第360話 逃走
今ならいける──少年はそう思った。
彼は洞窟から外に忍び出て、ひとまず近くの岩陰に身を隠す。
この調子で男に見つからないまま、ここを脱出することができれば──
少年がそう考えたとき、異変が起こった。
「娘が逃げたぞぉおおおおおっ!」
洞窟の中から、そんな叫び声が聞こえてきたのだ。
それは当然、洞窟の外で小便をしている男にも聞こえる声だった。
オーヴェとかいう名のホルムルンド家執事の声だ。
少年は心の中で舌打ちする。
あの執事、気を失ったふりをしていたのか。
ホルムルンド家を裏切ったあの執事は、男たちからあれだけの虐待を受けたにも関わらず、どういうわけかまだ彼らの味方をしようという腹積もりらしい。
「んだとぉ!? ──うわっちゃっ、手にかかったじゃねぇかクソが!」
小便をしていた男が、そのままのポーズで周囲を見回す。
やがて彼は小便を出し切ってから、洞窟の前まで戻ってきた。
少年と少女は、いまだに洞窟前のすぐ近くの岩陰で息をひそめていた。
逃げるタイミングがなかったのだ。
見つかったら終わりだ、と少年は思う。
少年の力では、あの男には到底敵わない。
逃げることすら、まるで叶わないだろう。
男は洞窟の前で素早く周囲を見回してから、舌打ちをして洞窟の中へと駆け込んでいく。
安堵した少年は、その隙に洞窟前を離れ、前方に広がる森の中へと踏み込んでいく。
「クッソがぁあああっ! ニルスの野郎、裏切りやがったな! ぜってぇぶっ殺してやんぞゴラァ! ──おい執事野郎、やつらどこ行きやがった!」
「そ、外です、洞窟の外! あ、あの、協力したのだから、私にも分け前を……!」
「チッ、うるっせぇんだよ!」
「ぐはっ!」
「クソッ、まずいぞ。今のうちに見つけねぇと──」
洞窟のほうから聞こえてくる声を置き去りにして、少年は少女を抱えたまま森の中を走った。
落ち葉を踏みしめる音が、ガサガサと鳴り響く。
全力疾走のような激しい動きをすれば、発動した【隠密】スキルは一時的に効果を失う。
だがこれだけ距離が離れてしまえば、多少の音が鳴ろうとも気付かれまい。
今度こそ逃げ切れる──少年はそう思った。
いや、逃げ切るんだ。
ここまでやって捕まったら、一巻の終わりだ。
少年は街──都市ラハティへと向かって一目散に駆ける。
誘拐犯たちが拠点としていた洞窟は、街を出てそう遠くない位置にある、怪鳥山のふもと付近にあった。
「なあ。お前いいやつなのに、どうしてあんなやつらの仲間をしていたのだ?」
少年の腕の中から、少女が無邪気に問うてくる。
もう助かった気でいるのかと、その暢気さに少年はわずかな苛立ちを覚える。
「後にしろ、バカ! まだ逃げ切れたわけじゃねぇんだぞ。捕まったら終わりだっての分かってんのか」
「バ、バカとはなんだ! だいたい逃げると言ったのはお前ではないか! 逃がしてくれるなら最後まで責任を持て!」
「ああもう、憎まれ口を叩くな! この場に置いていきたくなる!」
「そ、それはダメなのだ!」
少女はすがるようにして、少年にしがみつく。
少女の体は震えていた。
(こいつだけは、なんとしても守らねぇとな)
少年は心の中で苦笑しつつ、その想いをあらためて胸に抱いていた。
だが森の中を街に向かって駆けていた少年は、このときふと思い至る。
街に矢文を放ちに二人の男たちが出ていってから、まだわずかの時間しかたっていない。
このまま街に向かって走れば、やつらと鉢合わせになる可能性もあるのではないか。
それはまずい。
当然ながら少年の戦闘力では、街に向かった二人の男たちにも敵わない。
彼らに見つかれば、逃げることもままならずに、あっという間に捕まってしまうだろう。
鉢合わせになることは、絶対に避けなければいけない。
一度、別の方向に逃げるか、と考える。
だがここは怪鳥山のふもとにあたる一帯で、変な方向に進むと、最悪の場合はロック鳥の支配領域に入り込んでしまうこともあるらしい。
少年はそのあたり詳しくないのだが、男たちがそう話していたのを彼は聞いていた。
だが、ままよ。
男たちに捕まるよりはマシだと、少年は考えた。
何にせよまずは男たちをやり過ごすことだ。
隠れて身を潜めて、頃合いを見計らって街を目指す。
街にたどり着ければ少年たちの勝ちだ。
その先、男たちに秘密を握られている少年がどんな運命に見舞われるかは分からないが、だとしてもすでに賽は投げられている。
しかしそのとき、少年が失念していた事態が起こった。
「──おい、ガキが逃げたぞ! ニルスの野郎が逃がしやがった! お前ら、まだ近くにいるんだろ! 探すの手伝え!」
少年が逃げてきた洞窟の方角から、大声で叫ぶ男の怒鳴り声が聞こえてきたのだ。
驚くほどの声量だった。
まさか、聞こえるのか──と少年は戦慄したが、そのまさかだった。
「なんだとぉ!?」
「クッソ、何やってやがんだよ、バカが!」
少年が進んでいた前方、思いのほか近くから、二人の男たちの声が聞こえてきたのだ。
嘘だろ、と少年は絶望するが、状況は待ってはくれない。
彼がとっさに近くの茂みに隠れたところで、戻ってきた二人の男たちの気配が、すぐ近くまでやってきた。