魔術の向上で、水魔術はほとんど役割を失いましたが、今回は火の被害を抑えるのに役立ってよかったと思っています」
「実に洗練された魔術でございますね、深く感銘を受けました。また、明日がお二人が始めた工房が今の会社の礎となり、50年の節目を迎える大切な日であると伺っております。このような節目の時に、ココブランドを共に築き上げてきた盟友を失うのは、言葉に尽くせぬ悲しみであることと思います。心からお悔やみを申し上げます。きっと、明日の節目を二人で迎えたかったという思いがあることでしょう」
一瞬、ウォズ氏の表情が深い憂いに包まれた。私自身も、もしホームズとの友情が50年以上続き、明日が私たちにとっての大切な節目の年であれば、同じような悲しみを感じるであろうことは想像に難くない。
「そうですね。実は、50年目を迎え、後進も育ってきたので、そろそろ一線から退くことを彼にも相談していたところなんです。そんな矢先にこのような事件が起きてしまいました。幸いなことにマリリンは彼の経営手腕と私の工芸技術を十二分に引き継いでいるので、会社のこの先について、何も心配はしていないのですが。明日、新しい代表となったマリリンに辞表を提出しようと思っています。この命は一緒にはいけませんが、せめて彼と一緒に会社を去れたらと思っています」
「ココさんはあなたにまだ習うことがあると仰っていたので、それを望んでいるようには思えませんが、それはご本人たちがよく話し合うことで、部外者の私は発言を控えさせていただきましょう。あなたの今後の人生において、私は一切の責任を負えないのですから。それでは、夜分遅くに大変失礼いたしました」
ホームズがウォズ氏の部屋を出た後、我々の部屋へと足を運んだ。部屋に掛けられた時計が午後9時を告げているのを見ると、ホームズはソファに腰を下ろし、服から未開封のタバコを取り出して、一本をパイプに詰め、静かに一服し始めた。彼が思索にふける姿を見て、私は彼の思考を邪魔しないよう、静かにジャケットを脱ぎ、ベッドに座って手にしていた小説に目を落とした。当初は、今回の事件の謎が深過ぎて、小説に集中できなかったが、10分ほどが過ぎるうちに、自然と物語の世界に心を奪われていった。ふと意識が現実に戻り、ホームズの方を見ると、彼は先ほど取り出したタバコの最後の一本を嗜んでおり、その一服がちょうど終わるところだった。
「ワトソン君。君は沈黙に対しての耐性があるね。僕は話したい時に話し、そうでないときには話さない。そうしたメリハリがどうしても必要になる質で、君の沈黙に対する耐性は何事にも代えがたいものであるよ。それ故に、君がいるといないとでは天と地ほど差があると、本件の前の発言があるが、あれは心の底から思っていることだんだよ」
「君が人を褒めるのは珍しいね。それで今は何を話したい気分なんだい?」
「実を言うと、今回の事件についてその奇奇怪怪は極まり、まるで迷宮を進んでいるような気分になったことは言うまでもない。実際の調査に入る前に私が持っていた100余りの仮説もその全てが反証され、調査中に得た仮説もそのほとんどが水泡に帰したといっても過言ではない」
「けど、君はたどり着いたのだろ? この事件の真相に」
「おそらくそうだ。しかしながら、それは非常にあり得ないことなんだよ。それでも、それ以外の仮説が全て違うのであれば、これ以外にあり得ない。そんな真実なんだ。そして、もしこれが真実だとするならば、私はこれから何をすべきかという問に対して答えを持っていない。というのも、私が事を起こさなくても、今逮捕されている若者は釈放され、依頼人の願いは叶えられるときている。そして私がこの真実を確かめることは、この世の全体を見渡した時にただただ余計なことであり、むしろ不幸な人を1人増やすだけの結果になってしまう可能性があるだけなのだ」
「でも、君はその真実を確かめたいんだよね? そうであるならば、真実を確かめるべきだと私は思うよ。だって、真実そのものに善悪なんてものはない、それが暴かれることに意味を見出すのは私たちの意思そのものであるはずだよ。そうであるならば、例え、君の予測通りに不幸になりかける人がいても、それは意思次第でどうにでもなるということではないかい? というか、君もそう考えているから私にそんな考えを打ち明けるだけで、君の中でもう結論は出ているんだろ?」
「さすが僕の親友だ。そう僕は結論を出している。そして、それを確かめるために我々はもう一度あの部屋に向かわなくてはならない」
時刻は午前1時を過ぎ、邸宅は静寂に包まれていた。我々は物音を立てないよう慎重に廊下を進み、階段を降りてエントランス・ホールに至った。そこから奥へと進むと、事件現場となったダイニングルームの入り口では、禁魔の番人が施した隔離魔術が、不気味な紫色の光を放っていた。以前のように隔離魔術を解除し、事件現場に入るのかと思いきや、ホームズはその向かいにある執務室へと歩みを進め、解除魔術のかかった鍵を使って、静かにその扉を開けた。
「ホームズ、この部屋に証拠でもあるのかい?」
「いや、証拠なんてものはないが、犯人にとってそれよりも重要なものがある。ちなみにそれは、先ほどの調査で私が抜き取っているので、今は私の手元にあるがね。そんなことより、もし私の推理が的を射ているならば、犯人がその重要なものを求めてまもなくこの部屋に足を踏み入れるはずだ。先ほどの光魔術で身を隠すからこっちへ寄ってきてくれ。息を殺して、静かにしていてくれ」
ホームズの指示に沿って部屋の右側の隅に肩を寄せ合い、彼が先ほど唱えた呪文と全く同じものを再び唱えて、そこで静かに待機した。この部屋に入る必要がある人物は一人だけだと私は考えていたが、その人物が現れるのを、息をひそめてじっと待ち続けていた。
妖精戦争で敵から身を隠すために沼地に潜んだときのことを思い出し、高鳴る鼓動と速くなる息を必死で抑えながら待機していると、ガチャリと扉の鍵が開く音がして、ドアがゆっくりと開いた。ドアの向こうに立つシルエットを心の中で描いていたが、闇の中では来訪者の姿を確かめることはできず、ただ部屋への侵入者の微かな物音を頼りに、その者の位置を探ろうとした。やがて、左側の棚から物音が聞こえてきて、書類がめくられる音がした後、しばらくしてページをめくる音が静まった。
「なぜだ?」
その者の声が部屋に響き渡った瞬間、ホームズは光の魔術を光源へと変化させ、部屋全体を明るく照らし始めた。真っ暗な闇から突然の明るさに、私も犯人も思わず目を手で覆いながら、徐々にその眩しさに目を慣らしていった。
「やはり、そうだったのですね。ヴィトール・ココ氏を炎による魔術で殺害したのは、ウォズさん、あなたですね」
ホームズの言葉が終わるやいなや、私の瞳もついに光に適応し、先ほど物音がした棚の方へ視線を向けると、そこには4フィートほどの小柄で初老のドワーフが立っていた。
「ホームズさん、あなたはどこまで深淵に至ったのか。よろしければ、私にお話いただくことは可能でしょうか? この状況を客観的に見るのであれば、私は故人の執務室に入る泥棒であり、その罪は故人の殺害とは何もつながりがないように思うのが自然といったところでしょう」
「仰る通りです。そして、今回私が申し上げる推理は犯人が自身を犯人と認めない限りにおいて、それを証明をすることは極めて困難なものになります。そういう意味ではこれは完全犯罪であり、犯人の良心に全てが委ねられているといっても過言ではありません。ですが、私が至った真実について、あなたが興味をお持ちのようなので、あなたが工房において神業を披露しているのと同様に、私もその全てを投じてお答えしたいと思います」
「ありがとうございます」
「それではまず今回の事件のあらましについて確認したいと思います。被害者は本日午前9時過ぎごろに突然発火し死亡。現場に居合わせたのはあなたと娘のマリリン・ココ氏、そしてメイド長のメアリー氏で、出火してからすぐに執務室から執事のロビン氏、キッチンからちょうど朝食を配膳しようとしていた料理人のロビン氏が駆け付けました」
「そして禁魔の番人の捜査の結果、料理人のロビンが逮捕された」
「はい、そうです。禁魔の番人たちの結論は、事件発生時点で現場にいることができた人物のうち、炎熱魔術を使える人物がロビン氏の他にいなかったこと。また、被害者の魔術痕を確認したところ、消火活動に使われたあなたの魔術以外の痕跡がなかったことから、状況証拠を踏まえて彼を逮捕したのだと思われます。しかしながら、彼の炎熱魔術の飛距離はせいぜい1フィートで、ましてや壁ごしに動く相手に標準を定め、他に痕跡を残されてないとなると、彼の有する魔術では到底不可能といわざるを得ない。あるとすれば、透明マントで既に部屋に隠れており、被害者の近くに潜みタイミングを見計らって、炎熱魔術を使用したことも考えられますが、事件発生現場の水魔術の水跡を見るに、被害者のそばに誰かが立っていた形跡は見られない。よって、発火時点において、被害者のそばに誰かがいたという事実がなかったといえるでしょう。もちろんこれは現段階では仮説でありますが、容疑者の所持品の押収で禁魔の番人が保有している透明マントについて鑑識魔術を通せば、あなたの水魔術の痕跡がないことがわかるはずです」
「ホームズ。ということは、やはり、料理人のロビンさんは犯人じゃないのだな」
「依頼人に幸いなことに、そうだよ、ワトソン君。次に現場にいたメイド長のメアリー氏についてだが、彼女の魔術は手に触れた金属製のものを温めて、空気を循環させることです。もし彼女が彼女の持つ魔術の本質を隠しており、実は金属製以外も温度変化ができたとしても、その時メアリー氏は同じ部屋にいたとはいえ、被害者に触れられる距離にはいませんでした。また、仮に今回の事件が彼女の魔術によるものであれば、激しく燃焼をあげる前に被害者は溶けてしまっていたでしょう」
「確かに、これまでの供述に出てきた発火とはまた、別の事象が発生しそうだな。執事のピーター氏はどうなんだい?」
「そうだね、ワトソン君。執事のピーター氏については、先ほどのロビン氏の説明と一緒で、部屋の外、ましてや執務室にいたのでは、更に犯行は難しいから、論外だ。アリバイについても、彼が事件発生時に仕事をサボって読んでいた愛読書とそれを見るための眼鏡の魔術痕を見れば、犯行時点で何をしていたかを証明できるはずだ」
「そして、最後に私が容疑者として残ったと」
「いえ、正確に言えばマリリン・ココ氏もこの段階では残っています。しかしながら、彼女には父親を殺すほどの強力な動機がない。もしあなたの犯罪証明ができなければ、彼女についてもさらに詳しく仮説構築をする予定でしたが、あなたにまつわる一つの仮説がこの事件の全てを説明しうるため、その必要はなくなりました」
「では、聞かせてもらえますか? その真実というものを」
「はい、まずこの事件において最も不可解な点があります。それは被害者の死因となった炎熱魔術の痕跡が一切なく、あるのはあなたの水魔術の魔術痕だけということです。私もこの仕事について長いですが、これまでの長年の黒魔導士との対決でも、魔術痕が全くないということはありませんでした。熟練の魔導士であれども、自身が放った魔術について攪乱魔術を複数かけることで、魔術痕の解析を不可能にすることはあっても、魔術痕そのものを無くすことは不可能ということです。なので、私は魔術痕は、最初からそこにあるのではないか?と考えました。つまり、現場に残された水魔術の魔術痕こそが、今回被害者を焼き尽くした魔術痕なのではないかということです」
「なんだって? どういうことなんだい、ホームズ! 水を出す魔術が炎を出したというのかい?」
「そのまさかが起きているのが、今回の事件の最も奇奇怪怪な点なのだよ、ワトソン君。この仮説に至ったのは、あなたが私に魔術を見せてくれた時の詠唱です。普通の水魔術であれば、水の精霊アリアとの契約による媒介魔術であることが主ですが、あなたのそれは違っていた。直接魔素を操ることで水を生み出す、生成魔術か操作魔術の類でした。これを見た時に、あり得ないと思っていた水を生み出す力で、炎も生み出すという、これまで話してきた仮説の中で最も突拍子もなく現実離れした仮説を根拠づけることになりました。つまり、あなたの魔術の本質は、魔素であるヒューガとオルガを生成するか、もしくは大気中のそれらを操作する魔術のいずれかに当たるということです。魔素の粒度で生成もしくは操作が可能なのであれば、最も可燃性の高いヒューガとオルガを2対1の割合で、大量かつ一気に集約させれば、カルボナでできた我々の肉体は一気に燃焼するということになる」
「そんなことが可能なんて、、、」
「ワトソン君、いつも僕が言う通り、どんなにあり得ないことのように思えても、それ以外の全ての可能性を検討した結果、そうとしか考えられないという結論に至ったのだよ。それに君も事件現場で不可解に感じたかもしれないが、被害者の中心から途中までは濃い水跡が残っているが、そこから急にグラデーション上に乾いていた。これはつまり、二度の放水を意味するんだよ。一度目は燃焼時に副次的に発生した水、二度目はそれを消火するための水。この事件におけるこれらの奇妙な点と点を合わせて、それを繋げる線こそが、今回の、魔素を扱った燃焼魔術に他ならないということだ。ウォズさん、私の推理ついてどう思いますか?」
黙々とホームズの推理に耳を傾けていたウォズ氏は、一瞬、ほっと安堵するような表情を浮かべた。その後、しばらくの間、部屋は言葉を失ったような気まずい沈黙に包まれた。
「素晴らしい推理だと思います。そして私はその全てがこの事件の全てを説明しうると考えております。ですが、一つだけ聞かせてください。マリリンについては動機はないと仰っていましたが、私が親友を殺める動機はなんでしょうか?」
「私は直接被害者と面識はないものの、これまでの聞き取りや書類の調査を通じて、彼の人柄についてある程度の理解は得ています。率直に申し上げれば、彼は道徳的に問題のある人物であったため、どの界隈であれ彼に恨みを抱く者が多いことは容易に推測できます。彼がこれまで結んできた業務委託先との契約条件や従業員との主従契約を見れば、皆目見当がつきます。その中で特に不利な条件で主従契約を結んでいる人が、彼が経営する会社のNo.2であるのであれば、動機としては十分であると考えました。もちろん、これらの事実から様々なことを想像することは可能ですが、それらは事実に基づく仮説ではなく、仮説に基づく仮説といった妄想の類になってしまうため、事実を持つ本人の前では語る意味がないと考えています。もしよければ、本人の口からこの点について説明していただけると、私にとっても謎が解けることになり、大変ありがたいのですが、いかがでしょうか?」
ホームズの言葉を受けて、ウォズ氏はわずかなため息をつき、その深く響く声で、彼に何が起こったのか、そしてその出来事が彼と彼の盟友にどのような運命をたどらせたのかを語り始めた。
「彼と出会ったのは、私が18の頃です。当時私は父親がやっていた工房で働いていました。そこに、私と同じ年の少年が働かせてほしいと言って、父の工房の門を叩いたのです。父は断りましたが、その少年が毎日のように懇願しに来るので、頑固な父もさすがに根負けして、遂にはこの少年を父の工房で雇うことになったのです。その少年こそが、私が人生のほとんどを一緒に過ごすことになるヴィトール・ココの若かりし頃に他なりません。ヴィトールが工房入りをすると、私は父から彼を指導するように言われました。最初こそ、工房では一番下っ端だった私は、私よりも下の者ができて喜んでいたのですが、その喜びは束の間で、彼は全く持って職人としての才能を持っていなかったのです。というよりも、職人の修練を鍛えるという考えすらないようで、彼が私の指示に従ったことは今までに一度もなかったように思われます。ただ一つ、彼にはとてつもない才能があったのです。それは商才で、彼は世の中で何が求められているかについて誰よりも見えていたのだと思います。彼が来て数か月が経ったある春先のことでした。一度彼の口車に乗って、彼が言うとおりにカバンを作ってみたところ、そのカバンを街の有力者が気に入り、我々の工房が扱う商品では考えられない高い金額で購入をしてくれたのです。そして、その富豪が持っていることで私たちの工房は街で評判になり、同じカバンの注文が大量に舞い込んできました。私とヴィトールは親方である父に、そのカバンを作って売りたいことを伝えると、すぐに却下されました。なんでも、職人は自分の技を鍛えるものであって、あんな未熟な作品を世に広く売ることはできないと言うのです。今でこそ、父が断った理由がわかりますが、その時の私は若く、自分に根拠なき自信もあり、社会に広く認められたいと思っていました。なので、私は父のその判断が許せなかったのです。その時、ヴィトールから彼と一緒に独立しないかと誘いを受けました。なんでも投資家を口説き、当面の工房の運転資金もあるので、1年間は自分たちで作りたい商品を作れるというのです。私は彼の話に乗り、父の工房を辞め、ヴィトールと一緒に工房を立ち上げることにしました」
「その時に結んだのが、この主従契約ですね」
ホームズが一枚の契約書をウォズ氏に差し出すと、彼は一瞬目を見開き、驚愕の色を浮かべたが、すぐさま冷静を取り戻し、ホームズへと視線を戻した。
「あなたが持ってましたか。どうりで探してもないはずだ。そうです。その時、この主従契約を結びました。主従契約の内容は、50年にわたって私が商品を作成する権利そのものをヴィトールに譲渡するというものです。なぜそのような馬鹿げた主従契約を結ぶのかと疑問に思われるかもしれませんが、当時の私は根拠なき自信を持つとともにとっても臆病だったと言わざるを得ません。そのため、この契約を盾に父に工房を辞める説得材料にしたかったのです。そして、50年の主従関係という強力な制御可能項削減の適用により、ヴィトールのもとでの私の修練は向上し、未熟だった私も、父に並ぶ工芸技術を得ることができたのです。それからはほとんどがあなた方が知る通りの、ヴィトール・ココの歴史です。商品のジャンルを広げ、そのたびに人気商品を作ってきました。一つだけ歴史を正しく修正するのであれば、それらの全ての商品のデザインはヴィトールが担当してきたということです。元々は奇抜なデザインで名をあげた私たちですが、ブランドが確立するにつれて、よりオーソドックスなものに変わっていきました。その理由は単純で、彼はデザインの一線から外れ、より経営に注力するようになったからです。その頃から私の中で空虚な時間が流れていきました。何も面白みがない商品を作っては、ヴィトール・ココの名前さえあれば売れる。そんな退屈な時間を持てあまし、私自身がデザイン指揮を取ることもありましたが、商品化の採用はされず、知人へのプレゼントになるばかりでした。そんな折に、私のデザインを気に入ったある工房を経営する知人から、私のブランドを持たないかという打診を受けました。それがちょうど先週の出来事です。退屈な日々に苦悩していた私に対して、それは天啓にも思えました。ただ黙って独立することは私の筋に反することなので、50年の契約を終える前日、つまり昨日の朝に、ヴィトールに独立しようと思っている旨を伝えると、ヴィトールは激怒しました。誰のおかげで今の地位があるのか、才能のないお前をここまで連れてきたのは俺だというような、50年近く連れ添った友人であり、自分自身を支えてきた人物に対して、これほどの罵詈雑言が飛ぶかというほどの、酷い非難を受けました。その時、こんなやつのために表に出すべき名前も隠し、経済的な享受も受けず、自分で作りたいものを作れない無駄な時間をずっと耐えていたのかと思うと、私の腹の中でどす黒い何かが渦巻いてくるのを感じました。とはいえ、明日で関係が切れるので、終わり方は残念だったが、お互い別の道を歩もうと私が言うと、あの男は薄ら笑いを浮かべて言ったのです。それは無理なことだと。なんでも、私があいつと50年前に結んだ契約には、契約解除・更新についての条項が設けられており、初めての契約満了日から1ヶ月以内に主が更新を望む場合、契約は自動更新がされるというものだというではありませんか。その話を聞いた時、私の中でこれまで保っていた糸がプツンと切れるのを感じました。彼は、勝ち誇ったように笑い声をあげると、これまで通り飯くらいは奢ってやるので、精々頑張ってくれと笑えない冗談をいい、私を朝食へ案内しました。それから起こったことはあなたが推理した通りのことです。彼を殺し、その全ての権利が相続人のマリリンに渡った今、彼女が私との主従契約を知る前に、その契約書を隠し、更新期限を迎えることで、晴れて私は自由の身になるという算段だったのです」
彼から語られた真実を耳にした後、一同は言葉を失い、再び重たい沈黙が部屋を包み込み、気まずい空気が立ち込めた。
「それでは、私も私の持つ真実の全てを話しました。その契約書が私にとってどのような意味があるかをご理解いただけたと思います。ホームズさん、そちらを私にお渡しいただけますか?」
「もし無理と言ったらどうなりますか?」
「そうですね。その場合は致し方がない。力づくでとなります」
「それでは、是非その力づくとやらで私の手からもぎ取って見せてください」
ホームズがウォズ氏を挑発すると、ほんの一瞬で空中に無数の小さな水の球体が形成され、私たちの方に向けて放たれた。その水の弾丸の一部が私の腹部に直撃し、激痛に悶える中、ホームズはそれらの水弾が自身に届く直前に、巧みな魔法で水を蒸発させ、被弾を巧妙に避けていた。ウォズ氏はホームズに対して水弾攻撃が無効であることを悟り、一時攻撃を停止した。
「16の魔素を2つ宿し、32の重さを持つものよ。この地に集まりたまえ」
ウォズ氏が何か呪文を唱えているのを見て、しかし目に見える水のようなものは現れないので不思議に思っていると、ふと、頭がぼんやりとしてくるのを感じた。
「ワトソン君!」
ホームズの叫び声が聞こえると、彼に腕を掴まれ、引きずられるように、エントランスホールへ向かう。
「部屋の空気のうちオルガの成分を多くすることで我々の神経系にダメージを与える算段らしい。あの魔術を扱うものに密室では勝ち目はないので、庭へ移動する。君は回復呪文でまずは自分を回復させ、隙を見て魔弾丸で相手の気を引いてくれ! あと一つ、彼の魔術の謎を解き明かす必要がある」
ホームズの言葉が終わるか、終わらないかのうちに、再び水の弾丸が私たちに降り注いだ。階段の影に身を潜めながら、私は腹部への激痛を和らげるため、回復の呪文を静かに唱えた。
「ワトソン君。私が合図をしたら、庭に全速力で走ってくれ。そして、生垣を移動しながら、当たらなくてもいいから魔弾丸をできるだけ多く撃ってくれ。いいね。それ、いち、にの、さん!」
ホームズの計画を信じて、階段の陰から抜け出し、全速力で玄関に向かった。背後で眩い光が発せられるのを感じつつも、振り返ることなく玄関を出て、直ちに生垣の陰に身を隠した。間もなくホームズも生垣の別の場所に身を潜めているのを確認できた。その後、玄関からウォズ氏が左足を引き摺りながら姿を現した。おそらくホームズの麻痺呪文の影響を受けているのだろう。ホームズの指示に従い、私は隠れた位置から魔弾丸でウォズ氏を狙って発砲し、その後速やかに位置を変え、別の場所から再び発砲を続けた。顔を出さずに狙いを定めるため、命中した感触は得られなかったが、私はホームズの言葉を信じ、この行動を繰り返し行った。
「1の魔素を2つ宿す、軽きものよ。ここに集まれ!」
ウォズ氏の詠唱が再び響き渡ると、信じがたい光景が目の前に広がった。ウォズ氏が、まさに空中に浮かんでいるのだ!その現実離れした光景に圧倒されていると、ウォズ氏の視線が私に注がれた。反射的に魔弾丸を構えようとしたが、時すでに遅し。私は彼の強力な水魔術の猛攻を受け、意識が朦朧とする中で、ホームズが私のそばに姿を現した。
「友よ。君のおかげで最後の謎を解くことに成功した。これで彼の魔術ライブラリを完全に解読することが可能になるはずだ。ぶっつけ本番にはなるが、私の理解が正しければ、これで試合終了だ」
彼は私を肩に担ぎながら、生垣の隙間から開けた場所へと移動した。そこで対峙する形で、ウォズ氏が空中から優雅に地上へと降り立った。その様子は、まるで何か超越的な存在が、我々に何らかの裁きを下そうとする直前の、荘厳な一幕を彷彿とさせるものだった。
「ホームズさん。なぜあなたはその契約書を守るために命がけになるのだね? あなたは本件について赤の他人に過ぎないだろう。なぜそこまで頑張れるのだね?」
「私にとっては謎を解き明かすことこそが最高のご褒美なのです。そして今、その巨大な謎の淵に立ち、それを解明する直前までこぎつけることができたのです。これ以上に望ましいことはあるでしょうか。なので、是非あなたの魔術で私を主従契約書ごと焼き払ってもらえると嬉しいです」
「なるほど。あなたが言っていることについて、少しだけわかる気がします。お望み通り私の最大化力をもって、あなたにぶつけたいと思います。覚悟はいいですね?」
「もちろんです」
ウォズ氏が一際長い詠唱を唱えたのち、彼の頭上には巨大な炎の球が出現した。その炎は、まるで何かがうなり声をあげるかのように勢いよく燃え上がり、この世のすべてを焼き尽くすかのような勢いであった。それが私たちの方向へと放たれると、私の視界は一瞬にして燃え盛る炎に包まれた。この炎に包まれれば、灰になるのは確実だと感じたが、不思議と心は平穏だった。私の信頼する友であり、まごうことなき天才で現代の魔法使いであるシャーロック・ホームズが大丈夫と思うのであれば、それを信じない手はないからだ。ホームズの方を見ると、彼はその炎を見つめながら、満面の笑みを浮かべていた。
「美しい」
彼の唇からかすかにそんな言葉が漏れたように思えた。そして、炎が我々に届く寸前に、跡形もなく消失し、視界が一気に明るくなった。その直後、ホームズが一際長い詠唱を始めると、今度は彼の頭上に、先ほどウォズ氏が生み出したものよりもはるかに大きな炎の球体が現れた。ホームズはそれをウォズ氏の方向へと放った。ウォズ氏はどこか安堵する表情を見せたが、炎がウォズ氏に届く直前に、その炎はまるで風に散る煙のように消え去った。ウォズ氏は、なぜそうなったのかを問いかけたそうな、困惑に満ちた表情でそこに立ち尽くしていた。
「私は法を司るものではないので、あなたの命運を握りたくはない。そして、私の依頼はあくまでもロビン氏の冤罪の証明。それをするためにもあなたに、ここでいなくなってしまうと、厄介なことになりますからね。それに、私が何もしなくてもあなたはこの証明に尽力することはわかっていました。実際、あなたの先ほどの炎は私が何をやらずとも飛散していたのですから。ですが、念のため、ロビン氏の冤罪が証明されそうにない場合の保険として、この契約書は私が保管しておくことにします」
「本当に、あなたは何もかもお見通しなのですね。わかりました。私はその契約書についてはあきらめ、彼の冤罪証明に尽力することを誓いましょう」
ウォズ氏と私たちは、深夜の静寂が漂う邸宅の中に入り、それぞれの部屋の前に立った。夜の静けさが、その別れの瞬間をより印象深いものにしていた。
「ウォズさん、それでは、良い朝をお迎えください。」
ホームズがそう告げると、部屋の扉を開けて中に入っていった。その後ろ姿を見送りながら、私も足を踏み入れようと、自分の部屋の扉に手をかけた。
「ワトソンさん、君の親友は世界で一番危うい存在なのかもしれない。私は私の知己に対してそうはなれなかった。でも、君は君の親友を正しい方へと導くことが君の生まれ持った使命なのかもしれない」
ウォズ氏がそう言葉を残して自室の扉を開け、その奥へと消えていった。彼の言葉の意味を考えながら、私はハッとした気持ちで部屋に入った。
「ホームズ、今ウォズ氏から…」
しかし、ホームズはもうベッドに横たわり、深い眠りに落ちていた。彼の安定した寝息を聞きながら、私もまた睡魔に包まれていく。時計は午前3時を指している。この時間なら通常、私たちは夢の中を旅しているはずだ。その事実に気づき、私は服を脱ぐ間もなくベッドに身を委ね、眠りの淵へと静かに沈んでいった―
部屋のカーテンの隙間から差し込む日光に誘われ、重いまぶたを持ち上げると、ホームズはすでに起床していた。
「おはよう。今朝の気分はどうだい?」
「最悪の二日酔いのようだ。悪夢を見たよ。そうだ! 昨日の、いや今日の深夜のあれは夢ではないよな?」
「確かに夢のようなめまいのする日であったことに間違いはないが、あれは間違いなく現実だよ。さて、依頼人に話をつけてくる必要があるので、私はいくが、君は昨晩受けた水弾の後遺症があると思うので、部屋でゆっくりと休んでいるといい」
ホームズがそう告げると部屋を出て、廊下に足を踏み入れていった。彼の言葉がきっかけで、私は突然、ウォズ氏から受けた水の弾丸の痛みを鮮明に思い出し、めまいを感じ始めた。そのため、自分に治癒の魔術をかけて心の平穏を取り戻すことにした。しばらく経つと、気分も随分と楽になり、帰途の準備を始めていると、ホームズが部屋に戻ってきた。
「ミス・ココは納得してくれたかい?」
「昨晩のうちに事件は万事解決したことを伝えたよ。数日のうちに意中の料理人の冤罪が証明されることを聞いて、安心したらしい。依頼料については、既に相応以上の報酬をもらっていることを伝えて断っておいた。せめてものということで、帰りの馬車と倫敦行き特急の一等車の経費だけはいただいたがね」
「君がもし本当に稼ぐことだけに注視したのなら、今頃大きな事務所が倫敦の中心街に立っていたことだろうと思うと、いささか不思議な気持ちになるよ」
「君が、そんな資本主義の奴隷みたいなことをいうなんて、珍しいね。僕は謎と真理さえあれば、それでいいのだよ。今回の事件は、これまで解いてきた謎の中で指折りに入る奇奇怪怪さだった。それで十分じゃないか」
「君の言う通りかもしれないな」
魔術革命を機に人類の生産性が急激に向上して以降、顕著になった資本主義的な思想は、これまでの魔法信仰を覆してしまった。だが、経済的な豊かさと幸福が同一視される現代社会において、人々の倫理観は徐々に薄れていき、それが皮肉にも幸福から最も遠ざかる結果を招くという矛盾を、私たちは目の当たりにしている。そして、その典型であり、現代の縮図が今回の事件の様相を呈してることは疑わざるを得ない。
現代の流れにあって、ホームズは謎解きこそが至上の喜びであるという、まさに異端とも取れる独自の思想・哲学を持つ人物だ。しかし、資本主義的な思想と同じく、彼のその信条にも、他のあらゆる思想と同様、矛盾が内包されていると言えるかもしれない。彼をそうたらしめる彼の自我が今後、その矛盾をどう解決していくのか。それ次第で彼は現代における最高の魔法使いにも、歴代における最凶の黒魔導士にもなりうると考えると、昨晩のウォズ氏の発言を振り返らずにはいられない。
「君は君の親友を正しい方へと導くことが君の生まれ持った使命なのかもしれない」
私のような凡庸な人間が、そんな重大な使命を担うとは思いもよらなかった。しかし同時に、この使命が今後、恒久的に私の意識の中に存在し続けることになる、という現実を受け入れざるを得なくなった。
「さぁ事件も終わり、前金でもらった依頼料も十二分に余ったことだし、帰ったら、エバンス婦人に特製ローストビーフを作ってもらおうではないか」
ホームズと私は部屋を出て、ミス・ココに最後の別れを告げ、手配された辻馬車に乗り込んだ。馬車が動き出し、後ろに邸宅が徐々に小さくなると、昨晩起こった奇妙で非日常的な出来事が、まるで夢の一幕のように思えてきた。それは私の人生の中で、一瞬の小さな体験にすぎないかのように感じられた。
「ホームズ、そういえばあの執事が読んでいた本の中身は結局何だったんだい? 君は彼のことを変態と言っていたが」
「あれは、ケンタウロスの春画だったよ。あの人狼はケンタウロスにぞっこんらしい」
この事件における私に残された最後の謎は、兎にも角にもくだらないものであり、浮世離れした私を現実世界に戻すとともに、私を大いに笑わせることに役立った。
2週間後—
日刊ヴィクトリア新聞を広げると、「不吉の前兆か!? 怪奇現象により1人が死亡」という見出しの記事が、新聞の三面の一際目立つ位置に掲載されていた。
トールキン地方の街エレボール、工芸の名高いその地で、原因不明の発火事件が立て続けに発生しているという。そして、その連続する事件の中で、悲しいことに一人の命が奪われたとの報せが届いている。初めの事件で逮捕された青年が勾留されている最中に、第二、第三と続く発火現象が起こったため、彼は現在釈放されている。それ以降の発火事件では死傷者も被害もなく、禁魔の番人はこの地方特有の自然現象と不幸な偶然が重なったとして、事件に関してそのような結論を下したようだ。
その記事の隣には、事件で亡くなったヴィトール・ココ氏の輝かしい業績を称え、そして彼の遺志を継ぎ会社を引き継いだマリリン・ココ氏に焦点を当てたコラムが配置されていた。その文章は、一つの時代の終わりと新たな章の始まりを感じさせるものだった。ページをめくると、「68歳による飽くなき挑戦」という見出しの記事が目に入った。68歳で独立を決意した職人の工房にスポットを当てた特集である。掲載された写真には、満面の笑みを浮かべる職人が写り、その手元には奇抜でありながらも均衡の取れた、左右非対称の革鞄が丁寧に置かれていた。
午前中の診療を終えた後、この新聞をホームズに見せるために事務所に向かうと、彼はソファに座って一枚の書面を凝視していた。その書面がどこかで見たものだと思いながら近づくと、それはウォズ氏がヴィトール・ココ氏と結んだ主従契約書であることに気づいた。まさに今回の事件の発端とも言える重要な書類だった。
「やあ、ワトソン君。君が新聞をわざわざ届けに来るということは、何かしらの事件にかかわることであるね」
「確かに、この新聞はこの前のエレボールの一件についてだが、そんなことより、なんでその書面を出しているのだ?」
私の言葉が耳に届くや否や、ホームズは私の手から新聞を素早く引き取り、特定の記事を探し始めた。私が三面にあると伝えると、彼はページを素早くめくり、探していた記事を見つけた。記事をじっくりと読み終えると、ホームズは私の方に身を向け、何かを語ろうとする姿勢を見せた。
「これで、この書類は完全に意味をなくした。この事件の原因であり、被害者を被害者たらしめた呪われたこの書類の最後を、君と一緒に見届けるとしようじゃないか」
「私の記憶が正しければ、その契約書の更新期限は1ヶ月だろ? 2週間しかたっていないが、いいのか?」
「いいや、この主従契約には最初から更新条項なんてなかったのさ。おそらくヴィトール氏の商才の所以でもあるが、ウォズ氏に向けた発言はブラフであり、新たな主従契約を結ぶための駆け引きの一つだったのだと思う。彼らの契約書を初めて目にした時、これが決定的な動機になりえると直感が示しながらも、ただ単に契約内容に準じるだけでは不十分だったので、この仮説を採択することにした。だから、何があってもこの契約書をウォズ氏に見せることは避けたかったのだよ」
「なぜウォズ氏には真実を伝えなかったのだい?」
「彼が殺す必要もない人物を殺めていたと知ったら、その後どんな行動に出るかがわからないだろ。あれほどの魔術を持った人間を自暴自棄にさせるのはいささか危険極まりないということだ。もちろんこれは公共性に準拠した建前になっているが、僕の主観でいえば、彼ほどの人間が自殺するのは勿体ないという、ただの僕のエゴでもあるね。加えて、彼があの後に起こした怪奇現象が依頼人の目的を叶えることに繋がるのも、抗しがたい理由の一つでもあった」
「最後の理由は、君が怪奇現象を起こすのではだめだったのかい?」
「いくつかの理由でそれは出来なかったが、最も大きい理由が、僕がそれを望んでいないということだ。僕が魔法使いであることを明かしているのは、この世では唯一君だけだ。これはつまり、魔法使いとして名声をあげることはできるだけ避けたいということ。あくまでも探偵として名をはせた方が、この世の謎が舞い込んでくるに違いない。これが魔法使いともなると全くもって別の、下らない私情、私怨にまみれた依頼ばかりになってしまうだろう」
「君は本当に謎が好きなんだな」
「そう、僕は謎が好きだ。そして今回得た最も深い謎を持って、この事件の幕を閉じようじゃないか」
ホームズがテーブル上の主従契約書に指を向けると、それがまるで魔法のように宙に浮かんだ。次の瞬間、書類が突如として炎に包まれ、一瞬にして跡形もなく消え去ってしまった。
これにて、今回の事件「エレボールの炎」についての物語は全て語り終えたことと思う。この記述を通じて、読者の皆さんがホームズがたどり着いた真実の深淵にどれほど迫れたかを確認していただけることを願っている。
今回の作品は、仕事関連で統計学の書籍を読んでいた時に、シャーロック・ホームズの例が使われていたことを受けて、思いついたものです。統計学とシャーロック・ホームズが混ざるとどんな化学反応が起きるのかを思考実験してみたところ、それが面白かったので、それを小説の形にしようとしたのが、この作品の執筆の起点となりました。
少し統計を使った仕事の説明をすると、実際の理論を完全に理解していなくても、プログラムが書ければ結果を得られることが多く、その解釈方法さえ知っていれば十分な場合もあります。これは現場でよく見られる現象です。さらに、これを突き詰めると、実務で使う際に注意すべきルールを知っていれば、深く考えることなく分析を実行することも可能になります。これを聞くと、多くの人が驚くかもしれません。その理由は、統計学には常に数式が関わっており、これらを理解するためには少なくとも微分積分や線形代数などの大学レベルの数学知識が必要だと一般に考えられているからです。しかし、実際の現場では、数式の意味を深く理解し、実務で気を付けるべきルールを知っている人と、単に実務でのルールを知っているだけの人の間に、思ったほど大きな差はないことが多いのです。一緒に仕事をしていても見分けがつかないと言ってもいいのかもしれません。その理論を深く理解しようとする姿勢は、ある意味で趣味の領域に近いものと言えるかもしれません。私は思いますが、理論の本質を理解しようとする人と、表面的な行動だけをとる人の間の差がない、という現象は、私が関わっている統計学の分野だけでなく、他の多くの領域にも似たような事例が存在すると思います。
昨今注目を集めるAIの分野においても、これがより顕著で、理由は不明ながらも優れた結果が得られることがしばしばあります。その精度は高く、適用範囲も広がっています。この現象は、言っても過言ではないかもしれませんが、まさに魔術のようなものです。「十分に発達した科学は魔術と見分けがつかない」とアーサー・C・クラークは述べましたが、その言葉がAIの領域にも当てはまるように感じます。AIが台頭する現代は、人々が「なぜ」という問いを失い、ただ結果を享受する魔術の時代となっているとも言えるでしょう。だからこそ、目の前の結果や事象に対して「なぜ」と問い続け、その背後にある法則を追求することが重要になっている思えます。そうした探究心を持つ人、つまり魔法使いのような存在こそが、豊かな人生を送っているのではないかと考え、この本を執筆しました。
この世界では、魔術と魔法が対比的な関係にあると考えられています。本編からの引用にあたっては、「魔術とは魔法の表面的な出力、つまりライブラリ化されたものに過ぎない」ものとしてみなしています。この比喩は、統計や機械学習の分野から着想を得ています。統計や機械学習には、切っても切り離せない関係にあるのがプログラミングです。プログラミングもまた、魔術の領域に属しています。優秀な先人たちが開発した「ライブラリ」という神ツールのおかげで、本来ならば数百・数千行に及ぶプログラムを書く必要があるところを、わずか数行のプログラムで済ませることができます。このライブラリを使うことで、背後にある理論や論理を無視しながらも、分析結果を手に入れることが可能になっています。
確かに、これらのライブラリはコンピュータサイエンス、統計学の理論を基盤にして構築されているため、解読することは理論的には可能です。しかし、実際には多くの人が解読しようとはしません。私自身も、ライブラリの内部で何が起こっているのかを詳細に解読しようとしたことはありません。もちろん、「巨人の肩に立つ」という概念や「車輪の再発明を避ける」という考え方があるため、これが必ずしも必要ではないと言えるでしょう。しかし、そのエッセンスくらいは理解しておくべきかもしれない、とも思います。
私は、そのエッセンスを理解せずにただライブラリに依存する凡夫の一人であり、魔術革命以降の人々の代表とも言えます。そんな時代において、魔術の背後にある法則、すなわち「魔法」を解明しようとするのが、本作の主人公、シャーロック・ホームズです。彼は事象を観察し、事実を積み重ね、それに隠された一般法則を見出そうとします。今回彼が発見した法則は多数ありますが、中でも代表的なものは水魔術に関するものでした。
お気付きかもしれませんが、本作で登場する「ヒューガ」と「オルガ」は、我々の世界でいう水素と酸素に相当します。これら2つの元素を組み合わせることで、ウォズは水を生成していました。実際、水素(H₂)と酸素(O₂)を2対1の割合で混ぜ合わせると、非常に発火しやすくなります。その状態で点火すると、燃焼が起こり、水(水滴)が生成されることは、理科の実験で覚えている方も多いでしょう。実験では通常、発火は外部からの刺激によって引き起こされますが、本作では、「ヒューガ」と「オルガ」を大量に、かつ極小の点に集中させることで、大量の熱エネルギーを生み出し、自発的に発火させています。まさに神業と言えるでしょう。作中では、ホームズがこのメカニズムを理解し、ウォズの魔術を解読して再構築することによって、その魔術を使いこなすことに成功しました。なお、「ヒューガ」と「オルガ」の割合を2対1にする必要性は理解していましたが、具体的にどう実現するのか、何を基準にして2対1の割合を保つのかは最後まで謎でした。しかし、ワトソンの助けを借りて、この疑問にも答えを見つけることができました。この点については、読者の皆さんに最後の宿題として解いていただきたいと思います。
このように、舞台は近世であり魔法のファンタジー世界を描いていますが、モチーフは非常に現代的です。ホームズが言うならば、「奇奇怪怪」と形容されるような小説が、今回の作品です。もしこの作品が皆さんの退屈を少しでも紛らわせる手助けになったのであれば、著者である私にとってはこれ以上の喜びはありません。