第321話 密談
障子戸のそばまで歩み寄った俺と風音。
その近くにある比較的目立たない場所を選んで隠れ潜んだ。
障子戸の向こうは、おそらく応接用の座敷だろう。
高級料亭の個室を連想させる外観だ。
障子戸に映るシルエットは、卓袱台を挟んで二人の人物が座っているように見える。
障子戸の前には、廊下を挟んで、ちょっとした広さの庭が広がっている。
ししおどしが溜め込んだ水を吐き出しては、こーんと小気味のよい音を立てていた。
俺と風音が聞き耳を立てていると、障子戸の向こうからは、続けてこんな声が聞こえてきた。
「お代官様、お世話になっておりますのは、私どものほうでございます。ささっ、どうぞこちらを」
「おお~っ。これは見事な黄金色の饅頭じゃ。ずいぶん景気がよいようだな、エチゴヤよ?」
「おかげ様でございます。お代官様のお力添えあればこそ、私どもの商売も繁盛しようというもの」
「くくくっ。エチゴヤ、お主も悪よのぅ」
「いえいえ、お代官様ほどでは。ささっ、一杯どうぞ」
障子戸の向こうの二つのシルエットは、片方が猪口に酒を注ぎ、もう片方がそれを呷る絵を見せる。
それから少し、様相の違う話を始めた。
「ところでエチゴヤよ、以前に申しておったな。『神隠し』について嗅ぎ回っている、若い武士がおるようだと」
「ええ、お代官様。何かお分かりになられましたか」
「うむ。昨日に町方同心のほうから上がってきた話では、どうもトクダ・クシノスケなる小僧が小煩く訴えてきておるようだ。同心どもには、追って沙汰をするまでは決して動かぬよう命じてあるがな」
「さすがお代官様、助かります。しかしその、トクダ・クシノスケでございますか。何者でありましょうか?」
「さてな。トクダという家名に心当たりはないが、大方は貧乏旗本の一家だろう。取るに足らぬよ。確かな証拠でも握られぬ限りは、いくらでも握りつぶせよう」
「さすがお代官様、頼もしい限りでございます。ところでその絡みで、一つお代官様にお伝えしておきたいことがございまして」
「ほう、なんだ。言ってみろ」
「はい。今日の先頃のことでございます。うちの子飼いの武士たちが、狙っていた町娘をさらおうとして、失敗したとのことでございまして。獲物の気を失わせ、こちらへ持ち帰ろうとしたところ、現場に現れた若い武士たちに邪魔をされたと」
「なんだと……? よもや尻尾をつかまれてはおるまいな」
「え、ええ、それは勿論のことでございます。それで、その場に現れた四人の若造のうち一人が、その嗅ぎ回っていた小僧だったようでございます。あ、いや、実際には小僧に扮した娘だったとの報告でしたが」
「ほう……? それは面白い。嗅ぎ回っている鼠が小僧であれば始末するばかりだが、娘となれば捕まえて仕置きをし、その身が何者であるのか分からせてやるのも一興であろうな。ふふふっ、楽しみが一つ増えたというものだ。しかし四人と申したな。残る三人の素性は掴めておるのか?」
「いえ、残念ながら。そちらに関しては報告がいまいち要領を得んのですが、一人は忍びの姿をした美しい娘であったとのこと。そしてほかの二人は異国の冒険者らしき装いの若い男女であったというのですが。三人とも黒髪黒目、肌の色なども概ねヤマタイの民の特徴を示していたと申しておりました」
「ふむ……。いろいろ解せぬにせよ、異国の冒険者であれば少々面倒だな。なお深入りしてくるようであれば、どうにかせねばならんだろう。まったく、厄介事は尽きぬものだ」
「おっしゃる通りでございます」
「まあよい、追って考えよう。それよりも、わしは少々考え疲れた。そろそろ興が欲しいものだのぅ」
「おっと、これは気が利きませんで。いつも通り、地下牢まで行って好みの娘を選ばれますかな?」
「そうしよう。しばらく若い娘を手籠めにせんでいると、どうも元気が出んでいかん」
「はははっ。お代官様は旺盛でいらっしゃる。ささっ、どうぞ。こちらでございます」
「うむ」
障子戸が開かれて、奥の座敷から二人の人物が姿を現した。
すぐ近くの物陰に隠れた俺と風音は、息をひそめて様子をうかがう。
一人は小太りで初老の男だった。
仕立ての良さそうな着物を身につけている。
もう一人を立てるように腰を低くしているが、その目は油断なく鋭く光っている。
あれがエチゴヤの当主だろう。
もう一人は、金ぴかのいかにも上等そうな着物を着た、偉そうな態度の壮年の男だ。
腰には刀を挿している。
こちらがお代官様──この町の最高権力者である代官に違いない。
代官のほうは覚醒者の力を持っていると感じる。
もちろん限界突破をしている様子はなく、直接やり合えばどうということのない相手だと思うが。
問題は【隠密】スキルの効果で、この場を凌ぎ切ることができるかどうかだ。
覚醒者であっても、格下相手ならばそれなりの効力は期待できる。
今の俺たちのレベルなら、真正面から目視でもされない限りは、気付かれることはないと思うが──
風音とともに息をひそめて、緊張しながら状況を見守る。
二人の男は、俺たちがいるのとは反対方向に向かって、廊下を歩いていった。
俺たちの存在に気付いた様子はない。
俺が安堵したところで、こーんと、ししおどしが鳴った。
二人の男は廊下の角を曲がって、どこかへと向かっていく。
風音が「どうしよう」という目で俺を見てくる。
俺は少し考え、決断する。
「追いかけよう。代官が覚醒者とはいえ、よほどのことがなければ気付かれないはず」
「そうだね。行き先が気になるし」
そんなわけで俺たちは、エチゴヤと代官を追って、廊下を小走りで静かに駆けていった。