水音
朝。
昨日、昼に寝たこともあって寝つきにくかったことを除けば、いつも通りの朝だった。
今朝は足が重くなることも無く、いつも通りに登校できた。
昨日の足の痛みが無くなってることを、妹の莉珠葉に言って、颯爽と家を後にした。
それにしても…。
黒いレンズのような球、蔦江と天堂の偽物、疑問点はまだまだ尽きない。
今日の放課後に、そのうちのどれか1つでもわかれば良いんだけど。
「あら?秋野くんじゃない?」
その甘い声に俺の体は身震いした、恐る恐る声のした方を向くと…。
案の定、三鏡が少し変装をした姿でそこに居た。
「そんなに怖がらないで?もう殺したりしないから。ね?」
そんなこと言われたって、一度殺されてるのだから、どうしても怖くなる。
こんなにかわいい天使でも、俺を簡単に殺すことが出来る。
改めて、その天使という存在に背筋が凍る。
「な、なんの用なんです?指輪なら渡しませんよ…。」
外すだけであんなに不幸が訪れる指輪だ、天に返してる間に死んでしまうなんてことも有り得るだろう。
天に返すのにどれだけ時間がかかるかはわからないけど、現状維持が一番。
それに…天堂からもらったものだし。
「指輪はまた今度ね。今は出勤中だし、指輪に触れずに取る方法も見つかってないから。」
「見つかってないって、神様にも、天使がこの指輪を奪い取る方法は、わからないってことですか?」
「いえ、神様は知ってると思うわ。なんせ、指輪を浄化出来るほどですもの。
ただ、その方法が私みたいな新人天使に出来るかどうか。」
ん?新人?新人とかあるの?天使に?
「あ、もうこんな時間。それじゃあまたね。秋野くん。」
俺がそんなことを考えていると、そそくさと先に行ってしまっていた。
天使と女優で板挟みか、大変そうだなぁ。
と、また咄嗟に健の会話と同じ反応になる。
…あ。
シールのこと聞くの忘れてたな。
まぁ、当事者だとしたらそもそも俺が普通に歩けている時点で不思議がるものだと思うし。
あの感じからしたら、何も知らないと考えてもいいのか?
確証は持てないが、今はそういうことにしておこう。
それよりも、今日は考えることがある。
「おはよう聖雅。昨日は大丈夫だったか?」
教室に着くなり、健が俺の体調を心配してくれていた。
「あぁ、もう全然大丈夫」
「そうか?ならいいんだけど。
最近、お前休み多いから何かあったのかと思ってさ。
悩みとかあるなら相談のるぞ?」
そういえば、三鏡に殺されかけたのと黒い球体とで立て続けに2回も休んでたっけな、心配されても仕方ないか。
「健こそ、傷はもう大丈夫なのか?」
「あぁ、おかげさまですっかりな。
それにしても不思議なんもんだよ、きーちゃんから貼ってもらった絆創膏を貼ると、一日でどんな傷でも回復するんだからさ。」
「どんな傷でも?」
それはなんというか…不思議な話だ。
前に見た健の傷は、まるで鞭打ちでもされたかのようにボロボロだった。
そこに上から被せるようにひとつの傷に絆創膏が貼ってあっただけだったはずだ。
隙間もだいぶあったし、絆創膏程度で3-4日で治るほどの傷じゃなかった。
少なくともカサブタは出来てるもんじゃないのか…?
普通に考えてそんな絆創膏があるわけが無い。
…のだが。
「ちょっと傷見せてくれないか?」
「おう。っていっても、もう跡形も無いけどな。」
見せてもらった箇所にはカサブタどころか、1度剥がして貼り直したかのように綺麗な皮膚になっていた。
これは健の回復力が凄いのか、それとも…。
「なぁ、健。その絆創膏、ちょっと貸してもらうことって出来たり」
「しないよ。」
「うおっ!?」
俺の会話を遮るように、急に星乃が俺の背後から話しかける。
心做しか、すこし顔が強ばって見えるのは、健の時間を取りすぎたせいだろうか?
束縛が強い気があるからなぁ星乃は。
「健くん、ちょっと。」
「えっ?どうしたきーちゃん?
…きーちゃん?」
そのまま、俺を残して2人は教室を出てしまった。
あの絆創膏、相当貼っておくように念を押していた、きっと星乃にとって、大事な物なんだろう。
それを貸してくれって言うのは少し野暮だったか。
…健にも色々と聞くことが出来てしまったな。
2日分の遅れもあったためか、休み時間に授業を取り戻すのに精一杯で、また健に話を聞くことが出来なかった。
というか、今日は朝以外で健と話すことすらなかったな。
健と俺は、星乃が居るとはいえかなり教室内で話すことが多かった仲だ。ここまで話さないのは初めてってくらいに。
朝の事が星乃にとって、余程嫌な事だったのだろうか?
明日、星乃と健にしっかり謝っておかないとだな。
さて、ここからが今日の本題だ。
会う約束をしたのはこの教室に、放課後誰もいなくなった頃に来るように言ってあった。
天堂には…。
ポツン。
考え事をしていると、突然その水音が聞こえた。
おかしい。この教室には花瓶は愚か、水が滴るような物は廊下にもない。
外も雨は降っておらず、汗も今初めてかく冷や汗が最初だ。
ポツン。
また聞こえる。
今度はさっきよりも大きな音で聞こえた。
聞こえたというか…"響いた"?
とにかく何かがおかしい感じだ、ここにいちゃいけないような感じがする。
自然と片足が後ろに下がり、荒くなる呼吸と鼓動が俺に危険信号を送っている。
ボトン。
また聞こえたっ!
今度はもっと大きな雫が落ちた時のような重い音だ。
後ろに下がった片足は、その謎の音にビビって震える。
緊張した俺は、外の部活動の声など耳に入らず、ただしっかりとその水音に耳をすませる。
ボトン。
音がまた大きくなった!
いや違う!これは…!
「チェックメイト」
その大人っぽい済んだ女声は。
俺の後ろで、学校指定の可愛らしい制服とは裏腹に、冷たく鋭い包丁を俺の後頭部へ向けていた。
この子は一体誰なのか。いつのまに回り込まれたのか、あの水音はなんなのか、そんなことはどうだっていい。
今はそれよりも、この状況をどうにかしなければならない。
「動かないでね?手元狂うから。」
逃げようとした俺の筋肉がピクっと動くが、その筋肉を止めるように全力で静止する。
こんな時に合気道や運動神経が良ければ逃げ切ることだって出来たのかもしれない。
こんなことなら、しっかり体育の授業などは受けるべきだった…。
悲しいかな、止めようにも足の震えが止まらない。
このせいで殺されたりしないだろうか?助けを呼んだ方がいいんじゃないか?
そうだ!助けだ!
俺は蔦江とバクに約束をしているはず!
蔦江はまだしも、バクは魔力があって何かしら出来ると言っていた。
咄嗟に助けを呼ぼうと、声を出そうにも喉から出ない。
信じられない!
本当に命の危機に陥った時ってのは、こうも声が出ないものなのか!
すると、そんな声の出ない俺をそのままに、後ろの彼女は俺の指から指輪をナイフでスゥ…っとゆっくり外していった。
チリンチリン。
指輪が俺の指から落ちる音が、教室に響いた。
終わった…。
この上、更に不幸が俺を襲うっていうのか。
泣きっ面に蜂とはまさにこの状況だろう。寧ろ、泣いてないのが奇跡だとも思える。
あぁ、神様。
いや、悪魔の契約してるやつが何を神頼みしてるんだって感じではあるが。
そんな場合じゃない。
もう神様でもなんでも、天使でも悪魔でもなんだっていい。
誰か…っ!助けてくれっ…!
首の後ろ。項の部分に冷たい鉄の感覚を感じる。
「よし、本物。もう用済みだから。
私の事、他の人間に色々言われるのも困るし。
バイバイ。」
避けろっ…!避けろっっ…!避けろっっっ!!!
俺の体は、何度も何度も逃げようと、動かそうと筋肉に命令を送るが、足が動かない。
項に当てた包丁をゆっくりと引き、勢いよく人間の項目掛けて突く!
ザスッ。
その包丁は、完璧に人間の項の肉を割き、柄の部分までしっかりと体内を刺してしまっていた。
彼は、秋野聖雅は。
悪魔と契約し、その人生を終えたのであった。