第436話 絶望と希望
男は振り向くと、エリオットに向かって、その両手にあるものを全面に押し出した。
それは猫耳族の少女ミャーナと、魔導士ルシア──意識を失った二人の仲間の体だった。
【二段斬り】を仕掛けようと、剣を振りかぶりスキルの輝きをまとっていたエリオットの手が、ギリギリのところで止まった。
無理やりな攻撃キャンセル。
そこには当然、隙が生まれる。
男は二人の女冒険者を手放すと、拳を握り、エリオットの腹に叩き込んだ。
「──うぶっ! ぐはっ、がはっ……! おぇえええええっ……!」
エリオットはたまらず膝をつき、嗚咽する。
剣を取り落とし、苦痛にあえぐ。
そんな青年の首を、男の両手が掴み上げた。
「ぐっ……あっ、がっ……!」
「あばよ、雑魚。テメェの女たちは公衆便所として使ったあと、壊れたら送ってやるよ。テメェがこれから行く、あの世って場所にな」
首を絞めあげられ、宙に吊り上げられ、青年はもがく。
やがてそんな抵抗も力を失い、両腕、両脚がだらりと垂れ下がった。
エリオットが白目をむき意識を失っても、男は首を締め上げることをやめなかった。
青年の息の根を止めるまで、彼は力を緩めるつもりはなく──
「や、やめて! やめてください……!」
「……ああ?」
男にしがみつき、泣き着いたのは、部屋から駆け出てきたアンナだった。
虐待の限りを尽くされた姿の冒険者の少女は、男にすがりつき、必死に懇願する。
「お願いです、もうやめてください。エリオットを殺さないでください。私なら、もう逆らったりしませんから。言うこと聞きます。なんでも聞きます。だからお願い、エリオットを殺さないで……!」
その懇願は、今のアンナにとっては精一杯の「抵抗」だった。
この地下室に囚われてからの短くない時間、アンナはこの男の手でさんざんに痛めつけられていた。
アンナも最初のうちは抵抗したが、圧倒的な力の差の前に、それが無駄だと分からされるばかりだった。
アンナが抵抗するたび、彼女は痛めつけられた。
途方もない重みの拳で腹を殴られ、顔面を殴られ、あるいは剣で斬り裂かれ、突き刺されて抉られ、倒れれば蹴られ、思い切り踏みつけられた。
さらには抵抗をせずとも、嬲られた。
体も心も尊厳も、すべてをいたぶられた。
どうすれば虐待されないのかは、この男の気分次第としか分からなかった。
体に負った傷は、意識を失いそうになると、回復魔法で治癒された。
そしてまた、何度も何度も、繰り返しの虐待を受け続けた。
少女の心が完全に折れ、地べたに這いつくばって「お願いですから許してください」と懇願するようになるまで、そう長くはかからなかった。
先ほど、エリオットたちが助けに来たことを知ったときも、アンナは直感的に「無理だ」と分かってしまった。
「逃げて」と伝えなければという気持ちと、「助けてほしい」「もしかしたら」という気持ちとがぐちゃぐちゃに混ざり合って、何も言えないまま放り捨てられてしまった。
ミャーナが斬られ、血を流して倒れたのを見た。
髪をつかまれたルシアが、意識を失った姿で引きずられてきたのを見た。
最後にエリオットが首を絞められ、彼が意識を失い、今にも殺されようとしている姿を見て、ようやくアンナの体が動いた。
でも力をもってエリオットを救い出そうとは、もう到底思えなかった。
完全に心を折られたアンナにギリギリできたのが、男に泣きついて懇願すること。
それすらも、恐怖に押しつぶされそうなところを、どうにか行動まで漕ぎつけたのだ。
「ほう。自分は何でもするから、この野郎は助けろときたか」
すると男の手から、締め上げられていたエリオットの体が、どさりと地面に落ちた。
「エリオット……! あ、ありがとうございま──うぶっ!」
男に感謝の言葉を伝えようとしたアンナの腹に、男の拳が埋め込まれた。
男にすがりついていた少女が、がくりと膝をつく。
「あ、がっ……がはっ、げほっ……!」
「……おい、お前は俺に指図できる立場か? あれだけいたぶってやったのに、まだ調教が足りねぇみてぇだな」
「ご、ごめんなさ……うげっ……! か、かはっ、けほっ……あぁああああっ……!」
男はアンナの腹をさらに、つま先でもって蹴りつけ、たまらず横倒れになった少女の頭を靴底でぐりぐりと踏みつけにした。
「ハハハハハッ! いいぞ、もっと泣け! 苦しみあえげ! 俺を満足させたら許してやるよ!」
「うううっ……あぁああああっ……!」
泣けど叫べど、救いの手など現れない。
ここはマフィアの本拠地の一つで、人目につかず声も届かない地下にあるらしい。
エリオットたちがどうしてここまで来られたのか分からないが、その三人もたった今、目の前で叩きのめされてしまった。
わずかな希望はすべて、たった一人の男の手でひねり潰された。
ドン・ヴェロッキオ。
この街の裏社会を締めるマフィアの、新たな頭目なのだという。
限界突破をした覚醒者であり、力ですべてを支配しようとする暴虐の化身。
アンナは再び、この男が支配する、絶望の密室へと叩き落された。
彼女を助けにきたせいで、仲間たちまで同じ境遇に置かれてしまった。
もう何もかもが、おしまいだ。
アンナたちはこの男に尽くしながら、残りわずかな余生を生き延びるしかないのだろう。
エリオットはもう、どうしようもなく殺されるしかないのだろう。
嫌だ、嫌だ、嫌だ──
心の底から悲鳴を上げるが、無力な少女にはどうすることもできなかった。
「……ああ?」
そのとき男が、アンナの頭を踏みつける力を緩めた。
この場の支配者は、何かを警戒するかのように、廊下の先へと視線を向ける。
「……なんだ、テメェら」
やがて駆けつけた三つの足音の主を、男は睨みつける。
三人の先頭に立つ黒髪の青年は、男を睨み返し、こう返した。
「通りすがりの冒険者だよ、10万ポイント野郎」