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何も起こらない世界

作者: 奈宮伊呂波

恋愛ものですらないように思います。でもこういうことの方が世間では多いと思います。感想お待ちしてます!

 服を買いに来た。

 今年から仕事を初めて、二か月がたった。働いてばかりでろくに買い物もしていなかったので、今日は自分へのご褒美だ。

 といっても高級アパレルを訪れるわけでもなく、家の近くにあるショッピングモールの、いつもお世話になっているお手軽価格のアパレルに向かった。

 そこで暗めの青色の七分袖のトレーナーを見つけた。通気性がよく夏場を過ごすのに心強い味方になってくれるだろう。


 ついでに、仕事用の靴が汚れてきたので新しい靴でも買おうと思ったのだが、いいものに巡り合わなかったのでやめておいた。


 ともあれ、いい服を見つけた(お値段たったの二千円! セールで半額だったらしい)ので、ほくほく気分でモールの通路を歩いていると、特設のランドセル売り場があった。

 子供なんているはずもない。それどころか彼女すらできたこともないので、結婚なんて夢のまた夢だ。

 素通りしようとしたのだが、


「高っ!」


 ちらりと見た値札にはなんと七万円と書かれていた。

 つい、さっき買った服が三十着は買える。なんてまったくもって意味のない計算をしつつ、小学校入学の際にランドセルを買ってくれたおじいちゃんに感謝した。

 いや、七万円とかいくら孫でも俺なら出したくない。


 しかしよく見てみると、そのランドセルには見たことのあるキャラクターの刺繍が控えめに施されていた。

 母が好きで、その影響で何度もアニメを見た。たぶん、全話五周はしただろう。

 ムーミン。

 懐かしい。


「いらっしゃいませー。どうぞ見ていってください」


 店員だ。

 見れば、若い女性だった。

 まず最初に、可愛い、と思った。マスクをしているから顔の全容は分からないが、かなりかわいい。

 うっすらとした茶色が混じった黒髪で、ちょっとしたフリルみたいなものが付いた白いシャツに、青いジーパンを履いている。仕事用の服装だろう。目と鼻など見えるパーツはなかなか整っている。年は俺と同じくらいに見える。


 一瞬で色々見すぎで気持ち悪いだろうか。でも許してほしい。俺には恋人ができたことがないのだから。女性に耐性がないのだ。


 彼女は自然な営業スマイルで、かなりフレンドリーな口調だった。声は営業用のものではなくて、普段のトーンに聞こえた。だからフレンドリーに感じたのだろう。


「ランドセルって、こんな高かったんですね」


 普段なら「あ、はい」と店員は半ば無視する俺だが、そんな彼女に当てられてか、話しかけてしまっていた。


「そうなんですよー。私達の買ってくれて感謝って感じですよね」


「ほんとですよね。僕なら買うの躊躇しちゃいますよ。七万は」


 給料の三分の一じゃん。きついって。


「ていうかもう売ってるんですか?」


「そうなんですよ。六月ぐらいにはもう買ってるみたいです」


「あー。それで準備完了でわくわくしてる、みたいな?」


「私たちの時もたぶんそうでしたよ」


「そうですね。っていや覚えてませんよ」


 もう十六年も前のことだ。無理無理。小学一年生のころなんてほとんど覚えてないって。覚えてることもあるけどさ。


「ですよねー。あ、お兄さんはランドセル何色でした?」


「黒色、あ、いや。紺色?」


「あー、やっぱ。男の子はそうですよねー」


 彼女がちらりとランドセルに目を落とす。

 黄土色のランドセルだ。


「男の子のは向こうにあるんですよ。鬼滅の刃とコラボしてるんです」


「へえ」


 女の子はムーミンで、男の子は鬼滅の刃か。時代に差がありすぎる。


「ムーミンって今の子に人気あるんですか?」


「ありますよ。お母さんの影響で見る子たちが多いみたいです」


「あー」


 納得だ。俺もそうなのだから。


「この前クイズ番組を見てたんですよ。答えがハンモックの問題があって、父が『ハンモックなんか今の子は知らないんじゃないか』って言ってたんですけど、うちはムーミンを見てたから兄妹全員知ってて。ムーミンに出てるからみんな知ってるでしょ、みたいな話になったんですけど、そもそもムーミンがそんなに知られてないって話になったんです」


 お姉さんは初めの方、何の話だとでも言いたそうな表情だったが、質問した理由を言ったのかと納得したようだ。

 そういえば去年はムーミン展もあったな。母と妹は行ったみたいだけど。


「あー。でもやっぱり人気ですね」


「カバが?」


「カバが」


 二人でくすくすと笑いあった。

 それにしてもこの人は俺とこんなに話していていいのだろうか。そう思って他の従業員を見てみると、やはり接客していた。俺と違ってちゃんとお子さんがいるお客にだ。


「それじゃあそろそろ帰ります」


「はい。明日もやってるんで、よかったら来てくださいねー」


 しっかり営業も忘れない彼女は、販売員の鏡のようだと思った。


「明日もやってるんですか?」


「はい。今日と明日の二日間やってます」


「なるほど。子供ができたらまた来ますね」


「あはは。お願いします」


 彼女の言葉を聞いた時には振り返っていたので、俺の捻りの効いた返しがウケたのかどうかは確かめられなかった。

 駐車場に向かいながら、俺は今の出来事について考えていた。


「ナンパか?」


 まあ、どうってことのない雑談だろう。今のがナンパだというなら普通の会話すらもナンパになってしまう。

 いや待て、ナンパってそういうもんか? 見知らぬ人と談笑できたのだからナンパにしては上出来。ナンパなんてしたことないけど。


 この後、俺は車で家に帰った。


 ◆ ◆ ◆


 このショッピングモールで仕事をするのは二回目だった。

 去年は新人で、私は分からないなりにそこそこやれたと思う。ランドセルもいくつか買ってくれたし、お客さんも笑顔で帰って行った。

 今年はもっとできる。

 まあ、二年目だから当たり前なんだけどね。


「ありがとうございました!」


 今も一組の親子がランドセルを購入していった。ムーミンの刺繍が入ったランドセルだ。

 お支払いは一括を選択されていたので中々お金持ちなのだろう。

 私は深く下げた頭を下げて、次のお客さんに目をやった。


 売り場には一人しかいなかった。男性だ。しかもかなり若い。学生かな? 私と同じくらいの年齢だ。

 背は私よりもそこそこ高いぐらいで、顔は優しげで、髪が短め。服は黒いズボンで、灰色の七分袖のシャツを着ている。全体的に見て清潔感があって、好感を持てる青年だ。

 年齢からして、どう見てもランドセルを買いに来た客ではない。


 まあでも、こういうお客さんも今のうちに捕まえておけばゆくゆくは売り上げに貢献してくれるかもしれないし。

 そんな思いで私は営業トークの準備を進めつつ、彼に近づいた。



 正直、ちょっと楽しかった。

 まさかムーミントークで一盛り上がりするとは思わなかったし。

 んー。でも売上には貢献してくれなさそう。少なくとも五年間はない。結婚とか考えてなさそうだし。親戚の子に上げる予定も、まあ、ないだろう。最後に「子供ができたらまた来ます」って冗談も挟んできたし。

 でもまあ楽しかったからいいか。彼もちょっと楽しそうだったし。話してて全然気を使わないでよかったし。あ、いや別にお客さんとして無下にしているわけではなく。

 同年代の人と話すのはたとえお客さんでもわりと気が楽だ。


 ◆ ◆ ◆


 仕事が終わった。

 時間は午後四時だ。早いだろう。朝八時出勤だからな。

 最初は起きるのがきつかったけど、もう慣れた。前の研修先でもほとんど八時からだったし。早寝早起きが染みついてきた。

 学生の時は深夜に寝て、昼前に起きていた。若干不健康だったので今の状況はそれなりに気に入っている。やはり健康はいい。


「ただいまー」


 家の玄関を過ぎて、二階のリビングに上がって言った。

 この時間だと誰もいない可能性もあったが、階段を上る途中でリビングに電気が点いていることは分かっていた。


「おかえりー」


「おかえりー」


 母と弟がいた。

 母はダイニングでスマホを弄っている。弟はテレビゲームをしている。こっちに向いたのは一瞬で、画面に向かって話し始めた。ヘッドホンを付けているからボイスチャットをしているのだろう。


「どっか行くの?」


 母が尋ねる。

 俺がおもむろに着替え始めたからだ。まあ、仕事が終わったら汗もかいているし、この時期は蒸し暑いのでどっちにしろ着替えるけど。


「ちょっと靴買ってくる」


「靴?」


「仕事用の。今の奴汚れてきたから」


 茶色のニューバランスはもう二年ぐらい使っている。学生の時はバイトに、今は仕事に。それと外出時も昔はこれを使っていた。

 それだけ使っていれば、当然汚れる。というか、あの靴は使い始めて一週間ぐらいでもう汚れが目立っていた。なんなら購入時にはすでに黒い染みがあったような気もする。覚えてないけど。まあ、リユース店で買ったので文句は言えない。


 そんなわけで。

 俺は靴を買いに行くのだ。昨日もちょっと考えてたしな。どこに? 昨日と同じショッピングモールに。


「行ってらっしゃい」


 弟も連なって「行ってらっしゃーい」と言う。ヘッドホンしながらでも聞こえるんだな。

 一階に降りて、綺麗めな服に着替える。ズボンは黒いチノパンなのでそのままだ。服を着る前に汗を拭きとることも忘れずに。


 そうして玄関を出て、車に乗り込む。

 ショッピングモールまでは十分ほどかかった。近場だが休日なのでけっこう道が混んでいたのだ。

 仕事用のカジュアルな黒い靴を購入した。


 さて。


 どうするか。


 どうしよう。まじでどうしよう。あー、どうしよう。

 ランドセル売り場に行くべきだろうか! これが昨日からずっと頭から離れない。

 もし、もしだよ。彼女に声をかけて、向こうも俺のことを覚えていて、今日もわりと楽しく話せたら、そのままお茶でもしませんか? なんて言って仕事終わりの彼女を誘い出せたりなんて出来ちゃったら!


 いや、できるわけないけどさ。だって俺、彼女いたことないんだよ? そんな人間がいっちょ前にナンパみたいなことできるわけないって。ていうかナンパだし。


 でも、成功か失敗か、ではない。こういうのは経験だ。どっかの誰かもそう言っていた気がする。


 だからまあ。妥協しよう。妥協点を見つける。そうだな。現在時刻は午後五時半。ランドセル販売は何時までか知らない。だから、もしまだ販売していたら、行こう。

 行って、「あ、お姉さんこんにちは」なんて言ってみよう。それでもし、彼女が「あ、来てくれたんですねー」なんて言ってくれれば、誘ってみる。それでどうだ。おかしなことはない。おかしいことだらけだけど。大丈夫なはずだ。

 よし、それでいこう!


 二階に下って、ランドセル販売所の近くまで来た。

 話しかけに行こう、と決めたと言ってもやっぱり恥ずかしさとか、覚えられていなかったらどうしようとか考えてしまう。もしそうだったら行かない方がいいな、と否定材料にしてしまう。


 やめとく? いや。やめない。

 ここで話しかけなかったら、多分後悔する。

 今までもずっとそうだった。ちょっと仲良くなってもそれ以上はない。一線を引いて「俺はそんなのに興味ないですから」みたいな態度を誰に向けるでもなくとる。

 そして後悔する。いつもの流れだ。それが俺のあたりまえ。だから平気かって言われるとそうでもない。


 誰かに好きと言ってもらいたい。認められたい。親とかじゃなくて、自分に贔屓目なしの他人から、認められたい。


 そうするためにはいつまでも受け身じゃだめだ。自分から動かなくては、だめだ。

 だから、そう。やっぱり俺は行くべきなんだ。


 ◆ ◆ ◆


 二日目ということもあって、お客さんの数は少なかった。まあ、そりゃそうだけどさ。一日目にランドセル販売をしていることを知って、今日また来てくれた人も中にはいるけれど、それは圧倒的に少数派で、大多数の人は一日目に訪れてくれたようだ。


 午後五時半。

 販売は終了し、後片付けに取り掛かっている。ランドセルを一つずつ丁寧に分解して、箱に入れる。結構な数があるので大変だ。そのあとは展示用の机をバックヤードに戻すだけだ。


 立ち上がった時に、視界に入った。

 向こうも私の方を見ていたようで、ばっちりと視線が交差した。


「あ、今日も来てくれたんですね」


 ランドセルを箱に戻しながら私が言うと彼が一歩近づいた。


「ええ、まあ。ちょっと用事で」


 そういう彼の手には店の袋が垂れ下がっていた。


「何か買ったんですか?」


 目線を落として尋ねた。今は仕事中で、営業中ではないのであまりお客さんと話しすぎるのはよくないけど。先輩たちも片づけしているし。


「靴を買いました。仕事用の。かなり汚れてたんで」


「あー。ランドセルは買わないんですか?」


「すみません結局子供できなかったので」


 くすくすと笑いあった。


「今日は仕事帰りです」


「あ、そうなんですね。お疲れ様です」


 てっきり学生だと思ってた。見た目、若いし。


「何の仕事してるんですか?」


「……スーパーです。今は研修中で」


 彼は一瞬口ごもった。あまり言いたくなかったのかな?


「研修中ってことは、一年目ですか?」


「そうですね」


「大変ですよねー。私も去年そうでした」


「お姉さん二年目なんですね」


「そうなんですよ」


 パッと、会話が途切れる。

 私は依然として撤収作業中だから、気を使って話をやめたのだろうか。

 まあどっちでもいいけど。

 ややあって、彼が言う。


「それじゃあそろそろ行きますね」


「はい。ありがとうございました!」


 作業を止めて軽く会釈をすると、彼は踵を返していった。

 エスカレーターで上の階に上がったようだ。まだ何か買い物をするのだろう。

 や、まさかまた来てくれるとは思わなかった。まず間違いなく結婚してないだろうし、子供もいるわけない。そんな人がわざわざ二度も訪れるなんて珍しいこともあるもんだな。


 ◆ ◆ ◆


 俺は三階に上がって、フロアをうろうろしている。

 自分がしたことを省みて、自己嫌悪に陥っているのだ。


 あー。失敗した。

 結局、言えなかった。向こうも覚えてくれていたし、言っても良かったはずだ。それなのに言えなかったのは、ひとえに俺がチキったからだ。

 いやだって、やっぱ無理だって。軽い感じで「お姉さん、これからお茶でもどうですか?」なんて、言えるわけない。


 でも、いいのか?


 無理だと思う自分とは別の自分が問う。

 このままおめおめと車に乗って帰ってしまうのか。それで満足するのか、と。

 答えは決まっている。そんな疑問が出てきている時点で、すでに答えは出ている。


 満足するわけがない。


 もう後悔するのは嫌だ。俺にだって女の子と楽しい時間を過ごす権利ぐらいあるはずだ。

 そうだ。失敗したって、断られたっていいじゃないか。どうせ二度と会うことも無いだろう相手だ。成功すれば儲けもの。それぐらいの気持ちでいいんだ。


 決意を新たにすれば、俺の足は軽くなった。

 二階におりるエスカレーターに乗った。すぐにランドセル売場が見えた。お姉さんはまだ作業中だ。他の従業員は近くにいない。

 今がチャンスだ。


「あの! お姉さん」


 近くまで行って、いつもより五割増ぐらいの声量を出した。

 お姉さんが振り返った。すこし驚いているようだ。まさかまた会うとは思っていなかったんだろう。


「どうされました?」


「実は、靴を買いに来たって言うのは半分嘘です」


 お姉さんは要領を得ないみたいだ。

 俺の声は上擦っている。緊張してるのが自分でもわかる。心音を聞く余裕もない。でも、声は震えてない。わりと丁寧に発声できている。


「ほんとはお姉さんに会いに来ました」


「え、あ、ありがとう、ございます」


 戸惑っているようだが、若干笑みが浮かんでいる。少しでも嬉しいと思ってくれてるなら、大丈夫だ。


「お姉さんの仕事が終わったら、スタバでも行きませんか?」


 急だ。急すぎるお誘いだ。俺が彼女でもそう思う。

 彼女は後ろを二、三度見た。他の従業員の様子を伺ったようだ。


「えっ、と。片付けまだ時間かかります、よ?」


「どれくらいですか?」


 お姉さんはポケットから出したスマホを確認した。


「六時半、ぐらいには終わると思います」


「あー。それぐらいなら全然大丈夫です」


「わ、わかりました。じゃあ、いいですよ」


「まじですか。良かったです! それじゃこの辺で待ってますね!」


「はい」


 作業の邪魔をしないよう、俺は颯爽とその場を離れた。

 一階の書店を何を求めるでもなくさまよう。ふと、荷物が邪魔だなと思った。

 一度モールを出て、隣接している駐車場に向かった。三階にある車に戻り、運転席のドアのレバーに触れた。ピッピ、と電子音が響き、靴の入った袋を助手席に投げ入れた。


 よし、と呟いて、駐車場から出る。モールに戻り、何度も階層を移動して、時間を潰す。

 はたから見れば俺は完全に不審者だろう。


 やがて時刻は六時二十分になった。俺はランドセル売場に向かった。まだ作業をしていた。別の業者の人もいるようだ。搬出員だろう。

 彼女の視界に入っていると、気恥ずかしくなるので、柱の裏側に回った。そこで時間を気にしながら、電子書籍に目を落とす。


 六時半になった。

 柱から顔を出すと、ランドセル売場は綺麗さっぱりなくなっていた。

 彼女はいない。

 多分、搬出作業とかがあるのだろう。そう思って、今度は柱の表側でもたれかかった。


 それから一時間、俺は待った。


 彼女は、とうとう現れなかった。


 ◆ ◆ ◆


「よし、じゃあ今日はこれで解散。みんな、二日間お疲れ様でした」


 六時二十五分。

 この現場の責任者のである、年配の上司が言うと、みんな一気に弛緩モードに入った。

 おつかれー、と口々に先輩たちが言って、それぞれの帰路に向かった。

 いつもなら私もそこに加わるのだけど、今日は違う。

 まさか、ナンパされるなんて思ってなかったけど、どうやらそれは事実みたいだ。

 ほら、これが証拠というふうに見せられるものは無いけど。あんだけはっきり聞こえたし、間違いない。


「行こう」


 仕事用の服だからちょっと硬いけど、それはまあ仕方ない。

 私は一歩、踏み出した。二歩目を出そうとして、踏みとどまった。


 彼はどこにいるんだろうか。


 いや、ちょっと待って。大丈夫。分かるはずだ。

 確か彼は「その辺で待ってます」と言っていた。

 青い七分袖のシャツに、黒いズボン。それと同じ色の短めの髪の毛をしていて、優しい顔の私よりそこそこ高い身長。

 視界を一周してみても見当たらない。


 うん。どうしよう。

 あ、でも。そういえばスタバでも行きませんか、とも言っていた。

 それならスタバに先にいるんじゃないだろうか。んー、多分そうだね。


 それなら、と、私はエスカレーターで一階に降りて、本屋の中にあるスタバに入った。

 スタバの座席を確認する。


 いない。


 いないね。

 え、ちょっと待って。もしかして、バックレられた? やっぱりこの女、あんま可愛くないとか思われてた?

 いやいや、それにしては、けっこう一生懸命だったよな。遊び感覚で誘ったわけじゃないと思う。まあ、ナンパだから遊びっちゃ遊びなんだけどさ。

 それとは別に、真剣味も感じた。だからオーケーした。


 よし、あと十分待とう。それで来なければ、もう帰ろう。


 十分経った。

 彼は来ない。

 もしかしたら、なんらかの事情で遅れることになってしまった、とか。

 連絡先を交換してないから連絡もできないし。今頃急いで用事を済ましている、とか。

 そう、かもしれない。

 や、でも可能性低いよね。


 帰ろう。


 あともう十分待ってから。


 私は十分後に帰り始めた。一抹の寂しさを胸に残して。

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― 新着の感想 ―
[一言] 今回も非常に素晴らしい!毎回のように書くが、これぞ奈宮作品だなぁという感じ。 ストーリーに直結しないジョークも心地よい。しかしそのジョークに男性の人生や人柄を強く感じる。 流れがとても綺…
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